第二部 2
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サイトウは敵対者の攻撃によって再び損なわれた。彼は消化器系の機能異常に見舞われた。数日が過ぎ、彼は回復し始める。休日前の最後の出勤時には消化器系は正常に戻った。退勤時間になるとユニフォームを脱ぎ、バックパックに丸めて突っ込んで店を出て、マイカーのトヨタ86前期型に向かう。サンシェードを外し、サンバイザーを下げ、サングラスを掛けた。サングラスは《レザボア・ドッグス》でハーヴィー・カイテルが掛けていたレイバン・ウェイファーラーと同じ形をしたアマゾンで買った安いパクリ製品だったが、機能、デザイン共に本物と遜色は無かった。キーを回しエンジンが始動すると電装系に電力が還流し、86は生き返った。エンジンはリズミカルなアイドリング音を奏で、いかなる機能異常の兆候も見られなかった。クラッチとブレーキを踏み込み、ハンドブレーキを下げ、アクセルを踏みながらクラッチを繋いだ。二週間前までは、古いスタッドレスタイヤを通年履きっぱなしにしていたので信号で停車した時先頭だった場合は全開加速を満喫していたが、迫り来る冬に備え新しいブリジストンのスタッドレスに買い替えたことから、タイヤ・マネジメントを考慮し、そーっと発進し、二速と三速も誘惑に抗って踏み過ぎ無いように注意しつつ早めのシフトアップを心掛けていた。
サイトウは何かを好きになるとそれになりたくなった。例えば、大学生の時はマイケル・ジャクソンが好きだったのでマイケル・ジャクソンになりたくなったし、マイケル・ジャクソンになる夢も見さえした。いつしか深く傷ついた時などはドラえもんになって公園で子供たちを面白がらせたいと思った。ドラえもんになりたいと思ったことは覚えていたが、深く傷ついた原因についてはすっかり忘れてしまった。サイトウは純真なのかもしれない。サイトウが三十二歳のとき初めて《E.T.》を見てとてつもなく感動した後は、主人公の小学生、エリオットが着ていた赤いパーカーと履いていた白地に赤いナイキマークのスニーカーを買ったりしていた。赤いマークのナイキは結構な期間履いていたが、赤いパーカーは一度も着ないで箪笥の中に放置されていた。とにかく何かを好きになるとそれになりたくなるサイトウは、この時、マーヴェリックになりたかった。
《トップガン マーヴェリック》はその年の五月二十七日に封切られた。諸事情により映画館には行きたくなかったサイトウは、配信版の発売をただひたすら待った。公開開始から約三か月後の九月九日に配信版が発売された。その前日から夜勤として勤務していたサイトウは、日が変わった瞬間から十五分置きに携帯電話のダウンロード用アプリを確認し配信開始を待ち続ける作業を退勤時間まで継続したが、そんな直ぐには配信開始されることはなくダウンロード出来たのは退勤後帰宅睡眠起床し、休日だったが発注をしに再度その日の夜に職場のコンビニに到着するのを待たれた。サイトウは発注する間にアプリを起動してそのコンビニの無料Wi-Fi経由でトム・クルーズ史上最大のヒット作を無事ダウンロードすることが出来た。帰宅して缶酎ハイとカナディアンクラブ・ソーダを飲みプリッツをつまみながら一回目を見た感想は、大体予想していた通りの内容で驚きはないというものだったが、その後も休日には《トップガン マーヴェリック》を見るのが恒例行事になり、五回目を見た時も全く飽きずに楽しめた。端的に言えば、それはここ最近のトム・クルーズのアクション映画と違って、戦闘よりも人生に重点を置いた映画だったからだろう。
サイトウがマーヴェリックになりたくなり始めたのは、大体三回目を見ている最中だった。マーヴェリックになる具体的な方法として彼が考案したものは、マーヴェリックがF‐18やF‐14を操縦する様に彼の86を運転するというものだった。更に具体的には、マーヴェリックとルースターが敵のF‐14を盗んで逃亡している最中に敵の第五世代戦闘機に発見され、ちょっとビビッて諦めているマーヴェリックに対してルースターが、It`s not the plane. It`s the pilot! と言って励ますと俄然やる気が出たマーヴェリックが急旋回して敵機に機銃掃射を命中させるところみたいな感じに86で車線変更するというものだった。サイトウはマーヴェリック風車線変更を何回かやってみて遂に一つのことに気づいた――これ、ただ危ないだけだな。 その後、彼があのマーヴェリック風車線変更を封印したのは言うまでもない。
