第二部 4
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梅雨に入った。サイトウは大雨の中、数か月前、数年前に買ったダンロップの一番安いスポーツタイヤ、ディレッツァDZ102に交換した86で職場から帰宅した。フルウェットなので発進時にトラクションコントロールの作動を示すランプがチカチカ点滅する。サイトウはそんなメカが周囲の状況に対応して自律的にささやかな役割を全うする微かな痕跡を観察するのに結構な快感を感じた。だが、飽くまでもその全うされるべき役割はささやかでなくてはならない。飽くまでも操作における主人公は自分自身で、メカには飽くまでもささやかにサポートして貰い、その痕跡も大げさではなく飽くまで微かにとどめて欲しい。それがサイトウの人類文明に対するささやかな希望だった。
サイトウはクルマを新しく借りた月極駐車場にとめた。以前の駐車場は貸主から駐車場を貸すのやめるから新しいところを借りてくれと言われた。新しい駐車場はその年の元旦から契約した。不動産会社のカウンターでの商談の際、サイトウは借りる駐車場内に置ける位置について選択肢を与えられた。彼は学習していた。入口から離れた奥の位置を借りると後輪駆動車の場合少しの積雪でも走れなくなるので、雪かきをする面積が非常に大きくなってしまう。今回は、それを踏まえ彼は入口から最も近い一番手前の位置に契約した。それによって彼は雪かきによる体力喪失を最小化することに成功した。
前の駐車場の近くにはハッピードラッグがあったが、今回の駐車場の至近距離にも別のドラッグストアがあったので、出勤前そこで買って、職場で冷やして置いて持って来た缶酎ハイをクルマの中で映画を見ながら飲んだ。その映画はグーグルプレイで購入した
エリからLINEの返信が来たのは二回目の「なめたらいかんぜよ」の後だった。サイトウは例によっておすすめ商品をエリに紹介するメッセージを送っていた。以前は電子レンジで温めなくてもいいサンドイッチやサラダを中心にすすめていたし、サイトウ自身もそういうのを買って食べていたが、YouTubeで料理研究家が電子レンジを多用するのを見るうちに電子レンジに対する不当かつ根拠の希薄な偏見が拭い去られ、且つ冷たい物を食べ過ぎて内蔵の調子が悪くなったのを期に電子レンジであたためる食品も食べるようになった。今回も彼はラインナップから大盛タルタルチキン南蛮と鶏とネギの醤油パスタに合格判定を下し、その日の勤務中エリにLINEを送っていた。しかしながら、エリは今やこじんまりとしたパスタ専門店とはいえ、繁盛レストランのシェフだ。例えサイトウが合格判定を下したとしても、エリがサイトウと同じく合格判定を下すとは限らない。もはや以前のエリではない。ただ程度こそ違え、サイトウも以前のサイトウではなかった。
エリは返信の中で、今夜は二人とも休みだから、サイトウの家で料理してあげたいというようなことが書いてあった。サイトウはその提案に対して、サイトウ自身も料理したいからお互いがお互いの料理を作ろうよというダブルシェフ・システムを付随的に提案した。
――いいよ。ところで、私が作るのはベネチア風レバーでいいかな? 前、食べてみたいって言ってたから。
とかいったメッセージが様々な絵文字とともに画面に表示されていた。ただ、ここ最近は絵文字の数がちょっと減ったような気がサイトウはした。六か月も付き合えばそんなもんかな。
――いいよ。楽しみに待ってます。
以上のようなメッセージにベネチア風レバーはなかったので何か似てる料理やペンギン、快諾を示唆する喜ばしい笑顔等の絵文字を付け加えて返信を済ませた。やりとりの間にサイトウは既に帰宅していたので、見ている最中だったネットフリックスのドキュメンタリーシリーズ《ローマ帝国》を再生し、ウィスキー・ソーダを飲んだ。やりとりの最中サイトウが料理するメニューに関してはお互い一切質問も提案もなかった。なぜなら、サイトウが出来る料理は例によってステーキ一択だったからである。
