第十五話:ま、まだ木曜日
時刻は午後六時をまわろうとしていた。
自分以外に誰もいない部室というのは存外、静寂に押しつぶされる孤独感よりも、自分だけが存在しているという特別感の方が色濃くなる。黄昏にまかせ、特に意味はないのに妙に含みを持たせた独り言でも呟きたくなるような危うさがあった。
「もう、一日が終わるのか……」
試しに呟いてみた。
「……」
悪い気分じゃない。むしろ、酔いしれて気持ちがいい。
俺はパイプ椅子の上に置いておいたリュックを肩に背負い、もう一度、黄昏る。
「明日、どうしよう……」
出てきたのは、心からの心配を吐露したものだった。
それも当然だ。
何しろこの二日間益体無く、何一つ成果を上げられていないのだから。
俺たちSA部(仮)と秋野は、水曜日と今日の木曜日、朝と放課後の時間に『大福仲良し作戦』を決行するため、目的の大福を捜索することになっていた。俺と小波は秋野に大福の写真を共有してもらい、秋野がこれまでに大福と遭遇した場所を中心に、高いところが好きだという特徴を考慮して、各自見つけ次第連絡し合流するようにした。
しかし、その大福が一向に見つからない。
大福だけが、見つからない。
これまで通学路を特別意識して観察してこなかったせいもあるが、ここら辺は本当に野良猫が多い。首輪をしている猫もたまに見かけるが、していない猫が圧倒的数を誇っている。
側溝の蓋が欠けてできたくぼみ、物干し場に通じる平屋のガラス戸付近、そして、初めて大福と出会った石垣で挟まれた細道などなど、道を歩けば猫に当たるといった具合に遭遇した。
秋野が言うように、猫好きにとっては誘惑多き魅惑の地域だった。
「誘惑に負ける猫好きが、うちにもう一人いたのも誤算だ」
俺はスマホを取り出し、SNSのグループチャットから今日できたばかりの『大福仲良し作戦グループ』を開いた。
――――――――――――――――――
影『こっちの方にはいなかった。そっちは?』
小『背中にハートマークを背負った子がいる!』
>写真ファイルをアップロード
秋『猫さんの集会に遭遇しました。眼福です……』
>写真ファイルをアップロード
小『ヤバい、親猫が子猫を咥えて運んでるの超エモいんだけど!』
秋『小波先輩、是非その写真を私にも』
小『大丈夫、動画にバッチリ収めたから!』
>動画ファイルをアップロード
――――――――――――――――――
俺はSNSの画面を閉じた。
「これ、悪いの俺じゃなくてあいつらだよな。というか秋野のやつ、思いっきり他の猫に目移りしてるし」
一心不乱に捜索してきた自分があほらしくなってくる。
とはいえ、あれほど特徴的な
秋野に共有してもらった大福の画像を開き、再度確認した。丸々と太った恰幅のいい体躯に、左目には眼帯のような黒い斑点、尾が黒く胴は真っ白。そして何と言っても、見るからにふてぶてしい面構え。何が来ても全く物怖じしない不屈の魂がやどっている。
(いや、ただ太っていてモノグサなだけか。それにしてもコイツ、いままで見たかけた野良猫とは何か違うような……)
その小さな引っかかりに気を取られていて、俺は部室に近づいてくる足音の存在に気付かなかった。
「あなた、そこで何をしているの」
部室の扉が開かれた先に、一人の生徒が立っていた。腰丈まで伸びる黒髪をたれさげ、皺ひとつの乱れもないブレザーには二年生を示す校章が赤々と輝いている。化粧っ気のない、品行方正を絵に描いたような美貌を持つ女子生徒の視線が、俺を訝しむように見つめて離さない。
「あ、えっと、何をっていわれても、何もしていないっていうか、これから帰るところで、その……」
小波や先輩と話してきた経験が、全く活かされていなかった。自分に攻撃的な人間相手にどもらず喋るのは難しい。
「あなた……一年生ね。部活動勧誘期間中は部活に未所属という扱いなんだから、下校時刻を越えての居残りは原則禁止よ。ましてや、他に誰もいない部室に一人でいるなんて、疑われるような事をしていると見られても仕方がないことよ」
「い、いや、あの、別にやましいことは何もしてないです!部活の手伝いをしていて、その帰りに寄っただけっていうか」