そーっと加速し、そーっと車線変更して月極駐車場に到着したサイトウは出勤前にハッピードラッグで買って店のウォークイン(冷蔵室)で保冷して退勤時に持って来た缶酎ハイを飲んでようやく生き返った。ミシェル・ウェルベックの小説では煙草はそれを吸いたくなった時にその要求のみを満たすシンプルなドラッグだと書いてあった。無論、ハッピードラッグでも売っている。その基準に照らし合わせて考えれば缶酎ハイはより複雑なドラッグだ。缶酎ハイには、飲みながら音楽を聴いたり映画を観たりするとそれらをより一層楽しめるという煙草には無い効能がある。特に酔ってる時に聴く《デンジャー・ゾーン》は最高だ。所持しているのを警察に見つかれば逮捕されるコカインは更に複雑なドラッグだ。司法的観点からは複雑になればなるほど刑事罰リスクは増大するが、医学的観点からは複雑だろうとシンプルだろうと何らかの健康被害リスクが増大することに変わりない。必ずしも誰もがハッピーになる類いのドラッグばかりではない。
サイトウは白いクーペの運転席で缶酎ハイを飲みながらネットフリックスが配信する映画を携帯電話で見た。映画はヴィゴ・モーテンセンがどうしようもないアメリカのジジイを演じる《グリーンブック》だった。サイトウはこのどうしようもないアメリカのジジイのどうしようもない感じが大好きだった。全然面白くない話を延々としゃがれ声で話し、大食いで、太ってて、たまに万引きし、美しい妻を深く愛している。名前はトニー・リップでそのどうしようもない感じが北野武の《菊次郎の夏》の主人公に似ていた。トニーが何か食ってるところが良かった。分厚いサンドイッチ、ホットドッグ、ピザ、ケンタッキー・フライドチキン。サイトウはトニーがクルマを運転しながらムシャムシャ食べる分厚いサンドイッチの食べ方が気に入って真似したくなったので、後日勤務するコンビニで売っていた分厚い感じが似ていたベーコンレタスチーズバーガーを買って休憩時間にムシャムシャ食べ、どうしようもないアメリカのジジイになったような気分を味わった。
そのどうしようもないアメリカのジジイは、上品で真面目な黒人ピアニストのコンサートツアーにドライバーとして同行する。白人がどうしようもなくて黒人が真面目なところは《リーサル・ウエポン》シリーズを彷彿とさせた。いかにもアメ車っぽい昔の米国製大型セダン、1962年型キャデラック・ドゥビルを運転するトニー・リップを見て、サイトウはアキラと速そうに見えなくて速いBMW5シリーズで東京に行った日帰りの旅を思い出した。アキラが勤める飲食店グループにサイトウが就職するにあたり、彼らは新宿のデパートにサイトウのスーツを買いに行ったのだ。その一か月後、アキラはサイトウと飲みに行った夜、何者かに暗殺された。警察はアキラがバーから一緒に帰宅した女性を重要参考人として捜査中だが、犯人が逮捕される見込みは未だにない。サイトウは衝撃を受けたが、偶然クラブで再会してから二回会っただけで殺されてしまった小学校の同級生なので、深い悲しみに暮れた訳ではない。空虚な衝撃のようなものは、五か月という時間を経て徐々に薄らぎ和らいでいった。殺されたからには彼を殺したいと思った敵がいたはずだ。その敵に対して彼はいかなる行動を実行して敵の恨みを買ったのだろう。不正融資とかが絡んでいるのかもしれない。あるいは、アキラが恨みを買うような行動をこれから実行しようとしていたのかもしれない。サイトウにはアキラが何をして、何をしようとしていたのか全く見当も付かなかった。いずれにせよ既にその事件はサイトウにとって全く関係の無い出来事となり果てていた。彼はその事件から影響を受けることも、その事件に影響を与えることもないだろうと思っていた。さらば、束の間の友よ。俺に出来ることは無さそうだ――だろ?
