第2話

それから時間が経つ。7時50分になると毎朝(可能な限り)参加しているFacebookの英会話関係のグループのZOOMでのミーティングがある。それまでにやらなければならないことはいくつかあって、まずはお風呂に入ること。ぼくは毎朝「ひとっ風呂浴びる」のが習慣になっている。そして朝食を摂り、その後昨日の日記を書く。これらの日課はぼくにとって何としてでも守りたいものだ。


《達郎は相変わらず几帳面ね》とオードリーさんが言う。


《ぼくは習慣を守ることしか能がない……ぼくが抱えている発達障害とはそういうものなんだ》とぼくは言う。



今日は二度寝の誘惑にも勝つことができて、「ひとっ風呂浴びる」こともできたしグループホームの朝食も摂ることができた。でもオードリーさんとの会話を長引かせすぎてしまったせいか日記は書けなかった。今日は早番なので朝10時に仕事を始めないといけない。ぼやぼやしてはいられない。でも、別の言い方をすれば夜に時間を取れるので夜にあらためて日記を書けばいいだろう。


《日記、読んだわよ。いつもありがとう》


《こちらこそ》とぼくは言う。


そんなオードリーさんとのチャットの記録を反芻しながら、ぼくは7時50分のFacebookのミーティングに参加する。今日のミーティングの話題は何だろう、とグループのタイムラインの投稿をチェックする。今日は世界をロードトリップする醍醐味についてのようだ。ぼくは話題を語る、英文の記事が載っているDMMのサイトに目を通す。



《ところで、達郎は最近はどんな本を読んでいるの?》


《最近? 日本の作家でもいいかな?》


《Go ahead》


《最近、ぼくは阿部昭の『散文の基本』という文庫本を読んだんだ。阿部昭というのは日本の小説家で、ぼくは彼の作品は『単純な生活』を読んだことがある。とてもおもしろかった。でも、言い換えればそれくらいしか読めていない。もっと読んでみたいと思っている》


《英訳されたりしてる?》


《されてないと思う……そうだ、ジェイ・ルービンという翻訳家が英訳したアンソロジーの中に彼の短編も入ってたんじゃなかったかな。アマゾンで買えるはずだ。リンク貼るよ。ちょっと待って》


《オーケー。読めたら読んでみるわね! いつもありがとう》



でも、実際にZOOMを立ち上げて会話を始めてみるとまずは自己紹介だ。今日のルームのセッションは3人。ぼくの番になり、ぼくは自己紹介をする。


《ぼくは達郎といいます。兵庫県に住んでいます。デパートで働いていて、趣味は本を読んだり音楽を聴いたりすることです》


《どんな本を読むんですか?》


《昔は村上春樹が好きでよく読んでいたんですが、最近は夏目漱石を読んだりしています。あとは、最近ノーベル文学賞を受賞したルイーズ・グリュックの詩集とか……》


そこで会話の雰囲気が沈滞してしまう(いくらぼくが発達障害者でもそのくらいの空気は読める)。まずい! 読書の話題は地味に人を選ぶ。あまりマニアックな作家になりすぎたら「ほー」で話が止まってしまい、それ以上弾まないで終わってしまう。というか、読書全般がいまや「シブすぎる」「アンティークな」趣味と化している時代だ。しくじったと思って後悔していると、別の方が助け舟を出してくれた。


《達郎さんは、英語をなんで勉強されているんですか?》


事情が変わったようだ。そう言えばこれはオードリーさんからも訊かれたっけ。


《達郎は、どうして英語を勉強するの?》



これに関してぼくはどう答えただろう。この時もぼくはあたふたしたけれど、そこでたまたまぼくはぼく自身がSpotifyで再生していたプリンス&ニュー・パワー・ジェネレーションの音楽のことを思いこんなデタラメを並べた。


《英語を勉強して、『活きた』言葉づかいの中にある『活きた』人たちの気質を読み取りたいと思うから、かな。そしてもっと友だちを増やしたいと思うからだ。そうして、いまぼくが聴いているプリンスの音楽と同じようなラブのポジティブなバイブをもっとフィジカルに感じ取れるようになりたいと思う、というのがいま思いついた答えだ》


ここでふと「マジで?」とぼくは自分自身に向かって言い聞かせる。いや、本気ではない。こんなことだっただろうか、ぼくが言いたいことって……。



でも、結局今日のFacebookのミーティングでは「まるっきり」違うことを話してしまった。


《実を言うと、ぼくは大学時代に英語を勉強していました。でも、それからブランクがあって40歳の時から英語を学び直そうと思いました》


《いまはおいくつなんですか?》


《ぼくは今年48になります。すでに……ロウジンリョク(これは英語では表現しようがないのでそのまま日本語で通す)を感じ始めています》


そんな話をして時間が過ぎる。もう1度ぼくの中の誰かが「マジで?」とぼくにささやきかける。「本気でそんなこと思ってるの?」と。

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