胎内怪奇譚
今際ヨモ
ご愛読、してくれるんですか……?
陽の光が差し込んで、ステンドグラスがキラキラ輝いている。光を受けた埃も、煌めいているようだった。
「アンナグレアフィール様。我らが神よ……」
礼拝堂に集められた信者たちが、一人の少女に崇敬の眼差しを向けている。嗚呼、神よ。アンナグレアフィール様。信者たちは口々に祈りを捧ぐ。
ステンドグラスの鮮やかな光を浴びて、少女は信者たちを見回した。涙を堪えて鼻を啜る者、目を閉じて名前を呼び続ける者、切なげに見つめてくる者、嗚咽を零している者。三者三様の信者たちを、少女は眺める。
彼女のその瞳の青さ。それこそが少女をアンナグレアフィールたらしめる象徴。海のようであり、空のようでもある、宇宙を透かした青。その不思議な瞳を持つ少女は、いつしか信者たちに神と呼ばれていた。
「我らの祈りをどうか、どうか、どうか……!」
少女はただ、人の群れを景色のように眺めるばかりだ。
彼女はアンナグレアフィールと呼ばれこの教会で大切に保護されてきた。信者たちが言うには、少女は現世に再臨した神である。理想的な世をもたらす幸い。悲しみも苦しみも世から消し去り、楽園を創る。アンナグレアフィール様がいれば、全ての感情は喜びへと変わる。
信者たちの希望なのだ。
少女の傍らに佇んでいた司祭が、そっと小さな肩に触れてくる。
「さあ、アンナグレアフィール様。どうぞ、我々に最後の御言葉を」
最後。そこに思うことはあれど、顔に出したりはしない。何故ならそれは、アンナグレアフィールには不要なことであるから。
少女は予め決められていた台詞を告げる。固唾を飲んで拝聴していた信者たちが、言葉の終わりに感嘆の声を漏らし、咽び泣き初める。少女はそれを、何処か冷淡に眺めるばかりだ。
「それではアンナグレアフィール様。贄のお時間です」
頷き、少女は祭壇下の階段を下っていく。背中に受ける感謝の言葉に、何を思うでもなく。
贄。アンナグレアフィール様と称えられた神が最期に辿る道。教会の地下には怪物が閉じ込められており、それに身を捧げることで、アンナグレアフィールの魂は、永遠になるのだ。
信じる人々のため。神は人間の肉体を脱ぎ捨てて、魂だけの存在となり、天へ昇る。その後に地上を濡らす雨が、アンナグレアフィールの慈愛である。希望である。救いである。
――と、されているが、少女にはそんな自覚は一つもなかった。
物心ついた頃には少女はアンナグレアフィール様で、何を言っても、何をしても、信者たちに喜ばれた。司祭にはただ黙ってこれを読みなさい、そうすれば君も救われるのだよ、と台詞の書かれた本を押し付けけられた。
そんな、見せかけの救いなどどうでもいい。少女は、何度か教会を逃げようとも考えたが、此処を出たものがどうなるかを初めて見せられた日、抵抗の意思を喪失した。
まるで籠の中の鳥のよう。空を目指して羽ばたいても、その牢獄では翼を傷つけるばかりだ。だから、羽ばたくことをやめたのである。
教会の意思に背いた者たちは、地下へ投げ込まれた。そうして少女もまた、地下への階段を下っている。
なんだ、同じ運命を辿るなら逃げてみても良かったな。独りごちて、今更足掻いてどうなるんだ、と自嘲する。
階段を下っていくと、据えた臭いと誰かの声が聞こえた。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん」
子供の縋る声。否、この先には怪物がいるばかりだ。だとすればこの声の主は。
少女は階段の先にあった厳かな扉の前で足を止める。冷えた指先が震えた。
私にもちゃんと、恐怖とか後悔とか、そういうのあったんだ。アンナグレアフィール様にそんな感情があったなんて、誰が知っているだろうか。誰も知ろうともしてくれなかったか。
だけど今更。そう、なにもかも今更だ。
少女は重たい扉を開けた。獣臭さと生暖かい空気に艷やかな黒髪が弄ばれる。
不安に、思わず胸の辺りの布を握りしめた。白く上等な生地の、美しい服。これが今に赤く汚れていくことを想像して、少女は思わず縮こまる。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん」