ソニー製携帯電話とバックパックを手に持ったサイトウはクルマから降りると携帯電話から繋いだヘッドフォンでジャスティン・ビーバーを聴きながら肌寒い朝の道を歩いて自宅に帰った。彼は開けた月極駐車場を歩きながら途中一度振り返り、二秒間86を斜め後方から眺めた。ダックテール気味のリアスポイラー無しのリアトランク形状が好きだった。出来れば、五分間くらい自分のクルマを眺めたかったが、そういうことをしているのを他人に見られて、「あいつ、さては自分のクルマを眺めてるな」と思われるのが恥ずかしくて一度も実行に移したことはなかった。曲は、アリアナ・グランデに変わった。サイトウはYouTubeで様々なミュージシャンの曲をミックスしてプレイリストを作成していた。ほろ酔い加減の彼は小声で歌いながら歩いた。通行人とすれ違う時は恥ずかしいので歌うのをやめ、十分離れてからまた歌い始めた。
その日の夕方に起床したサイトウが真っ先に行ったのは携帯電話に手を伸ばす事だった。その携帯電話はかれこれ長年使い込んだ代物で何回も落として画面のガラスフィルムにヒビが入ったりケースの表面が所々剥がれたりしていて悲惨な風貌へと突き進む一方だったが、数か月前にアマゾンで買った新しい液晶保護ガラスフィルムと最も頑丈そうな二つ折りのブラックのケースに交換したらすっかり新品みたいに綺麗になった。最も頑丈そうなブラックのケースでプロテクトされたそれはどことなくバットマンみたいだなと彼は思ったものである。
画面を見ると、エリからLINEの返信が来ていた。エリはホステスだった。前回、クラブに行ってBOOWYの《マリオネット》とかを歌う合間に彼女と話した時、サイトウが働くコンビニでおすすめの商品があったら連絡して欲しいと頼まれた。とにかく何でもかんでもハッピードラッグかスーパーでしか買わないサイトウにとってコンビニで何か買う人間は全く理解出来なかった。働いているくせに。おすすめなんて言われても何もないだろうと最初は思ったが、意外と地味にあった。今回、彼はラインナップから厳選した海老とブロッコリーのタルタルサラダとローストビーフサンドイッチに合格判定を下し、その日の退勤後エリにLINEを送っていた。
――おすすめありがとう。ローストビーフは大好きだよ。ところで今度、どこかに食事にいかない?
とかいったメッセージが様々な絵文字、ハートマーク等とともに画面に表示されていた。知っている人からメッセージが届くと、サイトウは自分の頭の中にその人の声が聞こえるが、他の人もそうなんだろうかと思った。声が低い人は低い声、高い人は高い声。威圧的な人は威圧的な声、気だるい感じの人は気だるい声。常に力強い人は力強い声、疲れ果てた人は、何もかも諦めた声。サイトウの頭は様々な声質を瞬時に複製し、再生した。自分自身の声はどのような声として他人の頭で再生されるんだろうか。
――いいよ。明日の昼、びっくりドンキーに行こうか?
以上のようなメッセージにハンバーグやペンギン、快諾を示唆する喜ばしい笑顔等の絵文字を付け加えて返信を済ませたサイトウは朝(時間的には夕方だが)のルーティンを開始した。水でうがいをして、水で口をゆすいで、水を飲む。ヨーグルトを食べてから、お湯を電気ケトルで沸かしインスタントコーヒーを飲む。パソコンで映画を観て、ヴィックスメディケイテッドドロップオレンジ味をなめて、歌の練習をし、適当なエクササイズをいい加減にすませてから、本を読む。サイトウは初期の大江健三郎を読んでいた。気が弱いインテリが過剰に情熱的な不良と友達になり、主にその情熱的な不良が行う冒険的行動が描かれる。クルマを盗み、ヤクザと殴り合いし、カネを持った女を騙して金づるにし、海外旅行に行き、ジャガーEタイプを買わせて猛スピードで乗り回し、高級ワインを飲みまくる。サイトウは自分自身の日常生活を振り返った。彼がここ最近行った冒険的行動はせいぜいマーヴェリック風車線変更程度だ。すっかりおっさんだったので無茶はしなくなった。サイトウは小説で描かれる情熱的な不良が実行する様々な冒険的行動を読むに従って自分自身も情熱的な不良になって冒険をしたくなっていった。