第四話:ビジネスマナーの伝承とはすなわち模倣から始まる

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平素より、大変お世話になっております。

江路南高等学校、高等部一年二組所属、影浦雅人です。


この度は、私の軽率な行動及び制服にコカ・コーラをかけてしまったこと、不愉快な思いをさせてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます。


今後このようなことがないよう、炭酸を持ったまま全力疾走することなく、厳重に注意するとともに、気を引き締めて買い物にあたるように心がけてまいります。


この度のこと、深く反省をしております。


どうかご寛容を賜りますよう伏してお願い申し上げます。


大変申し訳ございませんでした。

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 黙読を終え、一息ついた。


「よし、誤字脱字はなし、謝罪表明も言葉遣いも、失敗の対策案もキッチリ書かれてる。流石『リーマン歴40年が記したビジネスマナーシリーズ3段、土下座回避率100%!気持ちよく和解できる謝罪文の書き方講座。リ・イーマン著』だ。とても良い謝罪文な気がする」


 まだ高校卒業どころかアルバイトすら未経験なのに、既に社会で生き抜くための処世術の一端を掴みかけた気がした。

 俺は普通横罫ふつうよこけいに筆ペンで書かれた謝罪文を見返し、その出来に満足している。


 何故、ブラック企業に勤める会社員でもない俺が、ビジネスマナー講座の本を借りて読み謝罪文を書いているのか。

 

 

 

 それは昨日の、保健室までさかのぼる。



(懐かしい、感じがする。)


 最初に感じ取ったのは音でも色でも匂いでもなく、深く身体の隅々まで染め上げた、目に見える痕はこれっぽっちも残っていないのにうずきだす、傷跡をえぐるような痛みだった。

 

 目を覚ますと、そこには真っ白の天井があって、優しい重さの正体が布団だと解り、自分が保健室に運ばれたと察した。

 

 保健室内を見回す。

 

 床には淡い日差しが差し込んでおり、仕切り代わりの大きなカーテンが風になびいている。正面の白い壁には掲示物や保健関連のポスターが並び、椅子やテーブルが整然と配置されていた。

 窓辺には名も知らぬ観葉植物が飾られ、淡泊な部屋にいろどりをもたらしていた。小さな置時計が静かに時を刻み、たった一つの音だけがこの部屋を支配しているという事実が、保健室の静けさを一層引き立てている。

 

「おや、おきたかい?」


 歩み寄ってきたのは、白衣を身にまとった……誰?

 普通に考えれば養護教諭なんだろうけど、出で立ちが、何というか、合っていない。美しい白髪はくはつを七三に分け、ごてごての丸いサングラスをし、何より口にくわえている白長い棒状のものが、保健室にいるべき人間として明らかに相応ふさわしくないと物語っている。

 すらっと伸びる足は他を魅せつけるほどしなやかで、そこいらの男性よりもスキニージーンズを着こなしている。一挙手一投足が洗礼されており、俺はつい目で追ってしまった。


「ん、まだどこか悪いかい」

「え、いや、大丈夫です。気分は悪くありません」

「そうかいそうかい。ちょっとたんこぶができてたから、必要なら氷袋を持っていきな」

「え、たんこぶですか?」


 頭を触ってみるとズキっと痛んだ。

 鏡を見なくても、そこにくっきりとたんこぶができていることが分かるくらいに膨れている。

 

「おやおや、そんな急に触っちゃだめさね。かなりの勢いで叩きつけられたらしいからね」

「叩き、つけられた?」

「おや、それだけの怪我をして何があったか覚えていないのかい」と白髪の養護教諭は俺と同じ怪我の部位を、自らの頭部を指し示して言った。

 

 俺は反射的に自分の傷痕にもう一度触れる。

 身構えるような鋭い痛みと、たちまち沸騰する血液が脳全体を駆け巡り、俺は痛みに慣れるのと並行して、途切れたところまで記憶をさかのぼった。 





『この、やめろってっ』

『言ってんでしょうが!』




 記憶が途切れた。

 遡って掬い取るような、たいした情報量もない二言だったが、三度みたび激しい激痛をぶり返すのには十分な記憶だった。


(そうだ、俺はギャルさんのスカートにこぼしてしまったコーラのシミを抜こうと躍起やっきになって、周りが見えなくなって、思いっきり鞄で頭を…。)