しかし、怪物が突然頭から食らいついてくるようなことはなく。
少女は部屋を見回した。天井を肉のようなものが覆い、所々垂れてきた肉塊の中で、何かが蠢いている。中央にある肉塊には、大きな目玉がついていて、それが虚ろに少女を見つめる。明らかな異形なのに、その瞳の青さばかりが美しい。そして、そのすぐ側では、3mほどもある人形をした生白い怪物が、中央の肉塊にしがみついて、ずっと泣いている。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん……」
泣きながら、その細長い腕の先に携えた鉤爪で、何度も肉塊を引っ掻いている。大きく抉れた肉の中には空洞があって、怪物はそこに頭を突っ込んでいた。
「おかあさん、おかあさん、おかあさァん」
少女は最初、目を疑った。そして、じっと怪物の様子を観察する。
以前来たとき。そのときは、神に背いた不敬な信者と司祭も一緒だった。
「アンナグレアフィール様、この者に罰を」
司祭が祈ると、あの白い怪物は、静かに腕をもたげ、信者をつまみ、その腹に喰らいついた。
人の腹が破けて、中身がズルズルと引き出されていく様を。少女は悲鳴も上げられずに呆然と見ていた。
「神に背けば、こうなるのだ。そして、その穢れた魂は浄化され、来世でまた、ここへ戻ってくるのです」
司祭は笑っていた。楽しげな会話をして笑う人々と何ら変わらない、普通の笑顔で。それが一層狂っていることに気付いて、少女は言葉を失った。
そして、未知の怪物と、成すすべもない信者を見て。この暴力の前に、ただの子供である少女に何ができるだろうと考えた。何も無いと気付いたこと。司祭の思うつぼだったのだろう。
抵抗の意思を削がれ、司祭に従う少女は、「お利口」で、扱いやすかったに違いない。
あれを見たからこそ、少女は自分も同じように食い散らかされて終わるのだと思っていた。しかし、怪物はこちらを見ない。ずっと、肉塊の中に頭を押し込んで、肉を引っ掻いては母を求めている。
おかあさん。あの肉塊が、怪物にとっての母なのだろうか。だとすれば、腹に入りたがるような仕草は。
胎内回帰。あの怪物は、母の腹に帰りたいのではないか。
理由は何。何か現状に満足できないから。それは何故。少女は思考する。
「ねえ、あなた。どうしたの?」
少女は怪物に声をかけた。額に汗が滲む。この瞬間、餌を見つけた獣のように、少女に齧りついて嚥下されてしまうのではないか。
怪物が少女を見ている。ちゃんと、目玉は二つあった。その海底のようであり、蒼穹のようであり、宇宙の青さを感じさせるような双眸に、少女は息を呑んだ。
怪物は、少女を食らうことは無かった。
「ご飯だ、嫌、食べたくない、食べたくない、お腹空いたよお、おかあさん、おかあさん、おかあさん」
怪物は空腹を覚えている。やはり、この怪物にとって、人間は餌なのだ。以前食われた信者も、食事に過ぎなかった。教会は人食いの化物を育てている。
……しかし、食べたくないのだと、ちゃんと人間の言葉でそう言った。
「どうして食べたくないの?」
少女は優しい声色で語りかける。
「美味しくない。不味いのは嫌」
人間の肉の味など、少女は知らない。怪物にとって何が美味なのかも、想像つかない。でも怪物が不味いというのなら、そうなのだろう。人間の肉が不味くて食べたくないから、怪物は少女を食わない。
「でもおかあさんが、食べなさいって言うの」
今まで信者を食らっていたのも、仕方なく食べていたのだろう。
少女にはおかあさん、という者の声は聞こえなかったが、怪物にはわかるらしい。あの母と呼ばれた肉塊が、喋るのだろうか。いいや、何か他の方法で怪物に司令を送っているかもしれない。
少女が固唾を飲んで怪物を観察していると、突然天井から垂れていた肉塊の一つがズルズルと音を立てた。驚いてそちらを見れば、肉塊の中で何かが蠢いている。蠢き、中から肉壁を破って、何かがこぼれ落ちた。四肢がついているように見える、ピンク色をした何か。
生まれた?