良く言えば冒険だが、そのほとんどは犯罪だった。完全な違法行為だ。間違いなく刑事罰が適用される。情熱的な不良は不思議と一回もパクられなかったが、もしサイトウがパクられれば、起訴され、統計的事実として99・9%の確率で有罪になり、人権を剥奪され、彼の日常生活は完全に破綻してしまう。カルロス・ゴーンだったら海外逃亡というオプションがあるかもしれないが、サイトウには海外逃亡を実行するリソースも無かった。サイトウは実際に冒険的行動を実行する以外の方法を検討する必要があった。実際には冒険しないが、それに近い行動について検討してみた結果、彼が発案した行動は小説を書くことだった。自分自身が冒険し活躍する小説を書いてみたらどうだろう。だとすればそれはどんな冒険でどんな活躍でどんな犯罪だろう――彼の夢は膨らむ一方だった。
翌日の昼前に起きたサイトウは歯磨きと洗顔を済ませ、ジーンズ、バイカーズジャケット、白スニーカーに着替え月極駐車場に向かった。彼はマイカーでエリと待ち合わせしていた彼女の自宅近くのセブンイレブンの駐車場に到着するとしばらく待ち、やって来たエリを助手席に乗せ、ハンバーグレストランびっくりドンキー八戸城下店へと出発する。キャビンスペースが極端に狭い86の車内に彼女の素敵な香りが充満する。彼女の素敵な香りはサイトウを素晴らしい気分にした。びっくりドンキーは近かったのでその素晴らしい気分は五分ほどで終了した。
びっくりドンキー八戸城下店の外観は疑似トタン作り掘っ立て小屋風でジョン・デリンジャーが銀行強盗として活躍し、フィッツジェラルドの《グレート・ギャツビー》の舞台となった禁酒法時代から大恐慌期にかけてのアメリカ合衆国東海岸及び中西部の大都市近郊地域を意識しているように思えた。中に入ってみると、時代は更に遡り十九世紀を舞台とする西部劇で、主人公のガンマンがメキシコの蒸留酒、メスカルをマグカップで飲むようなメキシコの国境に近い宿場町のならず者御用達バー風だった。小道具が豊富に散りばめられたフランチャイズ店としては非常に手の込んだ内装で特殊な異空間に突然迷い込んでしまったかのようなワクワク感が巧妙に演出されている。サイトウは一連のタランティーノ製西部劇の悪役気分で廊下を歩き、ブース席に座った。メスカルも、テキーラも、ウィスキーもメニューには無かった。ビールはあったが女性とクルマで来てるのにビールなんか飲んだらクズだと思われる。サイトウは、「ビールではありません」と注意書きがあった実質的ノンアルコールビールを注文しようと思った。メニューにはステーキがあった。サイトウはミディアムレアの厚切りステーキが好きで昨晩も自宅で焼いて食したばかりだったが、ここのステーキはウェルダンのコロコロステーキ一択だったので、一回も頼んだことが無く、今回も頼む気はなかった。戦略としてはまずピザを頼んで、そのパートナーとして主力商品のハンバーグを選択し、二つのコンビネーションを楽しむ方向に行こうと思った。パートナーとしてのハンバーグは味の濃いピザがあるからそれほど味が濃い複雑な物である必要は無い。複雑なハンバーグはそのトッピングとかソースの味しかしなくなる。彼は肉自体の味をシンプルに味わいたいと思った。ハンバーグはここに限らず一般的にステーキと違って肉の内部にもしっかり味が付いているのでその味だけでも満足出来るしその味自体の魅力がある。最終的に彼は薪窯マルゲリータとレギュラーバーグステーキ、実質的ノンアルコールビールに決着した。
