第10話

 ふわりと鼻孔をくすぐった薬品の臭いで、目を覚ます。

 足の辺りに重さを感じながら体を起こして辺りを見渡すと、見知った景色があった。

 それから自分が病服を着ていることを確認して、そこが学園の医務室だと気が付き、ため息を吐く。

 どうやらあの後、俺は無事保護されたらしい。誰が助けに来てくれたのかはまあ、明白だった。

 きっと三人組でお人好しな連中なのだろう。


 ずいぶんと心配をかけてしまっただろうし、怒られるかもしれない。


 俺の足を枕にして寝ている燈子が、顔を真っ赤にして何かを言う画が容易に想像できてしまって、苦笑した。


「まぶしいな……」


 気持ちよさそうに眠っている燈子のことを起こさないようにして、布団から足を抜くと、窓から差し込む朝日に目を細めながら立ち上がった。

 それから、彼女を持ち上げて隣のベッドへと横たえると、体の調子を確かめるために、グッと大きく伸びをする。


 いい朝だ。


「そう思わねえか、大天才」


 どこへともなく声をかければ、少し慌ただしい音が部屋の外から聞こえた。

 それからしばらくして、横開きの扉が開かれ、申し訳なさそうな顔をしたクロスフォードが顔を見せる。


「よお、元気かよ」

「ええ、誰かが助けてくれたおかげでね」

「そりゃあよかった」


 気安いやり取りながらも、やはりクロスフォードの表情は少しだけ重たい。


「その、もう起きても平気なのかしら?」

「ああ、まあな」


 別に傷を負っていたわけではないし、あの気絶は俺にこそ問題がある。単純にスタミナ不足だった、という話だ。


「今はむしろ調子いいぐらいだ」

「そう……」


 心底安心したという様子で彼女はそう頷いて、少し息を吐き出してから何かを言わんと口を開けたり閉めたりしながら、視線を彷徨わせている。

 どうして、そんな表情をするのかはなんとなしに察しがついた。


「その……わたくしは……」

「なんだよ、気にしてんのか? 守ってくれって言ったこと」


 だから、クロスフォード自身が口に出す前に俺が言う。

 驚いた様子の彼女に、苦笑いしてしまった。


「気にするなよ。幽鬼はあそこで、ああ動くのが役目だ」

「けれど……!」

「落ち着けよ。決まりごとにケチつけたところで始まらんだろ、それにほら、俺はお前たちのおかげで生きてる。違うか?」


 それが全てで、あれだけのイレギュラーが起きていながら、皆が皆生きているのだからそれまでの過程なんてのはどうでもいい。


 誰も死ななかったんだから、それでいいんだよ。


「だからまあ、あんなのは気にすんな。ありがとう。助かったわ」


 そう礼を言うと、クロスフォードはハッと顔をあげる。

 驚きに満ちたその顔がおかしくてふッと笑うと、彼女は顔を赤らめてそっぽを向かれてしまう。


 あ、ミスった。笑うのは流石にダメだったか。


 けど、そういった反応が出来るということはもう気にしなくても良さそうだ。


 なら、俺はさっさと寮の部屋に戻ることにしよう。

 授業に出る前に制服に着替えてしまいたいし、念のため測定室にも顔を出しておきたい。

 もっとも、大百足の話からして位階の測定は出来ないのだろうが。


 あとはまあ、燈子に怒られて、優雅に嫌味を言われて……

 面倒くさいな。どうせなら、両方一気に済ませるか何かで機嫌でもとってしまおうか。


 やることの多さにうんざりしながら、俺は医務室を出ようと扉に手をかける。


「待って」


 大きな声に振り返り、人差し指を口に当てて「しー」と言うと、クロスフォードが慌てて口を押えた。

 燈子の方を二人で確認すると、そこにはぐっすりと眠り、寝言まで言う燈子の姿が……


「ぜったいなぐる」


 聞かなかったことにした。

 一先ず安眠は妨げることはなかったので、そのことに安心しつつ、クロスフォードに視線を向けると彼女は顔を真っ赤にして俯いていた。

 自分が思っているよりもずっと大きな声が出てしまって、それが恥ずかしかったのだろうな。


 そんな大天才の様子を少し微笑ましく思っていると、突然彼女は意を決したような顔でこちらを見た。


「ミスター・ユウナギ、ありがとう。あの時、貴方がいなければわたくしは死んでいたわ」

「おう、どういたしまして」


 それだけ言うと、今度こそ俺は扉に手をかけてその場を後にした。





 高等部二年、最初の任務はこうして幕を下ろす。


 穏やかな日常などあるはずもない俺たちにとって、一時ばかり、ささやかな学園生としての生活を過ごすことになるだろう。



 されども、何も終わってはいない。

 そして始まってすらいなかった。


 


 俺はまだ、死を識らない。


 

 

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