第一部 6
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サイトウは仕事を辞めた。彼が仕事を辞めたのは新宿にBMWで行った二週間後だった。スーツは仕立てに一か月半かかる。次の仕事はスーツが出来てから始まるので計算上は約一か月ばかりの休暇を取る形となる。金持ちか、フランス人だったら東南アジア、例えばタイのプーケット島あたりにバカンスに行くのかもしれないが、金持ちでもフランス人でもないので行かなかった。
バカンスの代わりに彼が行った活動は主にカナディアンクラブ・ソーダを飲みながら歌の練習、音楽鑑賞、映画かドキュメンタリー番組鑑賞、読書のいずれかだった。もちろん適当なエクササイズも簡単に行った。食事の時は、必ず第二次世界大戦のドキュメンタリーを見ながら食べた。二回目に突入したが全く飽きなかった。第一次世界大戦後のドイツとソ連崩壊後のロシアは状況が似ているなという感想を抱いた。ドイツは敗戦で大幅に領土を失った。ロシアは戦争に負けた訳ではないが実質的に領土を多く失ったと見るのが妥当だ。そのような大きな屈辱に対する反抗的な国民感情がヒトラーとプーチンの軍事侵攻の開始を後押ししたように見える。電撃作戦で容易くフランスを占領したヒトラーは自分へのご褒美にバカンスをアルプスで過ごした。彼が雪景色を満喫する最中、イングランド上空では襲い掛かるメッサーシュミットに対しスピットファイアが互角以上に渡り合った。スピットファイアはナチスの想定を上回る優秀な戦闘機だった。サイトウは美学的にも素晴らしい戦闘機だと思った。
スピットファイア以外だとF14トムキャットが美学的なお気に入りだった。可変翼だったし《トップガン》でトム・クルーズが乗ってたし、自宅に透明な糸で天井に吊るされていたからだ。サイトウの父親が誰かから貰って来たトムキャットのプラモの完成品をかつて自宅の天井に吊るした。そのトムキャットはミグではなく地震に撃墜され全壊した。悲劇だった。普通に棚に置いていたら今もその雄姿を誇っていたであろう。トムキャットは史上二番目の可変翼ジェット戦闘機だが、それ以外の機体への可変翼採用は一機に留まった。機体形状の変化によるドラッグ(空気抵抗)操作は確かにF1のDRSやスーパーカー及び比較的高価なスポーツカーには応用されはしたが、ジェット戦闘機でやるにはコストと重量の増加が大きな問題だった。しかしそれでもなお、トムキャットの機体シルエットの劇的な変化は驚くべき美学的達成に到達したことに変わりはない。
その頃はちょうどジェリー・ブッラカイマーが製作し、トニー・スコットが監督した《トップガン》の
サイトウは親から相続した二階建ての一軒家に一人で住んでいた。食事は基本的に簡単な物だった。冷凍パスタ、冷凍ドリア、レトルトカレー、サトウのご飯、オムレツだった。それらに加えてスーパーのカット野菜にドレッシングを掛けてサラダにした。コンビニで働いていた時期は週二日の休日にステーキを焼いていたので、規則性を重んじる彼はその習慣を踏襲した。何曜日のいつに何を食べるか完全に決まっていた。ステーキを焼くのは金曜日と土曜日の夜だった。
かつては失敗もしたが、彼はその失敗から学んだ。ステーキは最も簡単な料理だが決して失敗が許されない。スーパーで買った安い肉の場合、常に完璧なミディアムレアに仕上げなくてはならない。買ってきた肉に対して最適な加熱時間を算出しなくてはならない。肉の厚さ、数、室温によってそれは上下する。重さはあまり関係ない。失敗すると当然ミディアムになってしまいジューシーさが損なわれるし、レアになってしまい固くなる。福音である柔らかくジューシーなミディアムレアにする為の完全な加熱時間算出方法を編み出し、その時間はタイマーで厳密に計測した。
その算出方法はかってフランシス・ベーコンによって経験主義と名付けられ、今でも全く同じように呼ばれている。とりあえず、一旦カンで焼いてみて、その結果から類推して次回以降の加熱時間を算出する実験を重ねることによって真理ないしは絶対精神でもあるミディアムレアに到達しようという試み、彼はそれを無心で実行したのだった。真理は一つではなく誰も教えてくれない。それは自らの経験によってのみ体得される。思いつく限り全ての方法を試し成功した方法を採用する思想は文明にとって有効な道具だった。だがそこに危険はないのだろうか。思いついた方法の中には危険な方法もあるかもしれない。危険だが有効であれば警鐘は黙殺されるかもしれない。文明が発展すればそんな危険もその文明自身が解決するだろうと思うのかもしれない。そう思ううちにその危険は解決不可能なまでに進行し崩壊を引き起こすだろう。そうなればスーパーで肉を買ってステーキを味わうことも出来なくなるだろう。