第二部 3

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 タカモリは春の優しい光を浴びて目覚めた。彼はディレッタントだった。彼はレストラン五店舗を経営する経営者ではあったが、実質的に仕事は下に任せていたので、趣味に没頭する時間が有り余っていた。例えば昨晩はワインを飲みながら、映画を見た。昨晩のワインはイタリア産辛口白ワインのソアーヴェ、映画は五社英雄のヤクザ映画出所祝いだった。《出所祝い》は週刊誌の記事で紹介されていたのを読んで見てみたいと思った。主演の仲代達矢が大好きだったし、双子の女殺し屋コンビに興味を惹かれた。なんかこう双子であることを有効活用した幻惑戦術みたいのを期待していたが、酔っぱらって見たので、細かい演出はすっかり忘れてしまった。酔っぱらって見るとちょっとでも話がややこしいと話も理解出来なくなってしまう。《出所祝い》は人間関係が複雑過ぎで正直よく分からなかったが、情感たっぷりの演出と俳優陣の熱い演技でとりあえずなんとなくの対立関係はやんわりと分かるので、そのやんわりとしたなんとなくの理解で、時間を戻して展開の確認をせずに強引に最後まで見た。タカモリが好きだった双子の女殺し屋コンビは前半で早々に田中邦衛に反撃され姿を消した。死んだのかな。酔っぱらってたのですっかり忘れてしまっていたら、しっかり生きていて、終局部で仲代と戦っていた。彼女らの基本戦術はターゲットに一人目が前方から接近し注意を引き付けた上で、二人目が背後から傘の柄に仕込んだ細身のナイフで首の後ろを突き刺すというものだった。そんな殺し方を見て、タカモリは自らの過去に思いを巡らせた――彼は殺し屋を雇って敵を殺したことがあった。

 彼のように仕事を下に任せて趣味に没頭していると、組織内で反乱を企む者が現れ秘密裏に勢力を拡大させるリスクがある。彼はクーデターの危機に直面していたが、幸い敵の裏切り者の密告によって脅威を事前に察知、いち早く対抗策を講じることに成功したのだった。敵の名はアキラだった。アキラは自宅のキッチンで普段はそこでトマトを切る為に使われていた柳葉包丁で頸動脈を切断され死んでいるのが発見された。今のところ実行犯に関する手掛かりも無く、タカモリのディレッタントとしての優雅な日々を脅かす司法的リスクも皆無だ。優雅にソアーヴェを飲み干し、《出所祝い》を見終わったタカモリは彼の快適な眠りを存分に眠った。

 午前八時頃、素晴らしい朝を迎えたタカモリはコーヒーメーカーで淹れたブラックコーヒーを飲みながらヘンリー・ジェイムズの《ある婦人の肖像》を読んだ。その小説は作者が三十八歳の時に発表し大成功を収め、彼の初期における最高傑作と評されている。待てよ。タカモリは思いを巡らせた。三十八歳と言えば、去年死んだ時のアキラの歳と一緒じゃないか。確か《デイジー・ミラー》でデビューし、必死に世に認められようとして書いた《ある婦人の肖像》が大成功したヘンリー・ジェイムズと同じ年齢でアキラはクーデターに挑み、失敗して死んだ。三十八歳という歳は成功し繁栄するか、失敗し死ぬかどちらかに転ぶ転換点になりやすい歳なのかもしれない。そんな仮説は単なる勘違いかもしれないが、アキラがヘンリー・ジェイムズでなかったのは間違いない。ただ、もしアキラがヘンリー・ジェームズだったら、俺はこの働かなくてもカネが入ってくる優雅なディレッタントとしての生活の基盤となるシステムを失い完全に滅び去っていたことだろう。三十八歳。この歳には用心するに越したことはない。

 携帯電話の電子書籍アプリを閉じ、コーヒーを飲み終えたタカモリは歯磨きと洗顔を済ませ、卵を二個ボウルに割って水と塩コショウを入れてからかき混ぜ、ふっくらとしたオムレツとカリカリに炒めたベーコンの軽い朝食をサッと作ってパッと食べ、自宅のガレージに向かった。彼は二階建ての一戸建てに住んでおり、その自宅にはシャッター付きの屋内ガレージが備え付けられていた。彼はボルカニックアッシュグレイメタリック、要するにダークグレーのA91型トヨタGRスープラに乗り込み、シャッターを開け、フィットネスクラブへ出発した。

 スリーペダルマニュアルのFRスポーツでフィットネスクラブに到着したディレッタントは一連の筋力トレーニング及び有酸素運動を実行した。水分補給し、シャワーを浴びスッキリすると一旦帰宅してスーツに着替える。トレーニングですっかり腹ペコになったタカモリは彼が経営するイタリアンレストランに行って抜き打ち検査を兼ねて昼食を食べようと思った。自分の店でメシを食うなんて野暮なことをするのは働いてる連中にとっても大迷惑でしかないだろうから滅多にやらなかったが、全くやらない訳にもいかないだろうし、極稀にだったら、まあ、いいんじゃないかな。