彼女の注文はエビフライ&ハンバーグステーキとビバ!ミートスパ、キャラメルラテフロートだった。ピザとパスタに関しては、二人でシェアしようという合意が予め取り交わされた。サイトウは彼女が頬張るエビフライのカリッとした音を聞いて、大学の時料亭でバイトしていた時のことを思い起こした。客が帰った後、片付ける前に残った懐石料理を食べまくり、残った瓶ビールを飲める限界まで飲みまくる。残った焼きアワビや大トロの握りや刺身の盛り合わせとかよりも、まかないで出て来た揚げたてのエビフライやトンカツの方がおいしかった。高級食材のおいしさは希少価値が高いってだけの単なる勘違いだとしか思えなかった。板前連中と一緒に食べたが彼らはなぜか一言もしゃべらずに無言で食べる。あたかも食事中の会話はとてつもなく厳格な規則で完全に禁止され、彼らはそれを忠実に順守していたかのようだった。そんな人権侵害が疑われるほど静かな食卓でサイトウの頭に響く音が揚げたてのエビフライのカリッとした音だった。外はカリッとして中はジューシーで柔らかいエビが隔離梱包されていた。揚げたての揚げ物のジューシーなおいしさは更にサイトウに実家が肉屋だった頃の思い出を呼び起こした。土曜日の午後に学校から帰宅すると、土曜日だけに作って売る揚げたてのメンチカツをおばあちゃんから貰ってモグモグと食べたコロコロ太ってた小五の春の思い出だった。
「ねえ、何考えてるの?」
回想に耽っていたサイトウにエリが尋ねた。
「いや、あのさ」サイトウはタバスコ風ペッパーソースの瓶に手を伸ばした。「キミが食べてるそのエビフライのカリッとした音を聞いてね」彼はペッパーソースをピザとハンバーグに思う存分振り掛けた。「その昔、料亭でバイトしてた時のまかないで出て来たエビフライの思い出に耽っていたところさ」
エリはサイトウの為にパスタを小皿に取り分けてくれた。縦に厚みのある盛り付け方だった。彼女は説明した。
「パスタはこうやって縦に厚みを持たせて盛り付けた方が中に温度がこもるから温かさを維持出来るの」
「へえ、詳しいね。自分でも作ったりするの、パスタ?」
「うん。毎日作ってる」
「毎日? 相当なもんだねそれ。僕もね毎日歌の練習してるけど、知ってる? 絶対知らないだろうけど、〈一万時間の法則〉ってのがあるんだよ」
「一万時間の法則?」
「説明しよう。その昔ある人物がいて彼は研究者だったんだけど、ある時彼は〈天才〉について研究したんだ」
「うん」
「彼があらゆる分野の天才について研究した結果、天才と呼ばれる者は皆その専門分野の練習を一万時間行っていたことが解明されたんだ」
「へえ」
「つまりそれはどういうことかというと。誰でも何でも一万時間練習すれば天才になれるっていうこと。だからキミも一万時間パスタ作れば天才シェフになれるだろうよ」
彼女はそれを聞いて乾いた声で軽やかで快活な笑い声を笑った。
「アハハ、すごーい」彼女はカリッと音を立ててエビフライを齧って食べ、キャラメルラテフロートをちょっと飲んでから続けた。「私、実は夢があるんだ」
「え、どんな夢?」
「イタリアンレストランをやりたいの」
「やるってのは全部やるってこと? 経営から調理からってこと?」
「うん。だからその一万時間の法則を知ってなんか励まされたような気がする」
「キミならきっと出来そうな気がする」サイトウは確信的な言い方で言った。「何の根拠もないけど。ただあれだよ、一万時間練習すれば天才になれると言ってもだね。そもそも一万時間も練習するのは天才じゃないと無理かもしれないね」
「もう」彼女は怒って言った。「夢をぶち壊さないでよ」
「ゴメンゴメン冗談だよ、ハハハ」
悪戯っぽく笑うサイトウにつられエリも頬を緩めクスッと笑った。
「飲食業界の経験の無い私が」エリは静かに言った。「いきなりイタリアンレストランなんか出来ないなんて分かってる」
「あきらめるのはまだ早い」
「あきらめてなんかいないよ。私なりにリサーチしてみた結果、品数を減らしたパスタ専門店なら難易度も下がるし、小さい店なら一人で営業も出来る。一人でやれば人件費は最小化出来るし、パスタは原価が低いから利益も出せる」
サイトウは彼女の目に意欲がみなぎっているのを確かに見た。彼はその意欲にみなぎる目を見て思った。青春っていいな。情熱と混沌と苦悩の真っ只中にある青春。サイトウはすっかり忘れていた過去を一瞬にして思い出した。彼はビバ!ミートスパにペッパーソースを死ぬほど掛けてから一口食べ、質問した。
「ねえ、キミの作るパスタ、これよりおいしい?」
「もちろん」
エリは自信にみなぎる答えを答えた。