サイトウは文明の終焉についてデカルト風の演繹法に従って論考を進めながら肉に塩コショウを振りかけ、タバスコと皿を出し、冷凍庫からミックスベジタブルの袋を出した。彼は好奇心からYouTubeでアメリカ人シェフのステーキ動画を見まくった。あんなに表面を焦がさなくてもいいし、バターって要るのか? 等の疑念を抱いた。そのような疑念の筆頭として挙げられるのが焼いた後、五分休ませるというとこだった。ボクサーだって一分しか休めないのに五分って長過ぎだろう。ステーキを休ませるという命題自体がそもそも理解出来なかった。なるべく早く食べた方が温かいはずだ。温かいといい感じに温まった脂身がトロトロになってて最高においしい。アメリカ方式も、あれはあれでうまいんだろう。きっと。ただ、家であんな感じにやるのは換気設備等の問題から不可能だ。日本人シェフの動画も見まくった。最初は弱火で数回休ませながら焼き、最後強火で焦げ目を付ける逆行方式を採用している人がいた。完成品は素晴らしい出来だったが手間と時間が掛かり過ぎで、途中休ませる為の容器も買わないといけないし洗い物も増える。実際やるには気が遠くなる手法だった。ただ、説明を聞いた後、やっぱバターは必要だと思った。自宅でステーキを焼く場合、付け合わせに冷凍ミックスベジタブルの調理が直後に行われるが、なるべくステーキが温かいまま食べる為に冷凍ミックスベジタブル調理は最短にしなければならない。サイトウは予め冷凍ミックスベジタブルを電子レンジで温めて置く手法を採用した。その手法によってフライパンによるそれの加熱時間は最短化された。
近所のスーパーで売っていたステーキの厚さは1センチから2・5センチまで多様だ。プロは焼く前に常温で一時間前後放置するが、そんなまどろっこしいことをやってる暇はない。とっとと食いたい。焼き方を工夫すれば冷たいまま焼いてもクオリティーの確保は可能だ。それと素人の場合は換気設備が貧弱な自宅のダイニング・キッチンで焼く訳だから蓋は必須だ。蓋をして強火で表面を焦がし、蓋をとってフライパンをコンロから離して温度を下げてから蓋をして最小の弱火で加熱する。YouTubeの影響で温度を下げた後、バターを入れてみた。弱火での加熱を始めた直後からタイマーをスタートする。350から450グラムなら今の時期だと1センチで加熱無し、1・5センチで一分三十秒、2センチで三分、2・5センチで四分三十秒が最適だ。買い物帰りでその日買った肉を焼く場合は常温に戻っていることを考慮して三十秒短縮する。冬だと三十秒から一分伸ばした方がいいだろう。その日のステーキは厚切りだったので四分三十秒加熱し、ミディアムレアに仕上げた。大概のスーパーは主婦がファミリー全員分のステーキをサッと焼いてパッと出して、とっとと食って洗い物して風呂入って寝ないといけないからどうしても薄切りのステーキしか売っていない。だが、適切に調理した場合は絶対に厚切りのステーキの方が圧倒的にうまい。歯応えの感触から肉汁が広がる過程が一種のスペクタクルとして堪能出来るのが厚切りの特長だ。サイトウは常に厚切りを追い求めたが無いときは仕方なく妥協した。
それはゲームだった。ルールは自然が定めた物理法則だ。だからステーキを焼くのはとても面白かった。失敗したらしたでメソッドに微調整を加え至福のミディアムレアへと軌道修正だ。PS 4のゲームはすっかりやらなくなった。ゲーム実況動画配信無しのオフライン・シングルプレイで成功してもカネにも何もならないが、ステーキの調理は成功すればおいしいステーキを安く食える。本を読んで、映画を観て、ステーキを焼いた。みんな面白いが、それだけだと人生に生きる価値なんかない。面白いことが三個だけなのは少な過ぎだ。サイトウは四個目が欲しかった。つまり、飲みに行きたかった。飲みに行きたくて仕方なかった。物理法則の知識と経験である程度まで予測できる料理と違って、飲みに行くといろいろと予測不能な事態が発生する可能性が高くなる。最悪、殺されるかもしれない。ただ、そんな刺激は逆説的に人生に生きる価値を生む。
飲みに行きたかった真っ最中にアキラから電話が掛かってきた。
「飲みに行かないか?」
「ああ」サイトウは快諾した。「いいよ」
無職でむやみにカネを使いたくなかったサイトウはリーズナブルな価格で楽しめるカジュアルなカラオケのあるバーを提案した。サイトウはそのバーに一回行ったことがあっただけだったが、アキラはそのバーの常連だった。顔が広いな。さすがに毎日飲みに行ってるだけのことはある。
「そこなら近くにうちでやってるビストロがあるからそこで晩飯食ってから行こうか」
「いいね」
「見学にもなるしな」
