第十六話-②:金曜日


「大福……」


 それは、俺が初めて出会った時と同じ、香箱座りで絶妙にバランスを取り、どうしてそこに収まっているのか不思議なくらいすっぽりとはまった大福の姿があった。


「ほら秋野、見ろ。別にお前は嫌われてなんかないんだって。今までは本当に、たまたま運悪く大福のいない箇所を探し回っていただけだったんだよ」

「は、はい。そう、ですね」

「おっと、あんまり大きな声を出しちゃまずいか」


 せっかく出会えたのに俺の声で振り出し、なんて目も当てあられない。


「ほら、秋野」と小さく秋野に声を掛け、背中を軽く押してやった。


 背を押された秋野はぎこちなく頷くと、そのままゆっくりと小さな歩幅で、音を立てないよう静かに近づいていく。


「大福、これ」


 秋野が取り出したのは、真っ白い猫がイラストされた、細長い棒。猫のおやつと言えばでおなじみの猫チュールだ。


(『餌で距離を詰める』は、あの恰幅のいい大福相手にはかなり効果的だろう)


 秋野は最初、餌を使って仲良くなることは、モノで気を引くような行為ではないかと敬遠気味だったが、互いを知るための友好の印であり、あくまで最初の一歩を円滑にするためだと力説することで、多少強引ではあったが理解してもらえた。


(まあ、秋野が敬遠するのもよくわかるけど)


 実のところ、これは餌で釣っているのと変わらない。しかし、野良猫の警戒心の強さはすぐにどうこうできるものではなく、それこそ飼い猫になって寝食を共にしていたって、関係を築くのに苦労する飼い主が多いと、この三日間調べ続けて解ったことだ。


 相手は愛玩動物とは違う。


 俺たちと同じ、生きている生命体だ。


 それが、何のメリットもない人間のところに、みすみす危険を冒してまで近づく何てのは、楽観的に見積もっても難しいだろう。ただ、それでも、秋野がいう『人間の本質』とやらが本当に見抜けるというのであれば、彼女に触れ、わざわざ避けるなんてことはしないはずだ。


「頑張れ、頑張れ秋野……」


 秋野は封を開け腕を伸ばす。以前のように血気迫るような強張りはなく、あくまで冷静に、程よい緊張を飼いならしている様子だった。


 大丈夫、まずは触れたという体験を、相手が近寄ってきてくれたという成功を収めるだけで十分すぎるぐらいだ。


 俺は手に汗握る思いで秋野を見守り、緊張がうつらないよう必死で息を押し殺す。


 少し、また少しと近づき、秋野の手が大福に伸びていく。当然大福も気が付いているが、動き出す素振りはない。残るは、大福が食べてくれるかどうかという、あと一歩のところで、その人は現れた。


「澄玲?」


 秋野の名を呼ぶ女性は、俺たちとは反対方向の石垣の角から現れた。


 小さな手提げかばんにつばの長い日よけ帽子、丈の長いプリーツスカートを優雅に着こなし、ふわりと身を浮かせるような華奢な身体をしている。そして、何よりその驚いた表情に染まった、が、まるで、秋野彼女の写し鏡のように瓜二つだった。


 嫌な、予感がする。


「お、かあ、さん……」


 手にしていた猫チュールがするりと落ち、後ずさろうとして体勢を崩すと、すぐそばの石垣に身体を押し付けた。その咄嗟の行動に、大福は石垣の上を歩き去ってしまうが、今はそれどころではない。


 俺は急いで秋野に駆け寄った。


「秋野、もしかしてあの人は」

「っつ!」


 気づいた時には遅かった。


 秋野は俺の横をすり抜けるように、そのまま全速力で走り去る。焦り、不安、動揺が一手に押し寄せ、危惧していた事態に対処できず、秋野の顔はどうしようもなく歪んでいた。


「まって澄玲!」


 一瞬、ひるむようにして足を緩めた秋野だったが、女性の悲痛な叫びとも聞こえる静止を振り払い、再び走り出してしまう。俺は二人を交互に見やり、すぐに追いかけるべきか、女性に状況を説明するべきか即座に判断できず、二の足を取られてしまう。


「あ、あの! 俺アイツの学校の先輩なんです。事情はその、あとで説明するので、心配しないでください!」


「それじゃ!」と一言残し、見失わないようにと秋野の背を追った。



「はぁはぁ、やっと見つけた……」

「影浦、先輩」


 俺は乱れた息を整え、ベンチに座る秋野の隣に向かう。子供用に作られたやや座高の引くいベンチに、少し足を畳んで座る。居心地悪そうにしていた秋野だが、それでも逃げずに、端によってスペースを作ってくれる。


