無彩のマジックアワー

@caris0615

【一色】 半色、17時50分

 歌が聞こえる。

 それはメロディのみで形作られた、まるでその音楽を奏でる少女の眼前に広がる空のように、その様相を自由に変化させる鼻歌だ。誰かに聞かせようとする意思は全く感じない、少女自身に聞かせるためだけに奏でられたようなメロディは、少女が立っている防波堤に時折ぶつかる波の音にかき消されている。


「……まぶしいな」


 数分ほど歌い続けた少女は、唐突に奏でていたメロディを断ち切り、呟く。


 視線の高さほどまで降りてきた太陽の光が差し込み、少女は目を細め、視線を逸らす。その視界の隅では、少し赤みがかった紺色の髪が風になびいている。


「これが、あなたの――」


 誰に向けられたわけでもないその言葉は、少女の眼下で白い飛沫をあげている波に飲み込まれていった。


――――――――――


 目が覚めた。

 誰かに起こされたわけでもなければ、目覚ましのアラームが聞こえたわけでもない。ここだけ聞くと、十分に睡眠を取れた健康的な人間が想像できるだろう。


「17時……」


 枕元に置かれていたスマートフォンが示している現在時刻は、およそ健康的な人間が起床する時刻ではなかった。7時に就寝し、10時間の睡眠を取ったはずの身体は確かな気だるさを纏っている。

 まだ少し反応が鈍い身体をキッチンまで引きずり、食器棚からグラスを手に取る。普段使っているはずのグラスのはずなのに、やけに重たく感じる。

 グラスになみなみ注いだ8月の生温い水道水を飲み干すと、わずかに思考がすっきりしたような気がする。


「そういえば……」


 クリアになった思考で掘り返されたのは、あまり思い出したくない事実だった。

 キッチンに置かれた冷蔵庫の最下段、冷凍庫になっている部分を開くと、そこには何も入っていない。コンビニで買い溜めておいた大量の冷凍食品は、昨晩食べたたこ焼きで最後だった。


「はぁ……」


 めんどくさい。外出しなければならない用事がない日は死んでも家から出ないと心に決めてはいるが、いざ空腹で死んでしまうとなると、結局は買いに行かざるを得ない。俺はもう一度ため息をつきながら、とても軽い冷凍庫の段を閉じた。


 キッチンからリビングへ向かい、部屋干ししてあったTシャツをひったくった。その反動で物干し竿からハンガーが落ちてカラカラと音を立てた。……あとで戻しておこう。

 服を着替え、リビングを後にしようとした時、暗闇に慣れ切った目にある物がとまった。机の端で、少し埃を被っているタブレット端末だ。以前は趣味としてこのタブレットを使って絵を描いていたが、ここ最近はただ単にやる気が起きないというだけで絵を描くこともなくなってしまっていた。


「たまにはいいか」


 ただの気まぐれか、夕食を買いに行くためだけに外に出るのが許せず何か他に理由が欲しかったのか、これを持って行かなければならないという漠然とした思考だけが浮かんだ。

 気づけば、ケースに薄く積もっていた埃を払い、モバイルバッテリーに接続して、鞄の中にタブレットをしまっていた。



 玄関のドアを開けると、目の前には灰色の空が広がっていた。

 これは比喩などではなく、本来持っているべき色を失った空が視界を覆い尽くしている。確実に異常事態ではあるが、驚くようなことではない。いつからだったかは忘れてしまったが、俺がこんな空を見るようになってから数年は経つものの、生活に支障はなく、その他に変なことも起こっていない。そのため、この殺風景な景色には割と早いうちに慣れてしまっていた。


 「――。」


 コンビニに向かっていた足がふと止まった。誰かの声、いや、歌が聞こえた。最初は近くにある海から聞こえる波の音か、虫が鳴く声が聞こえているだけだと思ったが、違う。これは、自然の音ではなく、確かに何かの意思を持ったメロディだ。

 気づけば俺は、人魚の歌声を聞いた船乗りのように、歌が聞こえる海の方へと足を進めていた。


――――――――――


 歌声の主は、もちろん人魚などではなかった。灰色のキャンバスに描かれていたのは、防波堤の上でメロディを紡ぐ少女だった。

 その少女を構成する色は、とある部分を除いて、俺が普段見ている空と同じように彩度を失っていた。とある部分を除いて。


「これは……」


 空だ。モノクロの少女から伸びた長い髪は、見慣れてしまった灰色ではなく、鮮やかな赤紫色。埃のように積もった記憶の中で埋もれていた、いつか見た夕暮れ時の空の色をしていた。