クリスマスイブは仕事だった。コンビニ店員にとってクリスマスイブは一年で最悪の一日だ。出来れば働きたくなかったが働くからには完全にハイになって働いた。担当本部社員が来てなんか指示をしていたが全てを無視して勢いと全く根拠のない完全な勘を頼りに、フライヤーと電子レンジを全機総動員し闇雲に各種フライドチキン及びローストチキンレッグを大量生産した。サイトウは指示された数量を無視しデタラメな物量作戦を強行した。とにかくホットケースと常温ケースのキャパマックスまでチキンを作りまくり、その後は予約のセットを別口で作って、ホットドリンクケースのスペースを開けてセットの容器に名前と内容を書いてから置いて保温し、後はただじっと客の襲来に備えて戦闘態勢を整えた。
〈戦い〉は午後十時までだった。遂に最後まで防衛線は死守した。勤務を終えたサイトウは86でハッピードラッグへ向かい缶酎ハイを買い、月極駐車場のクルマの中でクリスマスソングを練習しながら飲んだ。遂にここ最近一か月間ほど練習を重ねて来たクリスマスソングを発表する絶好の機会が訪れた。練習段階で声を出し切ってしまうと本番で声が枯れてしまいかねないので声量はウォーミングアップ程度に抑え、リフレインは適度に省略した。
帰宅して着替え、ヴィックスをなめ、歩いて三十秒の保育園の前でタクシーを呼び、携帯電話でスタンダールを読んで待った。五分後に来たタクシーに乗ったサイトウはクラブのある繁華街へ出発した。
街は晴れた夜空の下の程よい寒さ、すっかり馴染んだ感染症への落ち着いた警戒感、クリスマスの夢見心地の狂熱感がゆるやかに溶け合ったロマンティックなカクテルのような雰囲気を醸し出していた。
商業ビルの三階まで階段で上り、クラブの中へ一歩足を踏み入れた瞬間、ロマンティックなカクテルは床にぶちまけられ、グラスは粉々に砕け散った。クラブは混沌と狂騒、音楽と誘惑、欲望と犯罪と暴力を連想させる色彩と空気に充満する中、ホステスらとならず者どもの大群で占領、支配されていた。
空いた席がなく、ただ茫然と隅っこに立ち尽くしてしたサイトウに顔見知りのクラブのマネージャーを務める中年男性が近づいて来て満面の笑顔で話しかけた。
「いらっしゃいませ。直ぐに席に案内いたしますので、少々お待ちくださいませ」
「はい」
別の中年男性従業員がウィスキーのソーダ割りを準備してくれる中、サイトウはモニターをぼんやり見ながら待った。モニターでは知らない人が知らない歌を歌い踊っていた。ウィスキー・ソーダが出来上がるとサイトウはそれを一口飲んでから、またモニターを見た。彼は徐々に狂騒に馴染んでいき、溶け合い、その一部になりつつあった。
すっかり狂騒の一部にはめ込まれた頃合いに、エリが来た。赤いクリスマスっぽいドレスを着ていた。そのドレスはエリに素晴らしく似合っていて美しかった。彼は驚嘆の眼差しで彼女を眺めた。
「キミのドレスって、この店が用意してくれるの?」
「ううん。自分で買うの」
「ふうん……そのドレス、素晴らしく似合ってかわいいよ」
「うれしい」エリは喜びで目をきらめかせた。「ありがとう。これ今年買って初めて着たの」
「へえ、初めて着たんだ、なんか光栄だな」
「ねえ、何か歌う?」
「うん」
「デンモクお願いしまーす!」
エリは男性従業員に向かってそれまでとは打って変わった張りのある大声を出し、カラオケの選曲用端末を要求した。サイトウは端末を受け取り、大声で叫んだ。
「ショーターイム!」
「アハハ」エリは面白がって笑った。「何、歌うの」
「クリスマスソングでも歌おうかなあ。なにしろクリスマスイブだからね」
サイトウが歌ったのは以下のようなセットリストだった。まずはお馴染みマライア・キャリー《All I Want For Christmas Is You》、続いてこれもお馴染みワム!の《Last Christmas》、そしてこれもまたバックトラックのクオリティーが高いでお馴染み
「ねえエリさん。前、毎日パスタ作るって言ってたよね」
「うん」
「食べてみたいなエリさんのパスタ」
「いいよ」
