第一部 5


 かつてスイスに留学経験あった男はソニー製大型液晶テレビで映画を見ていた。それは潜水艦の映画だった。ジョン・マクティアナンが監督し、ショーン・コネリーが主演した《レッド・オクトーバーを追え》だ。彼は映画を見ながらテーブルに置かれたグラスの赤ワインを飲んだ。テーブルにはシャトー・ペトリュスのボトルに加え、フォアグラのキャビア添え、スイス製のエメンタールチーズ、大トロ握り、ソガリ握り、伊勢海老の刺身、スモークサーモン、牛の骨付きカルビのコンフィ、グリーンサラダがそれぞれ盛り付けられた皿が置かれていた。彼は権力者だった。彼は三十六歳で、非常に大きかった。身長はそれほど高くなかった。東アジアとしては平均的な身長だった。ただ体重は平均を上回っていた。それもはるかに上回っていた。きっと関取の平均体重と同じくらいだろう。彼の体重は百四十キロだった。絶対的な権力に相応しい体重だ。彼はその体重をとてつもなくふんわりとしたソファに沈め、リラックスしつつ、エメンタールチーズをつまみその口へ運んだ。その味は彼が十代の時留学したスイスでのバスケットボールに熱中した日々を思い出させた。かつての彼は純真だった。いかに強大な権力と莫大な富があったとしても、あの青春の日々とその時の彼を取り戻すことは既に完全に不可能だった。

 映画はその終盤に差し掛かっていた。CIAアナリストを演じるアレック・ボールドウィンがソ連の新型原子力潜水艦内で当時の米軍制式拳銃コルト45口径を手に走り回っていた。周囲は夥しい数の核ミサイルが格納されていたが、敵は容赦なく小銃のフルオート連射で攻撃してくる。危機的な状況だ。そんな危機的な状況でアレック・ボールドウィンはその潜水艦の船長を演じるショーン・コネリーのものまねをする。ただのCIAアナリストとはとても思えない完璧なショーン・コネリーだ。きっとあれはアドリブで、アレック・ボールドウィンが完璧なショーン・コネリーをやりたかっただけだろう。権力者がそんな想像を膨らませながらワイングラスに手を伸ばした時、ドアからノックの音が聞こえた。