サイトウのステーキは一年前とは別物と言えるほど進化していた。ステーキみたいな簡単な焼くだけの料理がこれ以上進化するはずがないと思っていたが、やはりしつこく週二ペースで作り、色々な動画や料理本を参考にしていると新たなアイディアが湧いてくるのである。基本的なレシピはそのままで、細かい点の変更だけだったが、それでもクオリティーは結構向上した。そのクオリティーの高さからサイトウは自身のレシピを「ステーキ2・0」と呼んで差し支えないとさえ勝手に一人で昂然と思い上がっていた。「ステーキ2・0」の真価を理解して頂くにはまず、「ステーキ1・0」のレシピから説明しなくてはならないっていうかしたい。最初に断っておきたいのは、このレシピは当時のサイトウが家庭での限られたリソースで手間をかけず洗い物を最低限に抑え短時間で最高においしいステーキを焼く目的で作られたので、プロから見れば改善すべき点は相当数含まれているのは百も承知である。
ステーキはただ単に焼くだけだと表面だけ焼けて、中が冷たくなってしまう。厚さ1センチ以下であればそれでも熱が入っておいしくなるが、1・5センチ以上の場合は何らかの工夫が必要になる。方法は二つで、一つは焼く前に常温に戻す。高級な霜降り肉だったらそれでいいけど、安い肉の場合や、常温に戻す暇がない場合には二つ目の方法、焼いた後か途中で休ませる。アメリカ人のシェフは焼いた後、五分休ませてから食べていた。それだと冷めるので、日本人シェフは焼いている途中でバットに置いたり、アルミホイルで包んだりして休ませる。ただ、それだとバットかアルミホイル買ってこないといけないし、バットがあったとしてもそれを洗わないといけない。サイトウの方法は焼いている途中で火を止めて、フライパンの上で休ませて冷ましてからまた焼くという方法だった。「ステーキ1・0」の頃は冷ました後の弱火で焼く時間だけを実験して計測して厚さごとの完璧なミディアムレアになる時間を算出した。その方法が完成したのが去年の終わり頃だ。
「ステーキ2・0」になると、最初強火で焼く時間、冷ます時間、弱火で焼く時間、全てを室温毎に区切って厳密に決定した。冷ます時間は最初一分にしてたけど二分にした方が余計なドリップが出切って、皿に盛った時皿がビショビショにならなくていいことが分かった。
料理本を読むと蓋をしない方が表面が香ばしくなっていいと書いてあったが、蓋をしない訳にはいかなかった。普通の家はキッチン、ダイニング、居間が全部繋がっているんだから、蓋をしないと換気設備の貧弱さから一帯に煙が充満してしまう。そこで妥協案としてサイトウが提出したのが最後弱火で焼くとき、最後の一分間だけ蓋を取って火加減を中火にするというものだった。その頃合いには煙もあまり出ないし、一分蓋とって焼けばまあまあ表面も乾燥してちょっとは香ばしくなったような気がする。
最後の肝心な改善点は焼くときフライパンの位置を動かすというものだ。ステーキ二枚焼く時なんかだとフライパンの上では肉を動かす余地が無い。そのまま焼くと厚いとこはレア過ぎ、薄いとこがウェルダンになってしまう。それが「ステーキ1・0」の最大の欠陥だった。そこで閃いて、フライパンを常時動かしてなるべく厚いとこに火が当たるようにし、薄いとこには火が当たらないように調節してみたら、厚いとこも薄いとこも均一に完璧なミディアムレアにすることが可能なことを発見したのだった。
勤務先のコンビニで買ったお手頃価格ロース生ハムをつまみに、ウィスキーソーダを飲みながら《ローマ帝国》をしばらく見た後は、《腹ペコフィルのグルメ旅》を見ながら、つまみ無しで飲み続け、しめに料理研究家のレシピをアレンジし、パスタと各種調味料だけで作った具無しの
夕方に目を覚まし、白湯を飲んでからコーヒーを飲みながら
既に雨は上がり、路面はハーフウェットだった。サイトウが向かったのは丘を上がった台地に立地するスーパーだった。スーパーまでの登り坂はカーブがしつこく連続する。サイトウはこのスーパーまでの往復路が《アセットコルサ》のニュルブルクリンク北コースみたいだなと思っていた。《アセットコルサ》とは家庭用ゲーム機向けのレーシング・シミュレーターで現実の物理法則に沿った挙動を再現している。彼はそれに収録されたコースの中からドイツのニュルブルクリンク北コースを選択し、A80スープラ・チューンドで毎日走り込んでいた時期がしばらく前にあった。そのゲームでは現実にニュルに行って千円くらいの入場料を払って、現実のスープラで現実にアタックする感覚をある程度味わえたが、丘の上のスーパーに行く時、この疑似ニュルブルクリンクを現実の86で走るのは、まるでとてつもなく現実的なゲームをやっているような感覚を味わえた。