 結局、あの後すぐには秋野を見つけることができず、俺は見当違いの方向をぐるりと一周探しに走り、ある程度探し終えたあとでもう一度、秋野を見失った交差点のポイントまで戻ってから反対にある区域を探す羽目になった。幸い、喉を潤そうと寄った公園にいたおかげで、これ以上の奔走をせずによくなったのは結果オーライだろう。


「いや、久しぶりに全力で走ったから、結構しんどいわ。いい運動になったよ」

「……ごめんなさい」

「あ、いや、別にいいんだけど……」


 これは、俺の注意不足も原因にある。


 事情を考えれば、秋野の同級生との遭遇を警戒しながら大福捜索に挑むべきだった。


 江路南うちに通う生徒の多くは電車を利用し、学校の最寄り駅までスクールバスが無料で乗れるようになっているため、ここら辺を歩いて通学する生徒は限られている。


 交通量も比較的少ないため、自転車の走行音や友達との談笑は遠くからでも気が付くことができた。だから、そのせいで、油断していた。一人で歩く、それも生徒ではない人間のことを。

 

(まさか、母親が歩いているとこにばったり出くわすなんて。秋野の家の場所を考慮しておくべきだった)


 それにしたってタイミングが悪すぎる。買い物に出かけるところに、ばったりとぶつかってしまったのだろうか。


(まてよ、それにしては身綺麗というか、外行の格好をしていなかったか? そもそもここらへんに住んでいて、スーパーに行くのに車を使わない家って珍しくないか?)


 都会に比べれば、必要最低限の交通インフラしか持たない長野県で、自家用車を持たない家庭というのは珍しい。勿論、絶対というわけではないけれど。


(っと、今はそんなことどうだっていい。問題はこっちのほうだ)


 お母さんに、目撃された。


 言い訳のできない、決定的な場面を。


 傍から見ればなんてことない、野良猫に餌を上げている微笑ましい光景だろう。しかしそれは、秋野にとって最も危惧していた結末の一つ、大好きなお母さんを苦しめることになる要因。


 今は落ち着いているけど、逃げ出すときに見たあの表情は、とても過去の罪悪感だけが原因とは思えなかった。秋野が初めてSA部を訪れた時に聞いた過去を、もう一度掘り返していしまう行為だけれど、それでも、俺は、秋野の過去に歩み寄りたかった。


「なあ秋野、言いにくいことを承知で聞くから、もし嫌だったら俺をぶん殴ってくれ」

「え、殴る?」と当惑する秋野に向かって、俺は言葉を続ける。


「SA部に来た時、お母さんのアレルギーを知らずに猫を飼いたいってお願いして、困らせたって言ったよな」

「……はい」

「本当に、それだけか?。俺には、罪悪感で苦しんでるっていうより、それ以上の、何ていうか、トラウマみたいなもんに蝕まれているように見える」


 表情こそ見えないが、俯きがちに、コクコクと頷いたのが分かった。多分、相槌ではなく、肯定の意味だろう。


「その、俺にこんな事を聞く権利もないし、そもそも俺がもっと気を配っていればって棚上げしておいてなんだけど、でも、秋野がもし、まだほんの少しでも俺を信頼してくれるなら、話してみてくれないか」


 秋野はほんの一瞬だけ俺と視線を交わすと、再び俯いてしまった。膝に乗せた拳に力が入り、スカートに皺が刻まれ、わずかに感じる身体の震えを前に、俺は身が焼けるように苦しかった。


 間違えた、と思った。


 俺が、俺が土足で踏みこんだからだ。彼女が苦しんでいることを知っていて、それでもなお、本当のことを知りたい、近づきたいと貪欲になってしまったと、今になって後悔する。


 このまま放ってはおけない。しかし、この場に俺がいては秋野は苦しいまま、落ち着いて息もできない。八方ふさがりだった。


(駄目だ、俺にこんな、器用なことはできない。先輩なら、きっと……)


 俺はポケットのスマホに手を伸ばし、あきらめようとした。


 その時だった。


「あ、あの!」


 あまりの勢いに、俺は手にしたスマホを落としかけた。


「ど、どうした」

「影浦先輩、私がこれから話すことを聞いて、とても不快に思われるかもしれません。それでも、その、影浦先輩に、最後まで聞いていて欲しいです。なので、その、聞いていてくれませんか、私の過去について」


 「勿論だ」なんて言って恰好が付けられず、俺は強く頷くことしかできなかった。


「これは、以前にもお話した、私が母の猫アレルギーを知る前の話です」



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