そのビストロは名前の通りフランス料理の店という話だった。フランスか。フランス映画なんか見たことないな。サイトウは一瞬そう思ったが、見てない訳がなかった。ただ、近年は中年がグロックを撃ちまくって活躍するドンパチ映画、例えばショーン・ペン主演の《ザ・ガンマン》とかを繰り返し見まくっていたので、彼の脳は昔見た、フランスのアート系の映画なんかすっかり忘れていただけだった。サイトウがフランスと聞いて真っ先に思い出した映画は全くフランス映画ではない《フレンチ・コネクション》及びその
サイトウは近くの喫茶店でアキラと待ち合わせしてからビストロに向かった。ビストロに到着するとアキラは店長にサイトウを紹介した。
「これから俺のアシスタントとして働く予定のサイトウさんだ」
「どうもウワニシです。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「今宵は、当店の料理を存分にお楽しみください」
「ありがとうございます」
ウワニシは三十代前半に見えた。細身で、上唇にそって口髭を生やしていて若干日焼けしていた。サイトウは生理的に八十五%以上は信用出来ないなと思った。どう考えても八十五%が限界だ。二人は奥のテーブル席に座った。アキラは説明を始めた。
「この店は、去年オープンしたばかりでね。あのウワニシはグループ一号店のイタリアン・レストランの店長をやってた初期からの古株で、仕事が出来るしこのビストロの開店当初は未経験者が多かったこともあってここを任せてみたんだ」
「へえ」
「まあ、言わばあいつはこのグループのナンバー3だな」
「なるほど」
サイトウは軽やかな身のこなしでメニューを持って来たウワニシを見て、いかにも仕事が出来そうだと思った。忍者かサッカー選手みたいだった。ひょっとしたらダンスが得意かもしれない。サイトウは渡されたメニューを開いた。最も気になったのは、アンコウのロティだった。ロティとはローストのフランス語だとアキラに教えてもらった。アンコウと言えば日本では鍋かから揚げが定番だが、サイトウは一度も食べたことが無かった。彼は是非食べてみたいと思った。
「ワインはどうする?」アキラが尋ねた。
「白がいいな」
「じゃあ、ムルソーのボトルを頼もう」
サイトウは前菜にパテ・ド・カンパーニュ(豚肉と鶏レバーのパテ)、メインにアンコウのロティ ジュヌヴォワーズソース。アキラは前菜にスモークサーモンとアボカドのタルティーヌ、メインに牛ほほ肉の赤ワイン煮込みをオーダーした。タルティーヌって何だろうと思っていたら、厚切りのバゲットの上に具材を乗せた物だった。テーブルと客席の上の天井が黒系統で椅子と壁と通路の上の天井が白系統のモノトーンな内装に暖色照明を合わせたインテリアで、中々シックな雰囲気の中で食事は進んだ。見学を兼ねているから仕方がないが、男同士でこんなシックな雰囲気で一品ずつコースで晩飯食って面白いかって言ったら、決して最高に面白いとは言い難い。サイトウはそんな感じの感想を抱いたが一言も口には出さなかった。たまに店内の様子を見ていたら、ちょっと離れたテーブルで女性一人の客がいるのに気が付いた。へえ。きっと、フランス料理が大好きか、このビストロが大好きかのどちらかだろう。俺だったら一人でこんな店に用はないな。メインを食べ終えた二人はデザートを省略してバーへと向かった。
人類はバイオロジカルな危機をバイオテクノロジカルな知性で克服し切ったかのように見えた。遂にポスト・パンデミックが到来したかに錯覚した。自然はそれを嘲笑うかのようにアップデート・ウィルスを人類との全面戦争に投入し容易く戦線を突破した。中世や前世紀初頭に勃発したパンデミックと比較すれば凶悪的に恐るべき大人数が死ぬような現象は世界全体を俯瞰的に観測した場合は稀だが、その攻撃は執拗で継続的で持続性が高い。つまりしつこく長期間に渡ってじわじわと人類の生活を攻撃し深刻な経済的損害を蓄積させた。その高持続性を伴う自然の戦略は、犯罪と自殺を増加させた。本来、治安が良かったサイトウの近隣地域においても様々な窃盗事件が発生した。当然、経済的困窮を遠因としたテロも増加する可能性もある。ただ、サイトウとアキラが飲みに行った夜は、そんな不幸発生要因が多発する時期に入る前だった。より具体的にはピークインする一か月半前の五月中旬だった。人々は感染者の減少を祝い、パーティーの真っ最中だった。長くは続かないパーティーだったが、そんなことは誰も知らなかったし、誰も信じなかっただろう。繁華街は酔客で溢れ、タクシーはつかまりにくくなった。サイトウとアキラがバーに入ったのは正しくそんな時期だった。当然、バーは混んでいた。人々は対パンデミック戦争の勝利を祝っていた。祝い、叫び、語り、歌い、飲んでいた。それもしこたま飲んでいた。誰一人それが単なる幻想であることに気付かなかった。自然の思う壺だった。
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