第一部 8

     8


 アキラはシャンパンを飲んでからユミコに言った。

「そうだ。つまみでも作るよ」

「何作るの?」

「カプレーゼ」

「作るの見てもいい? シェフ」

「ああ、いいよ」

「作り方、覚えたいの」

「簡単だよ」

 アキラは冷蔵庫からトマト、袋入りのモッツァレラチーズ、バジルを出した。彼はキャビネット内の木製の台に収められた包丁セットから柳葉包丁を選び、先端を使ってトマトの柄をくり抜いてから、くし形切りにした。ユミコはその様子を隣に並んで見ていた。彼女の方が3センチくらい身長が高いようだった。アキラはトマトをトレーに移してからモッツァレラを袋から出し、キッチンペーパーで水切りする。モッツァレラは一口大に切り、別のトレーに移す。

「トマトはモッツァレラよりも強めに塩を打たないといけないから、別々の容器で味付けするのがコツだ」

「そうなんだ」

 アキラはトマトに塩と黒コショウを掛けてからオリーブオイルを掛ける。モッツァレラにも同様の過程を繰り返すが塩は少なめにする。バジルをちぎってトマトに載せてから、戸棚から皿を出し、きれいに盛り付けた。

「よし、完成」

「おいしそうね」

アキラが嬉しそうにほおを緩めた直後、二皿のカプレーゼはほとばしる鮮血で赤く染まる。アキラの首はパックリと口を開いている。おいしいカプレーゼの作り方を覚えたユミコはキッチンペーパーで柳葉包丁の柄をきれいに拭いてから調理台に置き、部屋を出る。


 それはコントラクト・キラーとしてのイ・スンヒの初仕事だった。彼女はその仕事を仲介者から紹介された。彼女自身は直接依頼人と接触することはない。交渉はその仲介者が行った。仲介者は契約殺人を生業とする組織に属していた。彼女が仕事の請負を承諾すると彼女は日本に入国し、ターゲットが住む地域のホテルに滞在した。普段の彼女はニューヨークで暮らしていた。引き受ける仕事は日本、中国、韓国といった米国外に限定される。仕事を請け負い、国外に移動し、終わったら即座に出国し捜査を煙に巻く。経費は掛かるが依頼者側も捜査回避メリットは大きい。当然、料金は高額になり、担当する殺し屋にも高度な殺人スキル及びマルチリンガルな語学力が要求される。イ・スンヒは幸いその職務に要求される特殊技能を既に祖国での訓練で習得していた。

 三年前、DPRKのスパイとして日本に入国したスンヒは諜報対象となる男が生活する神戸で彼女をサポートする工作班の仲間二名と合流した。仲間は彼女に集合住宅の一室を用意し、彼女はそこで日本での生活をスタートする。事前の計画通りスンヒは対象者の行きつけのクラブにホステスとして潜入し、いわゆるハニートラップを仕掛ける。程なく彼女と対象者の仲は深まり、巧みな誘惑の結果、結婚に至った。

 二人の生活は新築の一戸建て住宅で始まった。スンヒは夫の留守中、彼の書斎のPCを操作しデータをUSBメモリーにコピーし、それを定期的に工作班のリーダーに渡した。リーダーは三十代後半の男性だった。リーダーとの会合を重ねる内に、彼女は相手の表情が険しくなりつつあるのを目にし、彼の言葉や口調も冷ややかな物へと変容するのを感じ取った。変遷は明らかだった。なぜなら、データの価値が低くほとんど役に立たない物ばかりだったからである。

 川崎重工で潜水艦製造部長を務める夫は、仕事熱心で実直だったが、家に仕事を持ち帰るほどのワーカホリックではなかったし、機密情報である最新鋭潜水艦の情報は漏洩を警戒し、自宅からはアクセス不可能な状態にしてあった。スンヒは諜報活動の停滞を打開することがどうしても出来なかった。成果が上がらなければ彼女の評価は低下し、最悪の場合、敵の二重スパイへの寝返りも疑われかねない。そうでなくても、やがてこの作戦が中止されDPRKへの帰国命令が発令されるのも避けられまい。そうなれば裕福な夫との多少退屈ではあるが間違いなく快適な生活を剥奪され、満足な食糧も与えられない貧困生活へと転落してしまう可能性すらある。彼女は決断を下し祖国を裏切った。仲間の監視の目を逃れ、逃亡を決行したスンヒはニューヨークへ渡り殺し屋として生きることを決意したのだった。


 アキラの部屋を出たイ・スンヒは滞在するホテルへ戻った。翌朝、早々にチェックアウトした彼女は電車を乗り継いで羽田空港に直行した。その十三時間後、彼女が搭乗するボーイング777はニューヨークのJFK国際空港に着陸する。時差があるので到着したのは出発した日時とほぼ同じだ。タクシーでアップタウンへ向かい自宅の集合住宅に帰宅する。彼女は電気ポットでお湯を沸かして、インスタントコーヒーを作った。スピーカーを接続したノート型PCでモーツァルトのオペラを聞きながらマグカップのブラックコーヒーを味わった。飲み終わると歯磨きをしてからマウスウォッシュで口腔洗浄し、シャワーを浴びた。体を拭いてからジーンズと白いブラウスに着替えアディダスのシンプルな白いスニーカーを履いて、地下駐車場へエレベーターで向かうと中古で買った先代の黒いフォード・マスタングに乗り込み、エンジンをスタートした。5リッターエンジンは快調この上なかった。彼女はマスタングで近所のスーパーへ行った。

買い物を済ませ、帰宅した彼女は袋をテーブルに置いた。袋にはキャンティ・ワインといくつかの食材が入っていた。彼女はその食材を使って、アキラが教えてくれたのと全く同じ方法でカプレーゼを作った。出来上がった料理とグラスに入ったキャンティ・ワインを居間のテーブルに置いて、ソファに座る。彼女は液晶テレビで《フラッシュ・ダンス》を見ながらカプレーゼを食べた。


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