第十六話-③:金曜日


「これは以前にもお話した、私がお母さんの猫アレルギーを知る前の話です」


 秋野は息を整えて、続けた。


「先輩たちも知っての通り、小さい頃から猫が好きで、いつかは猫を飼いたいとずっと思っていました。動物番組は全部録画して見ていたし、猫を飼っている子の家に遊びに行ったりもしていました。そうして、日に日に『猫を飼いたい』って想いは強くなっていきましたが、当然、お母さんは猫アレルギーなので、何度お願いしても許可はおりませんでした」

「ああ、それは聞かせてもらったな」


 概ね、SA部で聞いた内容と同じだ。


「この話には、まだ、続きがあるんです」

「続き?」

「小さい頃の私は、本当に無学で察しが悪くて、何を勘違いしたのか『お母さんは猫が嫌いなんだ』と思ったんです」

「それは、でも、子供なら普通だろう。俺だってきっと秋野と同じことを考えたと思う」


 家族がペットを反対する理由として、まず考えるのは好き嫌いだろう。飼育環境や金銭面も大きな障壁となりえるが、好き嫌いの問題もそれと同じぐらい重要な項目だ。


「それだけなら、良かったんですけどね」


 髪を耳に掛けると、秋野の自嘲気味に微笑む表情が姿を現した。


「お母さんが猫嫌いだと思った私は、どうすれば猫を好きになってもらえるかを必死で考えました。登下校中も授業中も、お昼休みに図書館で調べものをしている時だって、ずっとその事を考えてました。その頃です、クラスの子が近所の公園で野良猫を見つけたって話題になったんです。茶トラで毛がふっさりと膨れたその猫は、いつも砂場でゴロゴロしていて、みんなからゴローと呼ばれていました。人懐っこくて、触っても逃げないし、なにより人が寄ってきても無警戒にお腹をみせる愛嬌に、ゴローは一躍人気ものになりました。動物を飼ったことがない子も、小さい頃に引っ掻かれて猫が嫌いだった子も、ゴローに触れた人はみんな、ゴローの虜になっていました」


 小学生らしい、微笑ましい思い出話じゃないかと聞いていたら、途端、秋野は声音を低くして、表情を曇らせる。


「その時、思っちゃたんです。『ゴローのような猫に触れれば、お母さんも猫を好きになってくれる』って。お母さんも、猫を飼っていいよって、そう言ってくれるって」


 俺はこの時、幼少期の秋野がその後何をしたのか、結果どうなってしまったのか、ことの顛末までハッキリと想像できてしまった。その結果が、秋野と母親の、どちらもが望まぬ結果であったことも、すぐに理解できた。


「その日、みんなと一緒にゴローと遊んだ後、私は隠しておいた段ボール箱に持ってきた数枚のタオルを敷いて、その上にゴローを乗せて家まで持って帰りました。家から公園までは少し距離があったけど、その時の私には、『早くお母さんにゴローを会わせたい』としか頭になくて、腕の疲れなんて微塵も感じませんでした。家まで着くと、ゴローの頭にタオルを一枚かけて、インターホンを鳴らし、きっと驚くだろう、きっと好きになってくれるだろうと期待して、扉が開かれるのを今か今かと心待ちにして、それで、それでっ」

「大丈夫だから秋野、一旦落ち着け。ゆっくり、ゆっくりでいい」

「……はい」と深呼吸をすると、震えた唇を噛み、秋野はむりやり気付けをほどこす。


「いつものように、扉を開けたお母さんが私を迎えて『それはなあに?』って膝をついて屈み、段ボールの中身を聞きました。そして、私が答えるのと同時ぐらいに、ゴローが、お母さんの膝の上に飛び乗ったんです」

「……それで、どうなったんだ」

「お母さんは……、お母さんは突然、得体の知れない恐ろしいものに遭遇したような表情をして言いました『早く、外に出して!』って。私は、初めて聞いたお母さんの、竦むような怒声に驚いて、すぐさまゴローを引きはがして玄関から一目散に逃げだしました。普段怒ることも叱ることもしないお母さんの、鬼気迫る声に、ただ、怯えて逃げる事しかできませんでした」