「今夜はこの後、誰かと約束はあるの?」
彼女は誰とも約束は無かった。サイトウは閉店まで延々と延長を繰り返し、閉店後、エリと二人でタクシーに乗り、彼女のマンションへ向かった。
「せっかくだから」エリは材料を揃えながら説明した。「サイトウさんも家で簡単に再現出来る覚えやすくて簡単なのがいいかな」
「いいね」
「簡単なのにおいしい奴」
「期待で胸が高鳴るね」
「カチョエペペっていうの。チーズと胡椒って意味。本来はパルメジャーノレッジャーノかペコリーノロマーノっていうチーズを溶かしてチーズソースを作るんだけど、それだと火加減とか段取りとかの難易度が高すぎるから、チーズソースをシーザーサラダドレッシングで代用するの。けど、シーザーサラダドレッシングにはチーズソースには入ってない酢が入ってて、入れすぎると酸っぱくなり過ぎる問題があるから、少なめに入れるのがポイント」
彼女は長方形の専用容器に水、パスタ、塩を入れ800ワットの電子レンジで九分温めた。茹であがったパスタを皿に移し、シーザーサラダドレッシングを軽く一掛けし、箸で和えてドレッシングを行き渡らせてから更に電子レンジで二十秒温め、粉チーズと粗挽き塩コショウを掛け、タバスコの瓶をその隣に置いた。
「出来たよ」
「いただきます」サイトウは簡易版カチョエペペに死ぬほどタバスコを掛けてから食した。
「うまッ!」
マジヤバいとか言いながら、見るからにうまそうに食べるサイトウにエリは言った。
「でもこれだけじゃ物足りないでしょ、レストランやりたいって言ってんのに。それに量も少ないし」
「もっと作ってくれるの?」
彼女はアラビアータを作る準備を始めた。トマトホール、玉ねぎ、塩、コショウ、にんにく、オリーブオイル、とうがらし、パスタ。本格的だが、シンプルなパスタだ。今回は電子レンジを一切使わない。パスタを茹でる鍋でお湯を沸かす間にトマトソースを作る。鍋に玉ねぎのみじん切りとオリーブオイルを入れて炒めてからホールトマトを入れ手で潰しながらヘタを取り、塩コショウを入れる。お湯が沸いたら弱火にかけたフライパンでにんにくのみじん切りと手でちぎったとうがらしをオリーブオイルで炒め始め、お湯に塩とパスタを入れる。にんにくに火が通ったら火を止め、フライパンにトマトソースを入れてかき混ぜる。再度中火で炒め、オレンジ色になってきたら弱火をキープ。パスタが茹で上がる五秒前に強火にし、パスタを入れサッと軽く和えてパッと皿に盛り付ける。パスタのアルデンテを維持した上で熱々に仕上げるのがベストなので最後はスピードが大事だ。
エリのアラビアータは熱々でアルデンテで圧倒的にうまかった。サイトウは心底感動して彼女のパスタを存分に味わい、食べ終えた。食後、エリはバローロのボトルを開け、二人はダイニングルームのテーブルに向かいあって座り、グラスに赤ワインを注いで飲んだ。サイトウはすっかり感動してエリの腕前への賛辞を並べ上げた後、真剣な口調に切り替え、別の話題を切り出した。
「例のパスタ専門店の話なんだけどさ」
「うん」
「それって、資金調達の目処とかはついてるのかな?」
サイトウはただのコンビニ店員だったが、遺産金を相続していたので秘密裏にまとまったカネを持っていた。彼はその資金を活用してエリの飲食店プロジェクトに投資するオファーを彼女に提示した。エリはサイトウのオファーを目を丸くしてただ聞き入った。それは正に彼女が求めていたオファーだった。彼女の願望への閉ざされた門が開錠され遂に開き始めた重々しい音を彼女は確かに聞いた。その音は重々しく晴れがましく、真正に響き渡った。彼女の胸に感謝の念が沸々と込み上げ、それは溢れ出した。
「ありがとう」
エリは感情を込めて震える声で静かにそう言うと立ち上がった。彼女はサイトウの手を握って、軽く引き上げた。サイトウは立った。エリはサイトウを固く抱擁した。抱擁を終えると二人は見つめ合い、キスをした。そのキスは熱く、長く、いつまでも続いた。
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