少女には、そういうふうに見えた。ピンク色のそれが何かに濡れているのも、羊水、なのだろうか。赤子みたいに産声を上げて、オギャア、オギャアと甲高く喚いている。不意にギョロ、と頭部と思わしき部分で、澄んだ青い目玉が見開かれる。母親や怪物と同じ色をしていた。
「あ、ああ、お腹空いた、お腹空いた」
怪物はゆらゆらと生まれたばかりのものに近づいていって、両手で掴み、口を大きく開いた。生まれたばかりの青い目玉が見開かれ、瞳孔が収縮する。
ぐじゅ、と水分を多く孕んだ音。
怪物が齧り付いたのだ。生まれたものは、オギャア、ともっと酷い声で喚き叫んでいる。ひっ、と少女が悲鳴を上げるのを気にも止めず、怪物は生まれたものを咀嚼した。
やがて、赤子のような声は、聞こえなくなる。
天井から垂れる肉。全てが怪物の母親の一部であるとすれば、そこから生まれた新しい命はきょうだいだ。怪物は、きょうだいを食って空腹をしのいでいる。
逆に、きょうだいの肉は不味くはないから食べられるのだろうか?
少女は不意に、この怪物を手懐ける方法を思いつく。上手く行けば、自分は食べられることはないし、教会の人たちだって……。
緊張で震えながらも、少女は確かな足取りで怪物に近づいていった。
「可哀想な子ねえ。ね、あなた。わたくしに名前を教えて?」
嫣然と笑う。その美しい微笑は、信者たちの前に立つときの、アンナグレアフィールのものと同じだった。慈悲深い女神。全ての人々を、愛で包む平和の象徴。
それは、怪物すら取り込もうとするほどの愛。
少女の持つ天性の魅力は、怪物すら誑かした。
「……かふか」
怪物にも名前はあるのか。こんな見た目の、ただの肉みたいな母親にも、子に名前をつけようという思いがあるのだろうか? それとも怪物自らつけた名。どちらにせよ、名前があるということは、扱いやすいということ。名前を呼ぶという行為の内には、確かな慈愛が含まれているから。愛に触れた者がどうなるかを、少女は今までまざまざと見せつけられてきた。
少女はゆったりと微笑む。
「そう。いい名前ね、カフカ。嗚呼、可哀想なカフカ。わたくしはアンナグレアフィール。全ての者を救う神です。わたくしが、あなたの神様になってあげましょう」
神として。この怪物を愛しているふりをすれば、食べられずにすむかも知れない。それが少女の計画だった。
「かみさま?」
「ええ。わたくしは、あなたを導き、救う者です。わたくしが、あなたの悲しみを取り除いて差し上げましょう」
海であり、空であり、宇宙。怪物の顔に嵌められた美しい青が、少女を見る。
「かみさま、かみさま、かみさま……」
神の名が聞いて呆れる、と少女は心の中でほくそ笑んだ。救いなんて馬鹿げている。
救い、というのは常に都合のいい幻想だ。信者たちは救いに群がり、それは怪物ですら同じこと。皆、救われたいのだ。救いが正しく何であるかなども考えず、その甘言に思考が痺れてしまう。
「カフカ。可愛いわたくしのカフカ。お腹が空いて可哀想。……ならば、その肉をお食べなさい」
そう言って、少女は白くスラリとした指を伸ばした。指し示す先は、怪物がおかあさんと呼んでいた、目玉のついた肉塊だ。
戸惑ったように声を漏らす怪物の様子を見て、少女は尚も変わらず、慈悲深い笑みを湛えた。
「どうしたの? お腹が空いているのでしょう? ならば、食べてよいのですよ。あなたが満たされるまで、わたくしが導いてあげますからね?」
そう伝えてやると、怪物は狼狽えるような素振りを見せながらも、母親だったはずの肉に、齧りついた。
可哀想。可哀想。可哀想。自ら思考する能力のないカフカ。女神に騙されて、母をも食べてしまうなんて。
少女は笑顔の下で嘲笑した。
