第六話-①:嵐が吹いて、地が固まる前に吹き飛ぶ


 教室に着くと既に何人かの生徒が、仲のいい生徒同士でグループを作り雑談に花を咲かせていた。和気藹々わきあいあいと、今までもそうであったように、そうしてきたように。彼ら、彼女らにとって、進学は進級ぐらいの意味合いしか持たないのだろう。


 学校を休んだ次の日は、何か悪いことをしたわけでもないのに、なぜか周囲の視線が気になり、何事もないように急いで席に着く。(本当に何もないのだが)


 多分、教室の空気には染み付いた家のにおい同様、特有の臭気を含んでいる。例え一日とて空気に触れていないと、いざ教室では異分子として識別される。大抵は数日で溶け込むことができるので、問題にはならない。


 しかし、何故だろう。


(やけに視線を感じる気がする)


 人の視線にはきわめて過敏で、直接顔を突き合わさずとも、だいたいどの方角から見られているかが解る。中学三年間、伊達にうずくまって眠りこけていたわけじゃない。眠るのにだって気力がいる。暇つぶし程度に始めた視線感知が、特技に昇華できたのは偶然としか言いようがない。


 席に着いてから、いつものように腕を枕に眠るふりをする。机の高さが低いので、教科書を何冊か取り出し枕にした。その間も、視界は広く、遠くを見据えている。


(やはり、視線を感じる)


 段々と感覚が研ぎ澄まされていく。次第に噂話も拾えるようになってきた。


「ほら、あいつだよあいつ、小波こなみさんに声かけたやつ」

「え、あれが」

「マジか、そんな凄そうなやつには見えないけど」


 比較的声を抑えてはいるようだが、同じ教室内にいる限り、俺の耳は欠伸あくびの音すら聞き逃さない。


(『小波さん』、俺がその人に話しかけたことが話題になっているのか)


 ただ、俺はクラスの人間の顔と名前を、まだだれ一人として把握していない。

 昨日話した人といえば、『おはよう~』っと言われて振り向いたら知らない人で、でも無視するのも失礼かと『お、おはよう』って返したら、前の生徒に挨拶をしていたショートカットの女子と、ギャルさんだけ。

 いや、前者は声をかけたうちに入らないか。

 となれば必然、後者。

 あのギャルさんが小波さんだろう。


(まずい……、噂になる理由なんて一つしか存在しない)


 ぶっかけコカ・コーラ騒動。

 エロ・コーラの蔑称授与。

 保健室で思い浮かんだ最悪の事態が、今まさに具現化されようとしていた。


(落ち着け、落ち着くんだ影浦雅人。これはまだ噂レベルに過ぎない。重要なのはいかに被害を最小限に抑えてリカバリーできるかだ。ギャルさん、もとい小波さんが昨日の事を気にしていない態度を示せば、この話題は自然消滅、最悪笑い話程度にとどめることができる。そのために謝罪文と菓子折りを用意してきたんじゃないか)


 そうだ、大丈夫、大丈夫だ。

 寝息に織り交ぜた深呼吸の吐息を、誰にもばれないように静かに吐く。

 

 ガラガラ


 突然、正面から向けられていた視線の圧が消えた。

 噂話もやみ、クラスの空気が乱れるのを感じる。

 俺は気になって顔を上げた。


「………………」


 そこには、メイクはバッチリきまっているのに酷く憔悴しょうすいしきった小波さんの姿があった。制服も少しよれており、どことなくくたびれている。

 教室の入り口から自席である一番後ろの席へと、ゆっくり、ゆっくりと歩みを進める。まるで大地を踏み鳴らさんと歩く姿は他を突き放し、逃げ遅れた女子生徒の中には凄惨せいさんな表情を浮かべ、今にも泣き出しそうな者もいた。

 肩にさげた鞄が乱暴に置かれ、クラス中に鈍く荒々しい音が響く。


(ご、ご立腹でいらっしゃる)


 何を、誰に、何故イライラしているのか皆目見当もつかないが、これだけはハッキリと解る。


(この状態で謝罪をするべきじゃ、ない)


 リ・イーマン著者も言っていた『最高の謝罪には、それに適した土壌づくりが必要』だと。

 謝罪とは、謝るまえから勝負は始まっている。

 例えどんなに麗筆れいひつな謝罪文でも、どんなに豪勢な菓子折りでも、どんなに洗礼された土下座だったとしても、相手の機嫌一つで成否が覆る。

 謝罪が早いに越したことはない。

 しかし、タイミングを見極める必要がある。少なくとも今ではない。せめて、怒りの感情が落ち着いたタイミングを見計うべきだ。


「お、おはよう、小波さん」

「………………おはよう」


 なっっがい間の後に、ぼそりと挨拶を返してくれた。

 今じゃない、絶対今じゃないと、俺は機をうかがうことに徹すると決めたのだった。



(ぜんっっぜん機嫌が良くならない!)


 それどころか不機嫌にさえなっている気がする。

 

(一番狙い時だったお昼休みも、箸を休める間もなく黙々と食べてたし、時折こっちの方を見たと思ったらすぐにスマホに向き直るし)


 警戒されているのだろうか。

 今日はお弁当とペットボトルのお茶しか出していないし、朝の挨拶以外で話しかけてもいない。一定の距離感を保ち、過度に近づきすぎないようにした。だというのにこの対応。時間が経てば機嫌も収まる、なんて悠長なことをいっていられない。


(LHRロングホームルームが終わって、小波さんは帰る準備を始めてしまった。渡すなら今しかない。いやしかし、どう考えてもつっかえされるのが関の山。どうすれば……)


 リュックに仕舞った菓子折りを何度も確認しては、隣りに座る小波さんの様子を見る。椅子を引き、身体を少し傾け、軽く呼び止めればいいだけなのに。一歩が、一言が言い出せない。


 ガラガラガラガラ、ぴしゃん。


「影浦くーん、部活行こうぜ!」

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