 スープラでレストランに赴き、店に入ったタカモリは、ホールを見渡せる奥のテーブル席に座り、おもむろにメニューを眺める。彼はスパゲッティ・カルボナーラとフラスカーティーの白ワインをグラスで注文することにした。カルボナーラは思想や好みで様々なバリエーションがある料理だ。大別すれば卵だけで卵液を作る本格志向で伝統的なものと生クリームを加えて卵液を固まりにくくし、作りやすく、且つより熱く仕上げるものに別れる。ここのカルボナーラはシェフの意向で本格志向の方だった。タカモリはもっと熱い方が好みだったので、後でシェフと極めて穏やかな意見交換をしてみようかと思った。こんなアイディアをその意見交換で提示するのも悪くないかもしれない。本格志向と生クリーム有りの2パターンを客が選べるのはどうだろう。いや、待てよ。早まるな、タカモリ。そんなことを言ってみろ。シェフに作業効率が低下して提供スピードが落ちるとかなんとか反論されてあからさまに迷惑そうな顔をされ、その上内心では、たまに来て何の役にも立たない忠告と無駄に仕事を増やすだけのバカな指示を出すだけの無能な経営者だと見下されるだろう。挙句の果て、第二第三のアキラの出現を促し、クーデターを起こされかねん。その都度殺し屋を雇ってたらきりがないってもんだ。タカモリはそのような英断を下しあまり熱くないカルボナーラを食べ終え、フルーティーでフレッシュなフラスカーティーを飲み終えたら、ただ、とてもおいしかったよ、とだけ言い残し素早く退店しようと人知れず心に決めた。

 そんなタカモリは食事中、隣のテーブルの二人組の女性客のちょっとした会話を小耳にはさんだ。行きつけのコンビニの店員に熱々でアルデンテで圧倒的にうまいアラビアータが食べられるってすすめられて行ったレストランあるんだけど、そこ良かったよ。へえ、なんてとこ? 〈パルテンザ〉ってとこ。

「ふうん。じゃあ、そこ、ここよりおいしい?」

 タカモリは質問された女性客が大きくうなずくのを横目で確かに見た。ふうん、そうかい。ここよりおいしいんだ。だったら、行ってみない訳にはいかないじゃない。


 〈パルテンザ〉は繫華街の商業ビルの一階の通りに面した部分にあるカウンターだけのパスタ専門店だった。タカモリがスープラを駐車ビルに駐車し、パルテンザに赴いたのはランチのオーダーストップ間際だった。カンターは一般的なL字形状で席数は十席。そのほとんどが埋まっており、タカモリは空いた席に座った。カウンター越しのオープンキッチンで調理しているのは女性一名。見たところ他に従業員はいないらしい。備え付けのメニューを見て納得した。一人でもやりくり出来るように相当絞り込んで効率を優先している。料理は各種パスタにサラダのみ。デザートはちょっとしたティラミスさえ無かった。ただ飲料はそれなりに充実しており、生ビールからハイボール、ウィスキーまでアルコール類もしっかり揃え、銘柄は指定出来ないがグラスワインも提供していた。これは家族連れは度外視し、純粋な食事客及び飲み屋感覚でも入れるような戦略を採用しているのだろう。タカモリは店主と思われる若い女性に昨日食ってちょっと納得行かなかったスパゲッティ・カルボナーラと白ワインを注文してから、携帯電話で読書を始めた。

 イタリアのパスタはぬるいらしいし、アメリカのラーメンもぬるいらしい。日本人は熱いものは思わず「アッツ!」と言ってしまうほど熱々でないと駄目だし、冷たいのはキーンキンに冷えてないといけない。これは大陸と島国の違いだな。タカモリは思った。日本人の嗜好は島国らしいディテールにこだわる神経質な偏狭性に由来するのだろう。熱ければ熱い方がいいけどぬるくてもそれはそれで食べやすいし熱による食道がんリスクを低下させるので、それはそれでいいんじゃないかと考える心の広い大らかさに憧れていたタカモリだったが、やっぱり日本人だったので、カルボナーラは可能な限り高温で食うのが彼の希望だった。

 キッチンの彼女のカルボナーラは結構な高温で、彼はかなりの好感を感じつつ口に運んだ。カルボナーラを食べ終え白ワインを飲み終えたタカモリはワインをもう一杯注文した。ワインを持って来た彼女はタカモリに話し掛けた。

