シンクタンク
踊る猫
第1話
言葉を考える上でとても重要なことは、「言葉は客観的な事実を表さない。人がその事態をどう見ているのかを表す」ということです。
――時吉秀弥『英語脳スイッチ!』
七瀬さんと仕事をするのがぼくは好きだ。七瀬さんはいつだって気さくに話しかけて下さる方で、すこし言葉や態度が粗いところがあるのが気になるけれどこんなぼくにだって親切だ。そして、ぼくは実を言うと七瀬さんのおしりの形が好きだ。たぶんこのお店の中でいちばんいいおしりをしているんじゃないかと思う。
2023年11月のある日、ぼくは朝4時に目を覚ます。そしていつものようにパソコンの画面からウェブやDiscordにアクセスしてそして日課を済ませる。今日はぼくのところにはダイレクトメッセージは届いていないようだ。朝4時、まだ日本が眠っているか寝ぼけ眼をこすっている頃アメリカでは午後でイギリスやヨーロッパでは夜だ。
きょうはぼくから話しかけてみようと思って、Discordでオンライン状態になっている人を探す。最近仲良くなったオードリーさんに話しかけてみることをぼくは思い立つ。彼女はイギリスに住んでいるという。充分夜遅いと思うのだけれど、それでも彼女はぼくのメッセージに明るく答えてくれる。なので最近甘えてしまっている。いい傾向ではない、とぼくは自分に言い聞かせる。ぼくのために。そしてもちろん彼女のためにも。
Discordで彼女との記録をチェックしてぼくは話しかける。
《ハロー》
そして、彼女から返事が来るのを待つことにしてそれまでの時間をぼくは書き物をしてつぶす。Discordの自分のグループのチャンネルの1つがぼく専用の「vent」の場所だ。そこにぼくは、思いついたことを書きなぐっていく。なぜそんなことをしないといけないのかについて話すのは難しい。でも、ぼくは書いていく。
《いったいこの人生は何なんだろう、と思う》
言い忘れていた! ぼくはいつも英語を使って書いている。でも、便宜的に日本語にぼくの中で訳すことにする(「《》」で括っているところが英語を日本語に訳したものだ)。
《今日こそぼくは、ある先輩の方について書くことにしたい。でも、いざ書き始めるとなると難しい……ここで筆が止まる》
ここまで書いて、そして止まった筆について(正確にはキーボードをタイプする指について)考える。でも、指が(あるいは筆が)動く気配はない。ああ、さっき(というか昨日)ぼくはいろんなことを考えた。村上龍の小説について、それから……何だっただろう。もう48歳にもなると昔のようにいろんなことを覚えていられない。でも、動かす指を止めたくないのででたらめにあれこれタイピングを続けようとするのだけれどうまくいかない。箇条書きで、いま考えていることや聞こえること、読んでいる本について書いていこうとする。
《2023年11月のある日、ぼくは朝4時に目を覚ます。そしていつものようにパソコンの画面からウェブやDiscordにアクセスしてそして日課を済ませる。
いま聴いているのはブラーの『シンクタンク』というアルバムで、実を言うとぼくは昔最初にこのアルバムを聴いた時気に入らなかった。地味すぎると思ったからだ。だけどいまはこのアルバムの地味さの中にある深みがすこしばかりわかってきたように思う。でも、やっぱりぼくは『パークライフ』『グレート・エスケープ』の路線のブラーを好んでしまう》
そんなことだっただろうか、と思ってしまう。書きたかったことって……でも、いったん書き始めたら指は勝手に動き始める。ふとここで指を止めて、隣の住人にも聞こえかねないような大きなおならをしてしまう。そのおならの匂いを嗅いで、すっかりぼくも年老いてしまったなと思う。いや、どうしておならの匂いと歳が関係あると思ってしまうのかわからないけれど、たぶん内臓がくたびれてきたから匂いに回るのかなと思ってしまうのだ。
《ぼくはいま、とある先輩の方について考えている。その先輩はぼくに対してとても優しい。他の方はぼくと会っても通り一遍の挨拶をするかまるっきり無視するかで、ぼくのことを避けているとも思ってしまう。でも、その方は気さくに話しかけて下さる。その方のことは好きだ。とりわけ、その方のおしりの形に惹かれるものを感じる。整体でもされているんだろうか、っていうくらい体型もスリムでセクシーだ》
さすがに異性のおしりについて書くとぼくの筆の運びも違ってくる。でも、この文はぼく1人で秘匿するたぐいのものではない。きっと少数ではあるにせよいろんなメンバーが読むだろう。オードリーさんだって読むだろう。というのは、彼女はいつもぼくの書いたものにキュートな絵文字をリアクションとして付け加えてくれるからだ。
《でも、ぼくももう若くないしその先輩だってもう若くない。きっとその方は還暦を迎えているかもしれない。だいいち、既婚でお孫さんもいる。やれやれ、ぼくときたら》……
そこで、ふとオードリーさんからメッセージが届いていることに気づく。ぼくはそれを読み始める。
《ハロー、達郎》
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