微糖Extra:理想のシチュエーション
義妹の結花に命じられ、
「兄さん、ワックスはもう落とせた?」
「いや、それがなかなか落ちなくて。ヘアスプレーで固めたせいもあって苦戦してる」と、俺は一旦お湯を止め、湿気でくぐもった声で言う。
「はあ、まあそんな事だろうと思った。ちょっとまってて」
そう言うと、なにやらガサガサと音を立てた。買い物の音だろうかと思案していると、今度は浴室のドアが開く音がした。
俺は咄嗟の事で訳も分からず、自らの身体を抱きしめるようにして乳房を隠す。
「ちょ、結花、もしかして入ってきたのか?」
「いいから、そのまま前向いて、シャワー貸して」
俺は言われるがまま、流し途中だったシャンプーもそのままに、手にしていたシャワーヘッドを結花に渡す。まだ頭に泡が付いているため、目を開けられないでいたことが功を奏したかもしれない。
「温度ちょっと下げるね」と、俺の横ギリギリを通り抜ける結花の存在が、限りなく触れそうなくらい近くに感じられ、目をつむる
(いやいや、まさか裸なんてことはないだろう。でも結花だってこれから学校があるわけだし、何かしら濡れてもいい服に着替えているはず。タオル……いやいや、結花に限ってそんな破廉恥なことするはずない!。多分スクール水着とかそんなオチ……、いやそれはそれで破廉恥だ!)
妄想の結花と悪戦苦闘していると、ぬるま湯に調節されたシャワーが頭にかけられる。結花の、細くとがりのない指先が、ぬるま湯と共に髪へ、頭皮へと浸透していき、得も言われぬ気持ちよさが脳に駆け巡る。
(人にシャンプーしてもらうと、どうしてこんなに気持ちが良いんだろう)
「兄さん、そこのコンディショナー取って」
「ふあぁい」
俺は声につられ、無意識にシャンプーラックへと手を伸ばした。
バスチェアから腰を浮かせ、コンディショナーを掴む。
俺はそこでようやく、自分が目を開けてしまっていることに気が付いた。
幸い、視界の端に映る鏡は結露した水滴に覆われ、結花の全身を覆い隠している。少し、ほんの少しでもこの手が鏡に触れれば、結花のあられもない姿が映しだされてしまう。故意に見てしまっては、妹の優しさに漬け込む下衆兄貴になってしまうのではないか。
「兄さん?固まってないで早くとってよ」
いや、ちらっと、少しだけ、バスタオルか水着かの確認だけでも。そうだ、もしそんな姿でいたら兄として一言注意してやらねばならない。これは兄として、妹に貞節を説くため必要なことなんだ、そうに違いない。
俺は兄の尊厳と必死の抵抗の末、左手を鏡にそえ、ゆっくりとスライドしていった。
「……結花、お前、それ」
そこには、薄っすらとぼやけたセーラー服に、フードを被った結花の姿があった。
「ん?ああ、これ。兄さんのレインコート借りたよ。私だってこれから学校あるんだから、濡れるの嫌だし」
ぼやけていたのは視界がくもっていたからではなく、透明なレインコートにフードまでしっかりと被って防水対策をしていたからだった。トレンドマークのツインテールもしっかりフードに収まって、耳のようにフードが膨れている。
「はぁ…………」
「なに、急にどうしたの?」と結花はコンディショナーを洗い落とし、再びシャンプーをくしゃくしゃと泡立て始めながら聞いた。
「普通さ、こういうお風呂イベントだったらヒロインがバスタオルか水着を着てきて『ちょ、お前なにやってるんだよ』『だって、こうしないと身体洗えないじゃないですか』みたいなのがマストだろ。ただでさえ女子と一緒にお風呂場、なんてシチュエーションがレアイベントなんだから、もっと、こう、嬉し恥ずかしハプニングとかあってもいいと思うんだよ」
「妹に何期待してるの、キモ」
鏡は再び水滴を張り、結花の表情は見えなかったが、心底あきれたと云わんばかりの表情で見下しているのが伝わってくる。
「二文字の罵倒は胸に刺さるからやめなさい」
バカとかアホとかキモとか、純粋でシンプルな言葉は、耐性はついても確実に蓄積していく。漬物一つで来客を帰らせる、遠回しな皮肉の使い方を京都人に見習ってほしい。
「じゃあ兄さんが好きそうなイベント、やってあげる」
「えっ、いきなり、待って心の準備が」
ドキ、っと一瞬たじろいだのも束の間、「だーれだ」と泡だらけにした結花の手が、俺の眼球を塞いできた。
声にならない悲痛な叫びが、浴室を埋め尽くしたことは想像にたやすいだろう。
俺はこの日、イベントはただ起こせばいいものじゃない。悪意のない、純粋な偶然から生まれるからこそ良いものが生まれるのだと、ヒリヒリと痛む眼球と一緒に刻みこまれたのだった。
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