「お味はいかがでしたか」

「おいしかったよ。熱いカルボナーラが好きなんだ」

「ありがとうございます」彼女は満面の笑みで感謝した。「さっきチラッと見えたんですけど、英語の本を携帯で読んでましたよね」

「ああ。ちょっとシェークスピアを読んでたんだ」

「シェークスピア? 分かるんですか」

「分からないね。古い英語で語順も違うし。ただ、分からないとこでも翻訳書を見ればすぐ分かるから、それでなんとか読み進む感じだね」

「シェークスピアのなんですか」

「《アントニーとクレオパトラ》です」

「どんなお話なんですか」

「どんな話か知りたいの? 説明してもいいけどすごく長いよ。大丈夫?」

「大丈夫です。もうランチは終わったし」

 タカモリはワインで喉を潤してから説明を始めた。

「主人公はマーク・アントニーっていうローマ人、今風に言うとイタリア人。でこの《アントニーとクレオパトラ》はシリーズ第二作で前作ジュリアス・シーザーの続編でアントニーはそっちでもキーパーソンではあるけど脇役で登場しているからまず、そっちから説明しないといけないっていうかしたい」

「どうぞ」彼女は満面の笑みで促した。

「え、ああ、ありがとう」タカモリは彼女の満面の笑みを恍惚とした目で眺めながらワインを飲んだ。彼はその時何らかの運命的な何かが始まったかのような印象を受けた。タカモリはグラスを置き、説明を続けた。

「その昔、古代という時代にローマ帝国という国があったんだけどそこの最高指導者は皇帝という称号を与えられジュリアス・シーザーがその皇帝だったんだ。大概の凡人はこういう権力者をあがめてありがたがってこびへつらうものなんだけど、中には稀に気概がある奴がいて、そういう奴らは権力者を殺そうと思い、度胸がある奴は実際に殺してしまったりする。キャシアスはそういう気概に溢れた奴で彼はブルータスというシーザーの側近を陰謀に誘い入れて、見事暗殺に成功する。そこで、アントニーなんだけど、このアントニーも暗殺計画に誘うんだけど断られてしまう。キャシアスは後々敵対者になることを心配してそのアントニーも殺そうと提案するんだけど、ブルータスはその優しさからその訴えを退けてしまう。キャシアスの判断は正しく、ブルータスは致命的な過ちを犯した。アントニーを生かしておいたことが後のキャシアスとブルータスの滅亡の遠因になる。キャシアスとブルータスを含む反乱分子らが処刑され《ジュリアス・シーザー》は幕を閉じる。それから時が過ぎ去り時代は三頭政治時代に入る。三人で帝国を支配するって意味なんだけどその三人がアントニー、オクタヴィアス、レピダス。でこのアントニーがローマ帝国支配下のエジプトでクレオパトラっていうエキゾチックで魅力的な女性といい感じになってて政治をほったらかしにしていた訳だよ。三人もいるから一人くらい遊んでてもいいかみたいな話だ。けどまあ、オクタヴィアスに呼び戻されてオクタヴィアスの妹と結婚し真面目に支配者としてやっていくかと思いきや、いろいろあって、このオクタヴィアスと揉めてしまう訳だ。それでアントニーはまたエジプトに帰ってクレオパトラとよりを戻し、オクタヴィアスとの最終決戦へと進んで行く、みたいな感じの話」

「最後はどうなるの?」

「最後はアントニーもクレオパトラも自殺する。悲劇の場合は主人公が死ぬのが決まりだから。ただ厳密な分類だとこれはローマ史劇だけど、実質的な内容としてはローマ史劇も悲劇に大別される。ちなみにイギリスの歴史を扱った歴史劇も中身は悲劇だね」

 タカモリは携帯電話を片手に途中、忘れた人名やディテールをネットで調べながら長々とした説明を終えた。

「たくさん説明してくれて、ありがとう」

「え、いやいや、どういたしまして」

 前作では反乱分子どもを処刑し、成功者となったアントニーは、続編ではエキゾチックな女とだらしない生活をしてオクタヴィアスに侮られ滅亡してしまう。俺もおかしな女と付き合えば、アントニーのように滅んでしまうかもしれん。だが、この女は決しておかしな女などではない。彼女は俺を幸福と繁栄に導く女に違いない。目を見れば分かる。これほどまでに英雄的で澄み切った目の女が男を滅ぼすはずがない。史上かつてそんなことはなかったはずだ、きっと。彼女が俺を幸福に出来るとすれば、俺は彼女に何をしてやれるんだろう。俺には有り余るリソースがあるじゃないか。それをもってすれば、俺と彼女のこの幸福の小さい芽を太く大きい木へと育てられるに違いない。タカモリは熱情に満ちたそんな感想を心に秘めつつワインを飲み終え、店を出た。


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