 少女は俺に気づいているのか、気づいた上で気にしていないのか、海に向かって鼻歌を歌い続けている。

 

 歌声に導かれるように、俺の手は自然と鞄に入っているタブレットに伸びていた。


――――――――――


 ふと我に返った時、タブレットには18時30分と表示されていた。体感的には3、40分は描き続けていたと思う。しばらく絵は描いてこなかったものの、描き方はなんとなく身体が覚えていた。

 だが、手元に残っていたものはやはり、本来眼前に広がっているはずの雄大で、色鮮やかな空とは正反対の、狭苦しい、見飽きた灰色の空だった。


「うん、やっぱり良い色だ」


 耳元で声が聞こえた。俺は驚いて声を出す暇もなく、ただ反射的に声がした方向に振り向くことしかできなかった。

 振り向いた先では、先程まで防波堤の上で鼻歌を歌っていた少女が、俺の手元を覗き込んでいた。そういえば、ずっと聞こえていた歌は、いつの間にか、波の音にすり替わっていた。


 「そんなに驚かなくてもいいじゃん、私、ずっとここで見てたんだよ?」


「じゃあ尚更だよ。それで、何の用?」


「それはこっちのセリフ」


 間違いない。あまりにも正論すぎて、「たしかに」の一言さえ出てこなかった。


「そうだね、悪かった」


「まぁ、そんなことはどうでもいいんだけど」


 俺の謝罪をあっさりと流した少女は、何を考えているのかわからない無彩色の瞳をこちらに見据えて続けた。


「私に何か用?」


「えっ……、あぁ、君はよくここに来るのか?」


 この少女にこれといった用はない。だが、勝手に少女を題材に絵を描いてしまっている以上、何か会話を続けなければいけない。そんな思考がよぎった俺は、質問に答えているのか怪しい返答をした。


「いや、ここに来るのは初めて……ううん、2回目だね」


 質問に質問で返されたことには気に留めていないようで、淡々と答えてきた。


「どうりで、初めて見る顔なわけだ」


 ここは都心からは離れた海辺の町だ。いくら近所付き合いを避けている俺でも、こんなに特徴的な少女を見たら記憶に残るはずだ。


「そりゃあそうだね。あなたは?ここにはよく来るの?」


「いや、ここに来るのは久しぶりだね。用事があるわけでもないし」


「そうなんだ、もったいない。折角いい景色なのに」


 少女は、これまでこちらを見据えていた無彩色の視線を俺の手元に落とした。


「ねぇ、なんでこんなに綺麗な空が目の前にあるのに、そんなつまらなそうな目をしてるの?」


「どんなに綺麗な景色も、いつかは色褪せるんだよ」


 俺がそう答えると、少女はその顔に少しだけ影を落としたように見えた。


「……そっか、私は好きだよ。昼と夜、青と赤、曖昧な境界の上を彷徨っている空」


 少女は海の方へ向き直り、再び防波堤の上に登った。日が暮れて、冷たくなり始めてきた海風がその髪を靡かせている。

 少女はこちらへ振り返り、微かに笑みを浮かべながら告げた。


半色はしたいろ。どっちつかずで、中途半端な、私たちらしい色じゃない?」


 その瞬間、空が青とも赤とも言えない、青空と夕焼けの中間のような色に染まった。まるで、先程目を奪われた少女の髪色をそのまま写しとったかのように。

 

 いつ以来だろうか、色づいた空を見たのは。それすらも明確に思い出せないほどに掠れた記憶の中にだけ存在していた空が、今目の前に広がっている……それなのに。


 それなのに、この目の焦点は空には合っていない。浮かぶ雲も、羽ばたく鳥も、輝き始めた星も、全てがぼやけて見える。

 俺は、目の前の少女が微笑む顔と、白銀としか形容のできない色に変化した髪から視線を逸らすことができなかった。


「これはどういう……いや、君は……何者なんだ?」


「そういえば、これだけ話してて、まだ名前も言ってなかったね」


 太陽が完全に水平線に沈み、空を濃紺が支配すると同時に、少女は告げた。


「私は真澄ますみ 彩来さら、まっさらの、彩来。あなたにお願いがあるの。私を、とある場所に連れて行ってほしい」

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