 冷静に振り返ってみると、少し、いやかなり気がする。スカートにシミが残るとか、そういうレベルでは比較にならないくらいの汚点になっている。


(というか詰んでないか、俺の高校生活。)

  

 今日が初対面の相手にコーラをぶっかけ、周りの声も聞こえず、ギャルさんの制止を振り切って太腿の間に手を突っ込み、シミ抜きに勤しむ。

 保健室に運ばれるくらいだ、きっとクラス中はその話題で持ち切りだろう。事態の収集を図るには、既に時間も噂も立ちすぎている。

 

(あああああ、このままでは女子にぶっかけるという不埒ふらちを働いたやつとして『エロ・コーラ』の蔑称べっしょうを手にし、男子からはことあるごとにコカ・コーラを渡され、女子はコカ・コーラを持つ俺に軽蔑けいべつの視線を送ることに!。嫌だ、そんななんとなく思いついた蔑称を背負って三年間を過ごすのも、学校でコカ・コーラを気軽に飲めなくなるのも嫌だ!)


「すごい汗だ。やっぱり氷袋を用意しよう」先生の心配をよそに、俺は頭を抱えた。


「それと、これは君の荷物ってことであっているかい」


 氷袋と一緒によこされたのは、いつも使っている『THE N〇RTH FACE』のロゴが入った開口部の広いスクエアデザインの黒いリュックだった。


「あ、はい、そうです。でも何で」

「そりゃあ、とっくに授業は終わってるからね。クラスの子が持ってきてくれたんだろうさ」


 見れば、既に時刻は午後四時を回っている。

 初日は短縮授業のはずなので、既にみな下校している頃合いだ。


(隣人との交流を深め損ねるだけでなく、クラス内での交流の時間すら損ねてしまった…。)


「さっきまでいたんだけどね。髪を結んだ女子生徒が、これ《リュック》と今日配られたプリントだって言って」

「髪を結んだ……、他に特徴はありますか?」

「さぁ、私が入ってきたらベットから飛びのいてすぐさま出て行っちまったもんだから。でも、ありゃかなりのべっぴんさんだね。ああ、あと薄い桃色のカーディガンを羽織ってたよ」


 桃色のカーディガン。

 間違いない、ギャルさんだ。


(いや、でも何でギャルさんが届けに?あれだけのことをしでかした相手の荷物を持ってくるだろうか。先生に言われて仕方なく、なら養護教諭の先生が来て逃げる必要もない……は!)


 推測の粒が泡となり、やがて一つの大きな可能性と大きな恐怖となって弾けた。


(そうか、報復だ……シミも取れず何も得ず、クラスの面前で辱めを受けさせた俺に対し、寝首を掻きにきたんだ!)


 気絶させられるほどの一撃を、もし、無防備に寝ている状態で受けていたらと考えると、悪寒が身体中を駆け巡る。やはり、童貞に優しいギャルなんていない、サンプル数は一人。


 こうしてはいられない、すぐに準備せねば。

 

「先生、俺帰ります!ありがとうございました」

「氷袋は」

「いります!明日返します」

「お大事に、走って転ぶんじゃないよ」



 こうして、その日の帰りに市の図書館へより、 『リーマン歴40年が記したビジネスマナーシリーズ3段、土下座回避率100%!気持ちよく和解できる謝罪文の書き方講座。リ・イーマン著』を借りた。

 はじめて書くビジネス文書と、慣れない筆ペンで時間はかかってしまったが、誠心誠意の謝罪文を書き上げることができた。


「まさか、コンビニのレジ奥に置いてある菓子折りを買う日が来るとは思っていなかったな」


 リュックの横に置かれた紙袋とフィナンシェの箱。いつも絶対賞味期限切れてると思っていた、誰に需要があるとも知らないレジ奥の菓子折り。勿論、賞味期限が切れていないことは確認済みだ。

 

「落ち着け、大丈夫だ影浦雅人。これはまだリカバリー可能な状況だ。そう、いわばテトリスで八割ぐらいテトリミノが積み重なった状態。一段ずつ、冷静に消していけば十分にリカバリーできる。そうだ、重要なのは失敗をしないことじゃない。失敗をしても立ち直り、挑み続けることこそ重要なんだ」

 

 たしか、以前やったプロゲーマーの主人公がそんなことを言っていたような、そうでもないような。


 そんなあやふやな格言か迷言を頼りに学校へと向かった。

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