「いい子ね、カフカ。わたくしの可愛いカフカ。お腹が一杯になるまで、沢山食べるのよ」
口に頬張る肉、肉、肉。クチャクチャと立てる咀嚼音。怪物のその美しく青い二つ目が、淡く潤んで、雫を落とす。泣いているみたいだった。怪物も、泣くのだ。だとして、怪物も、悲しみを感じるのだろうか。
少女は慈悲深い女神の如く笑んで、見守るように怪物の仕草を眺め続けた。
しばらくは肉塊に齧りつき、千切り、咀嚼して嚥下するのを繰り返していたが、怪物は少女の方を見た。口元が血液のようなもので汚れている。
「愛しいカフカ。お腹一杯になったかしら?」
「うん、かみさま」
「そう。よかったわね。それじゃあね……」
少女は自分の背後を指差す。重たかった扉。そこに手をかけた。
「お外に行きましょう?」
怪物は頷いて、緩慢な動きで少女についてきた。それを何食わぬ顔で見守るふりをして、心臓がバクバクと暴れ回るのを隠し通す。
こんな訳のわからない化物を手懐けること。外に出すこと。この怪物は、信者たちを始末する役割を持っていた。容易く命を狩り取る生物は、剣や銃と大して変わらない。明確に殺すことのできる力だった。
武器を手にした不自由な少女が求めるのは、自由。
「カフカ。わたくしの可愛いカフカ。これから言うことをよくお聞き? あなたはお利口だから、できるはずよ。あのね……」
困ったような、アンニュイな表情。憂う瞳に怪物を映し出して、少女はあたかも言いづらそうに演出して、言葉を紡ぐ。
「上にいる人たちは、悪い人なのです。あなたを閉じ込めました。あなたに不味いご飯を無理やり食べさせました。そうして食べたくないあなたが飢えてきょうだいを食べるのを、笑って見ているの。あなたを不幸な目に合わせるのが目的なのです。それは当然、わたくしのことも。酷い人たちですよね……許せません、よね?」
「ゆるせない!」
怪物が少女と同じ言葉を使ったなら、合格。褒めてあげなければ。少女はにっこりと笑って、怪物の頭を撫でた。ひんやりと湿ったような皮膚は、死人の皮みたいだと感じて、気持ちが悪い。それでもそんな素振りは絶対に見せてはいけない。アンナグレアフィールには不要な感情だからだ。
「ならば、罰を与えなくてはならない。そしてその罰は、虐げられてきたものが与えるべきなのです。報復です。カフカ。わたくしの愛しいカフカ。あなたがやるの。あなたがやらなくてはならないの。わかりますね?」
女神の微笑に、誰が背けるだろう。
少女はそっと、怪物の額に口づけをした。全ては騙すために、お利口な子を扱いやすくするために必要な布石。
「カフカ。上にいる人間たちを、食い殺しなさい」
笑顔を消し去って、厳しい目で少女は言う。怪物の青い目が揺れた。
「できるわね?」
もう一度、厳しく言う。怪物は僅かな逡巡の後に、ゆっくりと首肯した。
──それは、地獄絵図のようだった。
うねる白い腕が、人をチェスの駒のようになぎ倒していく。ころころと床を転げて血を流す一体一体に、ちゃんと命があること。そんな当然が、蹂躙されていく。
「アンナグレアフィール様、一体何を、」
逃げ出さずに誰よりも前に出てきた司祭。彼のでっぷりとした腹に、つう、と切込みが入る。瞬きの間に、中身がまろび出た。
う、と思わず声を上げて、顔を背ける。それでも血飛沫が顔にかかった。
怪物は、逃げ惑う信者たちを掴むと、頭から食い千切った。頭部を失ってだらんと垂れる四肢と血液。雨のように降り注ぐ赤色。
信者たちは戸惑いながらもアンナグレアフィール様、アンナグレアフィール様と少女に縋ってきた。彼らを見つめる彼女の瞳には、深い深い慈愛が溢れているばかり。
「どうしたの? これが救いよ」
救われたいと願ったのは、あなた達でしょう?
