(仮称) 友のち恋、ときどき雪
学生
革靴だって、最初は痛い
「人生は死ぬまでの暇つぶし」
そんな言葉をどこかで聞いたことがある。人生なんて特に何か大きな出来事が起こるようなことなんてなく、繰り返される毎日を淡々とこなしていくだけの作業に過ぎない。けど、それでいいと思う。物語の中のように華のある人生なんて、似つかわしくない。なんの変哲もない人生の中で、たまにある幸せを楽しみながら、この体が朽ちるまで生きられればそれ以外なんてなにも望まない。彼の人生観は、その程度のものであった。ある人に出会い、そして彼女がかけがえのない存在であると気づくまでは──
7時から5分ごとにアラームをかけていたはずなのに、彼が最初に気づいたアラームは、7時35分のものだった。少し肝が冷える思いをしたが、大学の入学式が始まるのは10時半。きちんと早い時間から目覚ましを設定していた昨日の自分を、彼は少しだけ心の中で褒めた。本当はもう少し寝たいという欲求を押し殺し、ベッドから立ち上がる。まだ見慣れない部屋のカーテンを開けて外の景色を眺めると、彼は自分が新しい土地で一人暮らしを始めたことを改めて実感する。起き上がったのはいいものの、この家から大学までは徒歩でもおおよそ10分ほどなので、2時間半後の入学式までは十分すぎるほどに時間がある。かといって、今からもう一度寝てしまえば次起きた時には何時になってしまっているかわからないので、ベッドの誘惑には負けないためにも着替えることにした。
大学の合格が分かってから親に買ってもらったほぼ新品のスーツを、ぎこちない動作で着る。父親に教えてもらったネクタイの結び方を実践してみたものの、どうにもうまくいかなくなったので、スマホの検索エンジンで「ネクタイ 結び方」なんて適当に打ち、一番上に出てきた動画を見ながら鏡の前で一人奮闘し、何とか完成させたそれがおかしくないか親にラインで尋ねたところ、ぶっきらぼうに「へたくそ」とだけ返信がくる。しかし、さして自分の身だしなみに関心のない彼は、まあ、どうせみんなへたくそなんだし、結べただけいいやと、うまく結ぶのは早急にあきらめて「うるせ」とだけ適当に親に返信した。
時計の針はいつの間にか8時半近くを指していたが、それでも2時間ほどは時間がある。何をしようか悩んだ末、どうせなら少し早めに行って大学構内を散策してみようという結論に至った。必要な書類とPCなどをリュックに詰め、まだ硬い革靴に無理やり足を突っ込んだ。靴ベラを買えと親に言われたけれど、どうせ革靴なんて次履くのは卒業式の時くらいなんだからと、結局買っていなかった。
外に出ると、まだまだ彼にとって異世界である松本の町が目の前に広がる。大学にはこの家から何回か歩いて行ったので道はわかるが、やはり新鮮な気持ちになる。こんな朝早くに大学に赴こうとするなんて、自分らしくないなと感じてはいたが、こんな自分でもやはり少しは新しい生活に対して期待するものがあるんだなと思う。
歩いていると、咲いたばかりの桜が目に飛び込む。彼は特に草花を愛好する趣味を持っているわけではないが、それでも桜はきれいだなと、素直にそう思う。同じ大学の学生であろうと思われるスーツ姿の女の子3人が、桜をバックにスマホで自撮りをしている。きっと同じ高校から仲の良い3人が同じ大学に来たのだろう。彼の友達は東京、福岡とかなり離れた大学に行ってしまっていたのもあり、そんな光景が若干うらやましく感じた。どうせならあいつらにも桜の写真送ってやろう、とスマホを取り出して桜の写真を何枚か撮ってみる。その中でそれなりによく撮れた数枚を、ラインで高校の友人2人に送る。二人とも暇なのか、すぐに既読がついたかと思うと、二人とも「お前がこんな写真送ってくるなんて珍しい」なんて失礼なことを送ってきたものだから、彼は少しの間は返信してやらんとばかりに、スマホをポケットに戻した。
そんなことをしている間に、彼はいつの間にか大学に到着した。まだ入学式まで時間があるからそんなにも人はいないだろうと高をくくっていたのだが、来てみるとそれなりに多くの新入生がすでに集まっており、もうすでにグループのようなものがいくつかできて、各々楽しそうに会話しているようだった。彼はコミュニケーションにおいて、不得意というわけではないのだが、自分からぐいぐいと行くようなことはないし、若干の人見知りもあるために、その中に入って行こうという気持ちには到底ならなかった。だから、そんな喧騒は横目に、とにかく入学式後のオリエンテーションで使う教室の場所を把握しようと足を速めた。
大学の教室に対するイメージといえば、前に大きな黒板があり、黒板から後ろに行くにつれて座席の位置が高くなっていくような、広いものを想像していたが、そんなことはなく、高校の教室をきれいにしたような、そんな特に代わり映えのしないものだった。誰もいないものとたかをくくっていたのだが、教室の真ん中くらいの席で机に突っ伏して寝ている女の子が一人、彼が教室を開く音に気付いて目を覚ます。一瞬しまったと思ったが、よくよく考えてみれば教室に入ることは各々の自由であるのだし、まあ仕方のないことだと特に反応するでもなく、荷物を教室の後ろのほうの席において、教室をあとにしようとしたのだが、思ってもみなかったことにその女の子から声をかけられてしまった。
「君も繊維学部の学生?」
「あ、ああ、そうだけど、君も?」
会話するにあたって彼女のことをちゃんと見てみると、ボブヘアのよく似合うかわいらしい子であった。まさかこんな地方の国立大学の工学部に、こんなかわいい子がいるなんてな、と彼は少し驚いた。
「うん、これからよろしくね。あ、私戸隠茅野っていうの。君は?」
「ん、ああ。長野原正利だ、よろしく頼む」
彼は正直どうでもよかった。もちろん社交辞令で挨拶することが重要であることはわかってはいるが、どうせ今後特に関わりのない相手と無駄にやり取りすることの意味は、正直まだ見いだせてはいない。時間はまだ9時ちょっと。彼は荷物も置けたことだし、適当に構内を散歩でもしようと、席をたち、教室のドアに手をかける。すると、再度後ろから声をかけられる。
「どっか行くの?まだ入学式まで時間あるよね?」
「暇だし、適当に学校の中見て回ろうと思ってな。」
「あ、いいね。私もついて行くからちょっと待ってて。」
正直言って、ついてきてほしくはなかった。彼にとってあまり仲良くない人と話すのは、どちらかといえば苦痛であるし、その相手が女の子であればなおのことである。一人でいるのが好きなタイプでもあるので、あんまり乗り気ではなかったが、ついて行く、と言い切られた手前断りにくさもあり、彼は結局押し負けるような形で
「うい」
とだけ適当に言った。
正直なところ、苦手な部類だな。別に嫌な奴とかそういうわけではないが、まだ出会って数分というくらいの相手に、こんなにすぐに距離を詰めるようなことは自分はこれまでの人生で経験がないし、どちらかといえば人間関係は慎重に進めていくほうが自分の性に合っているので、馬が合う相手ではない。早めに何かしらの理由をつけて早々に切り上げよう。彼女が準備しているを待っている間、彼はまだ足になじんでいない革靴で痛むつま先に少し煩わしさを感じながら、そんなことを考えていた。革靴が足になじむには、それなりに時間がかかるのだ。
(仮称) 友のち恋、ときどき雪 学生 @nihonnotakara
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