 俺は話を聞いているうちに、自分の胸の奥がざわつくのを感じた。恐ろしく寒気がして、かじかむように手が震えた。秋野のトラウマが、まるで自分のものにでもなってしまったかのように、身体がトラウマに支配されていく。


「走って、走って、気が付けば公園にいて、ゴローを砂場に戻したあとも、私はベンチに座って帰れずにいました。ちょうど、先輩が座っているあたりです。約束の帰宅時間を破って、段々日は沈んで暗くなるのに。消えかかってたよりない公園の街灯の下で、怖さは増していく一方なのに、それでも、あの声が、耳から、離れなくて、動けなくて」


 秋野の拳に、溢れた涙がこぼれて落ちる。


 俺は「もういい、もういいから」と取り出したハンカチを拳の上に置き、言葉を止めようとした。


 しかし、秋野は首を縦には振らなかった。


 瞼に溜まった水を、手にしたハンカチで拭い取り、続ける。


「少しして一台の車が停まりました。暗くてよく色が分からず、お父さんが近づいてくるまで自分の家の車だとは気付きませんでした。もしかしてお母さんに言われて迎えに来たのかな、と思うのも束の間、『すぐに車に乗りなさい』って言って、車を家とは違う進路に走らせました」

「家とは違う……まさか!」

 

 事の顛末は想像よりもかなり違っていた。







「着いたのは、病院でした」


 それも、限りなく悲惨な方向に。 







「お父さんと一緒に手を引かれて入った病室には、お母さんが人工呼吸器を付けて眠っていたんです。腕に大きな斑を付けて、打ち付けられたような赤い痕が浮き上がり、静かに眠っていたんです。全て、自分がやらかしたことだと悟りました」


 猫を調べる過程で、アレルギー症状についても調べたことがある。軽度のものなら咳、目のかゆみ程度だが、重度のものになると身体が赤く腫れ、気道がふさがり、ろくに息もできないほどの症状となって表れることがあると。


 秋野の母親は、まさに後者のほうだった。加えて、触れたのは普段から外で遊びまわる、とても衛生的とはいえない野良猫だ。普段から砂場で寝転んで遊んでいたのであれば、なおさらだろう。


「私が猫を飼いたいなんて思わなければ、猫アレルギーのことを知っていれば、勝手に猫を家に持ってきたりなんてしなければこんなことにはならなかったのに。私が怯えて逃げていなければ、お母さんの症状はあんなに悪くならなかったかもしれないのに! 全部、全部全部全部、何から何まで、私が悪いんです」

「っ、いや、だけどそれは……」


 それは、結果論だろう。


 そう言おうとして、言いとどまった。


 結果論だからなんだ。


 秋野が母親を気づ付けてしまった事実は変わらないし、トラウマは消えない。それに、そんな言葉を投げかけられたところで微塵も救われないことを、俺自身が一番よく分かっている。


『雅人は悪くない』


 違う、そんなわけない。俺が悪いんだ。


『雅人は気にしなくてもいい。そんなこと、だれも望んじゃいない』


 知っている。誰よりも愛を捧げてくれた人たちの事を、俺が一番よく知っている。でも、だからこそ、俺が抱えるべき記憶だから、忘れてはいけない記憶だから、この記憶こそが今の俺である根底にあるのだから。


 だけど、それを誰かに諭されたところで微塵も納得なんてできない。意味がない。秋野自身が結論を出すし、ケリをつけなければならない事だ。


 だから、俺には、何も言ってやれない。


 目の前で涙を流す後輩を前にしても、一言も、言葉はでてこない。


 美少女ゲームの主人公のようにきざったらしく、不器用に、それでも精一杯、言葉を尽くして励ますということが、俺にはできなかった。


 あの日と同じ公園のベンチに座る、茨のような過去を語ってくれた彼女の隣にいるべきは、ただの男子高校生ではなく、救いの手を差し伸べる力をもった主人公の存在だったのかもしれない。そう、思うことしかできなかった。

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