少女は嘲笑を孕んだ微笑で、信者たちの顔を一人一人、見回した。
絶望。号哭。悲嘆。嗚咽。憤怒。激高。三者三様の顔の中、その全ての人が、何処かで祈っている。染み付いた習慣が晴れない。その両の手は神に祈るときの組み合わせ方をしていて、少女の野望など知る由もない。皆、一様に、アンナグレアフィール様を信じていた。
少女は両手を大きく広げて、声高らかに語る。ともすれば、歌うように、軽やかに。
「さあ皆さん。救われましょう、救われましょう、救われましょう! 贄の時間です! 肉体を脱ぎ捨てて、魂を捧げなさい! 平和を知りたいなら、希望を知りたいなら、愛を知りたいなら、救われましょう!」
救い、救い、救い!
彼らの神様が用意した救済。そこに少女が憎悪を這わせていることなど、信者たちは見ようともしない。見えなければ、なかったことにすらなるのだ。
信者たちを殺してしまいたかった14歳の少女の呪いなど、信者たちの目には美しい祈りでしかなかった。
感嘆。狂喜。歓声。人々は喜んで怪物のたもとへ駆け出した。そうして、振り乱す生白い腕に殴られて、壁にぶち当たったり、すり潰されたり、頭部を千切られたりして、救われていく。
「アケナホラテラ。ヴァルケルカルモ……さあ、祈りましょう。皆の魂が、永久に救われますように」
救いがなんであるかなど、少女は知らないけれど。それでも救いのために少女は祈った。アンナグレアフィールなら、そうするだろうから。
目を閉ざして、汚いものは見ないふり。悲鳴も祈りも願いも、見ないふり。
──……しばらくして、なんの音もしなくなった頃。
少女はゆっくりと目を開いた。
床を彩る赤い花園を、怪物と共に歩く。
靴裏に縋りつく亡霊を見ないようにして。
少女と怪物は初めて、外の世界へと繰り出した。
鍵のかかっていない扉は重くない。子気味いい音を立てて開いた扉の向こう。溢れんばかりの陽光と、何処までも広がる草原。風に乗る甘い香りの正体は。少女は世界を見回した。
見回して、ただ何も無い草原に足を踏み出していく。その後ろを、怪物がついてくる。陽の光を眩しそうに見て、目を眇めながら。
「カフカ。そんなところで立ち止まってないで。来なさい。新しい今日の始まりよ」
先に少し離れたところまで歩いていた少女は、怪物に手を差し出した。
しかし、怪物はその手を取ろうとはしない。ただ、怪物は青の双眸を丸くして、緩慢な動きで教会の方を見た。
「……おかあさん……おかあさん……おかあさん」
「…………」
少女は怪物の隣に立った。開け放った教会の中には、肉の床が広がるばかり。最初に怪物がいた部屋は、天井を肉のようなものが覆っていた。まるで、天地がひっくり返ってしまったようだと思った。
「ねえ、カフカ。あなたは神様よりおかあさんが必要なのね」
言いながら、怪物の手に触れる。指先を濡らす赤が、泣いているみたいに滴った。
「ならば、わたくしがあなたのおかあさんになってあげましょう」
慈悲深い神様なら、アンナグレアフィールならそうすると思ったから。少女は怪物に笑いかける。
「おかあさん?」
怪物は、少女の瞳をじっと見つめた。海底の青とも、蒼穹の青とも違う、宇宙を映し出したような色彩。
同じ色をしていた。怪物の瞳も、おかあさんの目も、きょうだいの色も。皆、同じだった。
そしてそれは、少女とも。皆、一様に同じ青だった。
「おかあさん! おかあさん、おかあさん!」
怪物は長い腕をもたげて。
その爪で、彼女の腹を抉り取った。
傾ぐ体。何が起こったか、理解が追いつかぬままに、少女は地面に倒れ込む。
そうして、大きく抉れた腹部に、怪物は頭を突っ込んで、目を閉じた。
「おかあさん、おかあさん、ねえ、おかあさん……」
血を吐きながら、少女は空を仰ぐ。自分の瞳とよく似た青さを見て、まだ動く口を動かした。
「かふか。わたくしの、いとおしいかふか」
アンナグレアフィールなら、そう言うのではないかと思ったから。
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