FFのZZTセリカだったころはウェットだろうがアイスだろうがスノーだろうがとにかく闇雲に踏めば大体良かったが、FRの86は駆動輪のグリップが極端に低く、ハーフウェット時でもアクセルの踏み加減を慎重に調節しないとすぐにホイールスピンしてしまうし、最悪車体がスピンして事故ると相当厄介だが、そんな厄介なクルマを真剣に運転しスキルを身につけていくプロセスにはストイックな快感もともなった。ハーフウェットでは厄介な程度だが、これが大雪だと文字通り泣きそうになる。彼は大雪の通勤時には南極横断に挑戦する冒険家の気分で運転し、最悪辿り着けないのを覚悟していた未熟な時期もあったが、スキル次第でどうにかなるのを段階的に学んでいった。数年後には連続半クラッチとカウンターステアを自在に操るようになっていた。
スーパーに到着したサイトウはかごにカットキャベツ、塩せんべい、魚肉ソーセージ四本パック、ステーキ用牛ロース、ダノンヨーグルトバニラ風味四個セットを次々に放り込んだ。いつもは最後に缶チューハイをかごに入れて締めくくるのだが、今回に限っては缶チューハイは割愛した。それはなぜかと言うと、今夜はエリがChatGPTに教えて貰ってAmazonで買った、ベネチア風レバーに合うワインを持って来てくれるからだった。わざわざワインを持って来てくれるのに安い缶チューハイで出来上がってる訳にはいかない。エリの話だとChatGPTは第一候補に辛口白ワインのピノ・グリージョなんかを推して来たが、今回はステーキもあることから第二候補のライトボディな赤ワインから、フルーティーですっきりしたヴァルポリチェッラを採用したとのことだった。昔読んだ手塚治虫の漫画では、一人一台手のひらサイズの端末を持っていて分からないことをその端末に訊くと何でも正しい答えを教えてくれる未来が描かれていたが、そんなテクノロジーが去年の十一月にウェブサイト上に無料公開された汎用型対話用AIによって突然実現してしまった。サイトウにとってそのテクノロジーの実現は人類史上において火の発見に匹敵するように思えた。
火に匹敵するとは言っても必ずしも正しいとは限らない。サイトウがステーキの焼き方を訊いた時、ChatGPTが教えてくれた方法は例の数分ずつ表と裏を焼いて数分休ませてから食べるアメリカ合衆国方式だったので、熱い物は思わず「アッツ!」と言ってしまうほど熱々で食べたい典型的日本人のサイトウにとっては正しい焼き方とは言えなかった。ただ、ロシアのプーチン大統領がウクライナにおける戦争で核兵器を使用する可能性について質問した時は、人間の解説よりも説得力がある回答が返って来た。とにかく週刊誌は話を盛り上げる為にプーチンが核を使う使うと書くものだから、サイトウも結構心配になって全面核戦争になって生き残ってしまって、焼け残ったコンビーフの缶詰なんかを食って暮らすことになったらどうしようとちょっと思い煩っていたが、ChatGPTによる「プーチンにとって核の先制使用はデメリットが大き過ぎるから実行する可能性はとても低いだろう」という言葉にかなり慰められたという。ChatGPTもステーキは食ったことないから焼き方なんかよく分かんないだろうけど、政治や経済の問題は本来AIが人間より得意としていたチェスや囲碁と同質の戦略的思考分野なので信憑性が高いのだろう。戦略は上出来、ステーキはそこそこ、ジョークはひどい。いいジョークを言うにはいい子過ぎる。サイトウは一人でそんな分析結果をまとめた。
買い物を終えたサイトウは駐車場の86へ戻り、買い物袋を助手席に置き、ピットロードを制限速度内でゆっくり走り、疑似ニュルブルクリンクへと合流した。疑似ホームストレートの手前には高校の前に疑似シケインがある。もしこれがクローズドサーキットだったら四速で突っ込んでから素早くフルブレーキング、と同時にヒール&トウでレブマッチしながら三速、二速へ連続シフトダウンし、ブレーキをゆっくり戻してからアクセルオフでシケインを曲がり、ステアリングを戻し切ってから二速で立ち上がって全開加速するはずだが、制限速度40キロの一般道路だったので世間体、近所迷惑、コンプライアンスを考慮し五速で疑似シケインに向かって強めのブレーキ、そのまま五速で立ち上がってほどほどの加速で月極駐車場へと向かった。
一旦、自宅に帰って買ってものを冷蔵庫、冷凍庫及び所定の位置に置いてからエリのアパートへ向かった。エリのアパートはクルマで十分ほどの住宅地にあった。クルマを二階建てアパートの前に路上駐車し、一階のエリの部屋のブザーを押した。スピーカーからエリの声が聞こえた。