「はぁ……」っと、彼女は大きなため息をこぼし、続けざまに言った。
「いい、いくら入部届を出したからといって、部活動勧誘期間中は未所属という扱いになっているの。顔なじみがいるのかもしれないけど、あくまで未所属。手伝うにしても、下校時刻は守りなさい」
「はい、すみませんでした……」
何故だろう、Z世代と揶揄される時代を生きてきたからだろうか。『叱られる』という行為に慣れていないせいで、思考が濁り、顔が熱くなっているのを感じる。段々目尻に水が溜まり、頬を伝って落ちるのも時間の問題という時だった。
「もし先輩に言われて断れないようであれば、私に言いなさい。私の方から部に対して注意しておきます。勿論、あなたの名前を出すことはしないから安心しなさい」
先ほどまどの勢いとは一変して、優しく歩み寄るような態度に驚き、落ちかけた涙は引っ込んでしまった。
傍から見れば、女性を虐げるDV男の手口だなと思わないこともないけれど、この時の俺には、彼女が聖母のように自愛溢れる修道者に見えていた。厳しさも、その優しさの裏返しだと、勝手に思い込んでしまうほどに。
「それで、どうなの?」
「いや、えっと、無理やりではないです、はい」
「そう、ならよかった」と彼女の結んだ口が緩み、心なしか表情もやわらかくなった気がした。
「でも、次からはちゃんと時間を守ってね」
「はい!」
「それにしても、ここってたしか元文芸部の部室よね?。私の知らない間に新しい部活に振り分けられたのかしら」
「えっと、まあ、そんな感じらしいです。俺も部長から聞いただけなので、詳しいことは何とも」
生徒会のコネを使い、創設の約束を無理やり取り付けて、しかもその約束の部員数が足りていないとか、冗談でも初対面の方にはお伝えできない。
「まあいいわ。戸締りして早く帰りなさい。あと、これからは下校時刻にも気を配るように。それと」
不意に距離を詰めてきた彼女に、俺は思わず後ずさる。
彼女の手が段々と上に迫ってくると、反射的に目を閉じて首を引いた。何か来る、と身構える形になって数秒。その手は俺の首元から下に向かって、線でなぞるように落ちていく。
「身だしなみにも気を付けなさい。もしあればだけど、ネクタイピンを付けているとずれないし、オシャレに見えるわよ」
「それじゃ」と立ち去ろうとする彼女に、思わず俺は質問した。
「あ、あの!。お名前、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか!」
緊張しすぎて声がうわずる。
拳を握りすぎて、汗をかいているのかさえよく分からない。
言葉遣いも距離感も勢いも、なにもかも失敗してしまった気がして、なんで呼び止めて名前を聞いたのかを後悔してしまいそうだった。
彼女は律儀に振り返り、また俺の前まで戻って言った。
「二年一組、風紀委員の
「は、はい!俺は一年二組、影浦雅人です!よろしくお願いします!」
一度ついた勢いを制御することができず、緊張に手綱をもっていかれるまま、俺は直角にお辞儀を繰り出す。
榊原先輩はくすりと、風紀委員ならではの権威ある表情をほころばせ微笑んだ。
「こちらこそよろしくね。私はまだ見回りがあるから、じゃあね影浦くん」
ガラガラガラ、トン
「……はぁ、はぁ」
思い出したように息を吸い、俺は心臓に手を置いた。
ドク、ドクドク、ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク。
うるさく暴れる心臓を、今度はわしずかむよに、握る。
ドク、ドクドク、ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク。
(まさか、そういうことなのか)
緊張と興奮が冷めやらぬだけかもしれない。
吊り橋効果なんて誰もが知っている恋愛心理だ。
それなのに、それなのに、この時の俺は期待してしまった。
あの人が、榊原時子先輩が、俺の『甘々ハイスクールライフ』を飾る運命の人である可能性を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます