そのサン 土屋先生
「……家元に向かって浅学な者が色々申し上げました。何とも僭越です」
土屋はそう言ってペコリと頭を一つさげる。
「私の今申し上げたような事は、どれも昔はこうだった『こともあった』というようなものです。ご参考になればと思いお耳を汚したまでのことで……神仏のお定めのような絶対ではございません。
今、家元の御流派にはその風と道がございましょう。何事もそれに合わせて。守るも変えるも、どうぞ家元のお考えで」
「いやいや土屋先生、勉強になりました、ありがとうございます」
世間にも広く知られた茶道のとある流派、その若き次代家元もまた、同じように頭を下げる。
それは、土屋宅に設えられた茶室。賓客を丁寧な茶でもてなした後、主客はなごやかに語り合っていたところ。
ただし。客の胸中にはいささかの疑問。
(何故先代は……?)
流の後継・次代家元として一通りの引き継ぎを済ませ、後は世間に正式に披露目をするばかりというこの時に。先代(いや、正確にはまだ現家元なのだが)が彼に言ったこと。
「あとは……一つだけ。家元を継ぐ前に、土屋先生、あの方にご挨拶をしておきなさい。近いうち、必ずな」
茶道土屋流家元、
いわば全茶道家の顧問、知恵袋、ご意見番、それが土屋。
(まるで忠臣蔵の吉良上野介だな)
さては余程高慢な気難しい男ではないかと、浅野気取りでそう身構えながら、先代の言葉通り今日、土屋を訪うた若き新家元であったが。
(それにしては……?)
彼はむしろ拍子抜けしていた。目の当たりにした土屋という男、そのすっかりあくの抜けた腰の低い態度と、おだやかな人当たり。己の学識や権威をひけらかすような素振りは一つもない。「好々爺」というにはまだ早いが、そう呼びたくなってしまう。そしてそれだけに。どうしてこんな凄みの無い人物に皆おののくのか?何故先代はわざわざ自分にも挨拶をしに行けと言ったのか?どうにも腑に落ちないのが本音。
すると、それを見澄ましたかのようなタイミングで。
「お茶をどうぞ、もう一服」
襖が静かに開いて、一人の女性が慎ましやかに、盆に乗せて持って来たもの。
(これは……!)
若き家元は驚く。そう、茶ならこの茶室に訪うた時正式の作法でもてなしを受けた。土屋の作法はあくまで穏やかで、侘しく上品な茶。ただし、これといった趣向など何一つ無し。確かに優れた、しかし古めかしいだけでありきたりの、正直つまらない茶だと思った。
しかし、今持ち込まれた物は、何と。
瀟洒な白磁のカップに注がれた琥珀色の珈琲と、小さなモンブランケーキだ。
土屋が軽く片方の眉を上げ、女性に尋ねる。
「蛍子、これは?」
「九月堂のマスターに今朝一番に挽いていただいたブレンドでございます。お菓子はいつもの」
「そうか、それならいい。
……家元、どうぞ一口お試しを。私の馴染みのコーヒー店に、素晴らしいバリスタがおりまして。豆の良さは保証致します。淹れたのは妻ですが。
私も失礼して……頂きます」
だが家元は再び驚く。カップの取手に手を取る、手元で回して取り上げる、唇をつける。菓子にフォークを入れ、一欠片を口に含む。ただそれだけの一連の動作、しかしそれら土屋の全ての所作は先と同じく自然で、穏やかで、しかも美しい。
そう。道を極めたものにとっては。
(喫する物が茶である必要すらない……!)
にわかに悟らされた若者、そしてそれは見事な不意打ちの趣向。試されているのだろうか?同じくカップを取り上げようとした自分の指が、躊躇に震える。それでもぎこちなく一口つけ、香り高い茶を飲み込んで。
「結構なお点前でございます……!」
その言葉は彼の胸の深奥から素直に溢れ出たのであった。
「やれやれ……蛍子驚いたよ、まさか君がああ出るとはね。でもあれは少し薬の効かせすぎじゃないかな?」
客がそそくさと、しかし何かに感じ入ったような顔で帰っていった後。玄関でその後ろ姿を見送った土屋が振り返って、妻の蛍子にそう問うと。
「なにあぁた、あのくらいよろしゅうございますよ。大体あぁたが甘いんですの、正式のお披露目もまだなのに、家元、家元なんて持ち上げて。すっかり舐められ気味でしたわよ?
お若い方の高慢ちきの芽は、早めに摘んでさしあげた方がおためでございます」
「君は厳しいねぇ……」
クスリと苦笑する土屋。対して、蛍子は得意げに首を傾げ胸を張る。どうやら先程の不意打ちは彼女の独断だったらしい。
変わった夫婦である。こうして話しているところを聞けば大分かかあ天下のようだが、実は歳は夫蔵人の方が大分上だ。そろそろ初老といっても差し支えない彼に対して、妻の蛍子はどうやら三十路も未だ半ば前といったところ。知らない者が見ればあるいは親子と見紛うのではないか。しかし。今日は茶席に客を招いたこともあり蔵人も和服だが、普段は洋服、そして話し方なども都会的。いっぽう妻はといえば常に板についた着こなしの和服で、妙に古風な言葉つき。
何より、二人は理由あって内縁の夫婦。そしてそれを土屋は公に隠していない……
するとそこに。
「お養父さんお養母さん、お客様、お帰りになった?
……ああいい匂い!あたしもコーヒー飲みたいな!」
「やぁお帰り、祝子」
「いいわよ、淹れてあげる、お台所でね?」
「ハーイ♪」
茶室にスルリと潜り込んで、またサッと出ていったのは、他ならぬあのノッコであった。
口裂け女に、メリーさん。立て続けに強大な怪異を、しかもいとも簡単に呼び出したキッカイな新入生、ノッコこと土屋祝子。正体を確かめなければならない。ノッコがオカルト研に加わって3回目の活動日、早苗はそう覚悟を決めて来た。
そしてグループ学習室に集まった三人、いつものようにオカルト蘊蓄話に花を咲かせる仁美と、ニコニコしながらコクコクと何度もうなづいてそれを聞いているノッコ、そしてその様子をさらに、じっと観察する早苗。
(どこから……そうね、やっぱり)
必要なのは、やはりこのノッコという少女の「家庭の事情」だ。どこに誰と、どのように暮らしているのか、そんな基本的なこともまだ聞き出せていない。知り合ってすでに2週間は過ぎていたが、余りにも衝撃的な事件の数々に心をかき乱され、早苗はそこまで冷静になりきれなかったのである。
(さりげなく、さりげなくよ、早苗……)
そう自分に言い聞かせながら機を待っていると、長広舌を収めた仁美が。
「というわけで、今日のお題『ネッシーと水棲UMA』の話はここまで!
……ねぇノッコ、お化けはキミの方が断然お得意だけど、UMAはどう?キョーミある?」
「大好きですよ!夢がありますよね。お化けさん達と違って今はパッと見いませんけど、いつかホントに見つかるかも知れないし……実はわたし、探してみたいUMAがいるんです!」
「ほほう?それは?」
「ツチノコです!」
「ツチノコ?へぇ意外、随分地味なのが好きなのね?」
「地味だからこそ!ホントにいそうじゃないですか。ツチノコ、きっと昔々はいっぱいいたんですよ。お話が沢山残ってますから。
実はわたしのお養父さん、お仕事はお茶の先生なんですけど、趣味で民話とか御伽話のこと調べたり集めたり……ちょっとですけど本なんかも書いちゃったりしてて。ツチノコのこともお養父さんから教わったんです。すごく詳しいんですよ!」
(それって……!)
話は望外に早苗の思い通りになってきた。自分の家族のことを、水を向けるまでもなくペラペラと話し出したノッコである。
だが、しめたと思ったのも束の間。
(やっぱり。それってあの土屋さんだわ……)
自分とノッコの意外な接点。鴻神神社に毎朝早く参拝にくる、あの人物。神主である早苗の父ともすっかり顔馴染みであり、いつも世間話を交わしていた。早苗も聞くともなく男の名前や素性なども小耳にはさんでいたのである。
そう、いかに土屋姓がありふれているといっても。「茶道家で民話の収集をする土屋」が、この昴ヶ丘に他にそう何人もいるはずがない。
この際、もしノッコが普通の後輩であるならば。それを打ち明ければ親密になるにはうってつけだろう。向こうの情報もより聞き出しやすくなる筈だ。
しかしもちろん、早苗はためらう。ノッコはあきらかに普通ではないのだ。
(まだ早いわ……もう少し詳しく聞いてから……)
逡巡する早苗、ところがその時!
「えーーーーーーーーーー!!!!」
グループ学習室に轟きわたったのは、仁美の大絶叫だ。
「ちょ、ちょっと仁美?!シーッ、シーッ!」
早苗は慌てて注意する。グループ学習室は私語を許されているが、隣は図書室、自ずと限界はある。行き過ぎた騒ぎには司書の先生が注意に現れるのが常、今の仁美の叫び声はどう考えても度を超えている。いつものように隣のテーブルで、今日はゲームにいそしんでいたTRPG同好会の面々も、何事かと一様に凍り付く。
一方、一言叫んだ口をどうにか自分で抑え、しかし仁美の興奮は冷めない。震えで歯をガチガチと鳴らしながら。
「ノ、ノノノノ、ノッコ!まさかまさか、あなたあの、あああ、あの土屋蔵人先生の???」
「あれセンパイ?わたしのお養父さんをご存知なんですか?」
「ああ……もうダメ……キュウ」
「ちょっと仁美?!」
「センパイ?!」
どうやらそれは、興奮のあまりの脳貧血。仁美は椅子にクタクタと倒れ込んだ。
サークル活動中に突然気を失いかけた仁美を皆で介抱し、どうにか話せるようになった彼女から聞いたこと。仁美とノッコの、さらに意外でしかも深い接点。
妖怪の民話の収集でこれまでに数冊の著作を成した、アマチュア郷土史家・土屋蔵人。それは仁美のかねてからの「あこがれの人」だったというのだ。
「あたしがオカルト好きになったのは、土屋先生の御本に触れたからなの。子供の頃にお婆ちゃんに買ってもらった絵本なんだけど……」
「あ!もしかして『へびがみとびくにさま』ですか?」
絵本と聞いて、ノッコがすかさずそう答えた。たちまち目を輝かす仁美。
「そうそれ!大好きで何度も何度も読んで……本がガタガタになるまで!それでね?中学生になって、ひょっと気になって奥付を見てみたの。ちっちゃな子供ってそこは見ないじゃない?だから気が付かなかったんだけど……
作画と執筆の先生の他に、『監修:土屋蔵人』って。あたしその時はっとしたんだよ。その頃にはもうあたしすっかり妖怪とか大好きで、別のちょっと難しい本とかも読んでたんだけど、『同じ人が書いた本だ』って。
……この人が、あたしの『原点』だったんだって!」
それ以来。仁美は土屋の著作を狙い打ちで調べ、手に入るものは買い、難しいものは図書館で借りてチマチマとコピー。夢中で読み漁っていったのだという。
「今度ね、思い切って東京の国会図書館にも行こうと思ってたんだ。関西で先生が論文を寄稿された雑誌とかは、それじゃないと読めないから。
土屋先生のお書きになったものは全部あたしのバイブル。ノッコ、あたしにとって土屋先生は、つまりあなたのお父さんは、神様みたいな人なの!」
(うそ、なんて偶然?)
これに比べたら、自分のノッコとのわずかな縁など問題にもならない。あっけにとられて口を挟む暇もない早苗をよそに、ノッコはたちまち両の眼をキラキラと輝かせて。
「だったらセンパイ!今度のお休みに、わたしのウチに是非いらしてください!大ファンだって聞いたら、お養父さん絶対喜んじゃいますから!」
「いいの?!ホントに?!……ああでも、急過ぎてご迷惑じゃない?」
「ウフフ!そんなことありませんよ。何しろわたしのお養父さんの本業はお茶の先生、『お客様をお招きするプロ』ですから!それに……
わたし、今まで人間のお友達をおウチにお招きしたことって無いんです。お誕生日とかクリスマスとかも、お化けさんは来てくれるんですけど……」
「……行く!行くよ、あたしノッコのお客様になってあげる!」
ちょっと寂しげな顔を見せたノッコに、たちまち仁美はあのいつもの保護欲でキュンとなったらしい。
一方早苗といえば、流石にノッコの家族にまだ直に会う気はなかったのだが。
「早苗も!行くよね?」
その急かすような仁美の誘いに、早苗はうなづかざるを得ない。
(うわぁ……今、サラッととんでもないこと言ってたよね……?)
そう、ノッコの誕生日やクリスマスには、怪異達が祝いに来る!
つまりノッコだけではなく、もしや土屋家は家族ぐるみで怪異達と付き合いがあるのではないか?となれば、土屋家はことによったら化け物屋敷だ。まさかそこに仁美を一人で行かせるわけにはいかないではないか。
そしてそんな親友の心配をよそに、仁美の勢いは止まらなかった。自分たちのゲームそっちのけでオカルト研の様子を眺めていたTRPG同好会の面々に、仁美は逆に向き直って。
「それから……そうだタマ!あんたもおいでよ!」
「ええ?!僕も……ですか?」
「友達がたくさんいた方が、ノッコもご両親に自慢出来るでしょ?猫の手も借りたいの、いいから!」
(え、いやそれは……まいったなぁ……)
どういうわけか自分をまるで猫呼ばわり(実際猫なのだが)、仁美の急な指名に当惑顔の珠雄。彼の立場は甚だ微妙なのだ。人間の友達が欲しいと言うノッコに対して、仁美に強引にくっつけられた彼だが、何と彼は化け猫だ。つまりこのままだと、彼はノッコを騙していることになる。そして母から聞いたところによると、土屋は娘のノッコを目の中に入れても痛くないほど愛しているらしい。
もしあの土屋の逆鱗に触れることなどあったとしたら。それは考えただけでも恐ろしい。
だがすぐに。
(でもまてよ?どうせ土屋先生には一度お会いしなきゃいけないんだ……凡野さんや鴻神さんもいるなら、先生も少なくともその場で怒ったりはしないよな)
これはむしろチャンスかもしれない。
(この機会に、何とか隙を見て先生に言い訳しよう。それがいい!しめしめだ……)
咄嗟に小狡く計算を働かせた珠雄、心中むしろ舌舐めずりをしながら、
「わかりましたよ凡野先輩、僕もご一緒します。ノッコちゃんいいかな?」
「ぅわぁい!うれしいな、うれしいな!今日帰ったら早速お養父さんにお願いしてみます!」
話はとんとん拍子に進み、そして今日は日曜日。土屋家訪問の日だ。
「ああ、どうしようどうしよう!あたし胸がバクバクだよ!」
「うれしいな、うれしいな!みんなでわたしのウチに来てくれるなんて!」
前に二人、普段のあの太々しさはどこへやら、ソワソワと落ち着きのない仁美と、くるくると踊るように回りながら、満面の笑顔ではしゃぐノッコ。
(とんだことになったわ……)
(さぁ勝負どころだ、今日は上手く誤魔化さないと……)
後ろに二人、一人は事態の急展開に戸惑うばかりの早苗。そしてもう一人、首を傾げて思案顔の、猫の珠雄。
一方。
「……蛍子蛍子、どうだろうね?私のこの格好、おかしくないかな?」
「あぁた、何度目のお尋ねですの?わたくしがご用意したお仕度ですから間違いございません。ちょっとは落ち着きなさいまし」
待ち受ける土屋氏も、実ははなはだうろたえていたのであった。
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