――ハーイ、今行くー。
「あ、はい」
しばらくの間、車内の二人に一切会話は無かった。六か月も付き合えばそんなもんかな。エリは携帯電話画面を一心に見ていた。彼女が見ていたのは国際的コメディアンがイタリア観光を満喫している動画だった。その国際的コメディアンは国際的なサッカー大会の会場付近でアルジャジーラに出演したことをきっかけに世界的名声を獲得した。彼女は国際的コメディアンが異国情緒たっぷりの何かを身近でお馴染みな何かに例える芸を半笑いと失笑を交えつつ存分に堪能していた。サイトウはエリが地味に楽しそうだなと思ったので訊いてみた。
「イタリア旅行とか興味あるの?」
「いや、別に」
「あ、はい」
こうして、ようやく始まった会話はすぐに終わった。ま、こんなもんだろ。月極駐車場に到着し、サイトウは荷物を持ちエリと自宅までの道を歩き、そして歩き切った。一行が自宅に到着すると、エリは食材をパッケージから解放し、それぞれの下処理を始める。玉ねぎを切り、仔牛のレバーを切ってから水洗いしてからキッチンペーパーで拭く、予め作って容器に詰めて置いたポレンタを切る。サイトウも同時進行で肉に塩コショウを振り掛け、フライパンにオリーブオイルを入れ、タイマーをセットする。今回の肉は最も厚い部分が1・8センチだったので、その最も厚い部分をミディアムレアにし、他はミディアムになっても致し方ない方向で調節し時間を決定した。自分で食べる時は厚いとこがレア過ぎでもいいから薄いとこをミディアムレアにする場合が多いが、やはりレア過ぎだと若干固くなってしまうので人に出すときは若干火を長めに入れた方がいいだろう。エリのベネチア風レバーに関しては、日本では入手し易い鶏レバーで代用する場合が多いが、今回は仔牛レバーを専門店から入手し本格的なレシピを踏襲していた。
迅速な作業工程を経て、本日のメインディッシュ〈専門店から買った仔牛レバーのベネチア風、焼きポレンタを添えて〉と〈丘の上のスーパーで買った安い肉のステーキ、レンチン後に炒めた冷凍ミックスベジタブルを添えて〉は完成した。サイトウが伝統的なイタリア料理を食いたいと思う動機はただ美味いものを食いたいという訳ではなかった。最悪、美味くなくても良かった。ただ美味ければいいんだったらレバーなんか使わないで普通の豚肉だったら豚肉を玉ねぎと一緒にフライパンで炒めてケチャップ、ウースターソース、塩コショウ、醤油、酒なんかで味付けし、ホカホカの白メシと一緒にかきこめばいいだけの話だ。伝統的なイタリア料理を伝統的なレシピで伝統的な材料を揃えて食いたい動機の核心にはイタリア人気分を味わいたい、より具体的にはマフィア映画に登場するイタリアン・マフィア気分を味わいたいという事があった。焼きポレンタよりホカホカの白メシの方が絶対美味いはずだが、白メシはマフィアっぽくないから全く面白くない。焼きポレンタの方が美味いかどうかは別にして完全にマフィアっぽいから面白いのである。サイトウはナイフで焼きポレンタを切ってその上に肉と玉ねぎを乗せてフォークで口に運んで食った。なんとなくその食い方がマフィアっぽいような気がしたからだ。サイトウはおもむろに料理を咀嚼しながら、《ゴッドファーザー パートⅡ》でマーロン・ブランドの真似をするデニーロを真似た声量を落としたかすれた声と表情と話し方と仕草で彼が知っているほとんど唯一のイタリア語を言ってみた。「ボーノォ、ボーノォ」エリの半笑いの表情から、こいつまたデニーロやってるな。という心の声を彼は確かに聞き取った。エリは感想を普通に言った。
「こっちもおいしいよ。完璧なミディアムレア」
「キミのこれも最高だよ」
「ありがとう」
我々はステーキを食べ、食べきり、ベネチア風レバーを食べ、食べきり、焼きポレンタと炒めた冷凍ミックスベジタブルも食べきり、ヴァルポリチェッラも飲みきった。我々はやるべきことをやり終え次の段階に進もうとしていた。エリが別れ話を切り出したのはその時だった。すなわち、その夜の我々には次の段階は無かった。結果として、翌日からはいかなる段階も無くなってしまうだろう――私の予測は絶望的かつ運命的で、それから逃れる術は全くないように思えた。
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