「チッ、ったく」権力者は舌打ちしてからドアに向かって叫んだ。「誰?」

「親愛なる元帥様。チェ・リョンヘでございます」

 元帥はワインを一口飲んでから、リモコンでブルーレイレコーダーを一時停止した。

「入っていいよ」

 ドアを厳かに開けて入ってきた男は九十度の角度でお辞儀をした。

「お楽しみのところ大変申し訳ございません。失礼致します」

 その男はここ最近のナンバー2だった。

「で、なに?」

 ナンバー2はファイルに収められた書類を差し出しながら言った。

「例の潜水艦の秘密工作計画の日程と担当候補者について具体案を作成いたしましたので、承認の方を頂きたいと思いまして」

「今? めんどくさいなあ。今じゃなくてもいいでしょ」

 元帥は煙草に火を付け、イラついた様子で煙を吸った。

「も、申し訳ございません。では、またの機会に」

「いいよいいよもう。それはそれでめんどくさいから」

 元帥は三十四歳年上のナンバー2からファイルを受け取り煙草を吸いながら内容を確認する。

「この担当候補者も、日本でおもしろおかしく暮らして堕落して逃亡とかしないよね、また」

「それはもう。思想教育には念には念を入れております」

「ほんとかよ」元帥は書類を読み終えた。「じゃあ、これでいいや」

 彼は一本千ドルのモンブラン製万年筆で書類にサインし、ナンバー2にファイルを渡した。

「では、これで」

「ちょ待てよ。せっかくだからお前も飲め」

「いやいやいや、勤務中ですので」

「何。僕の酒を断るって訳?」

「いただきます」

「ここ座っていいよ」

「失礼します」

ナンバー2はとてつもなくふんわりとしたソファの元帥の横に座る。元帥はナンバー2が持つグラスにワインを注いだ。ナンバー2はそれを飲んで言った。

「うまいっすねえ」

「当たり前だろ、一本一万ドルだよ。ほら、遠慮しないでどんどん食えよ」

「はい」彼は大トロ握りに手を伸ばす。

「で、この計画、実際どう思う」

 彼は寿司をまるごと頬張りながら答えたので何を言ってるのか分からなかった。

「ハ? 何だって」

 彼は寿司を世界で最も高価なワインで流し込んでから再度言った。

「間違いなく素晴らしい計画です」

「うそつけ。ま、いいけどさ。あのトランプがもうちょっと譲歩してくれたらあれだったけど、こっちもこうなったらとことんやるしかないじゃない。より強力な核兵器、より高性能なICBM、そしてより静かな潜水艦。それには何としてでも日本のカッティングエッジ・テクノロジーが必要だよな」

「そりゃあもう」

「僕もね、これに賭けてるんだよ」

「はい」

「だからさ、しっかり頼むよ」

 キム・ジョンウンはチェ・リンへのグラスにワインを注いだ。

「はい」ナンバー2はワインを一気に飲んだ。「精一杯頑張ります」


 朝鮮民主主義人民共和国(公的略称DPRK)の最高指導者、キム・ジョンウン総書記が承認を下した秘密工作計画の担当者に選ばれたのは、2019年当時、東北里三号招待所で女性工作員として訓練中のイ・ソンヒだった。この招待所とはここでは秘密工作員の養成が実施される極秘施設という意味だが、それとは別にキム・ジョンウン総書記とその関係者が滞在、生活する施設という意味でも用いる。すなわち意味合いとしては「秘密基地」のようなニュアンスである。総書記滞在所という意味での招待所はDPRK各地に十数か所点在し、それらの間を不定期的に移動生活し所在の特定を防ぐ。キム・ジョンイル時代は十台ほどのベンツの車列で高速道路や秘密トンネルを走って移動していたが、キム・ジョンウンは幼少期から熱狂的な飛行機マニアだったので近年購入したウクライナ製新型リージョナルジェット、An‐148で移動し、ときにはジョンウン自ら操縦する。ちなみにAn‐148は国内移動専用で、国外移動においてはロシア製ジェット旅客機、イリューシン62が訪中時、米朝首脳会談の開催地シンガポール訪問時には中国からチャーターした米国製のボーイング747がそれぞれ使用された。

 最高指導者によるこれら航空機の使用はある種の象徴として理解されるべきである。それは主体思想へのアンチテーゼとしての象徴だ。元来DPRKはソビエトをお手本とする共産主義国家を目指していたが、キム・イルソン体制時代にそれにとって代わる独自のイデオロギーが創造される。それは主体思想と名付けられた。簡単に言えばそれは外国に頼らないで独力でやりくりしようという思想であり願望だ。それによって思想的純潔性を国内で育み統治を安定させキム・イルソンとその後継者による統治を存続安定させようという思惑があった。だがその主体思想を字義通りに実行するには国力が低過ぎだった為に様々な不幸に見舞われた。代表的には食糧と電力の不足だ。

 そのことからキム・イルソンの後継者であるキム・ジョンイルは主体思想に修正を加えた。国外における非合法活動による外貨獲得である。経済制裁により通常の貿易が困難であったことからDPRKは違法薬物や武器を密売し、偽札を洗浄することによって多額の外貨を獲得し核開発を進展させることにある程度成功したが、それらのリソースはエリート層を除く国民生活の向上にまわされることはなかった。DPRKは国民をその満足ではなくその恐怖によって支配する反倫理的だが効率的な手法を採用した。その手法とは国内に2ダースほど存在すると思われる強制収容所である。それらには約三十万人が収容され人間以下の動物として扱われる。毎日十八時間強制労働をさせられ、慢性的な食糧不足による餓死が頻発し、虐待と虐殺が横行する。

 扱っている品目がヤバいブツではあるが外国との貿易によって自国経済を発展させたいという意向は明らかに主体思想とは相反する。キム・ジョンウンはそのような前任者の修正を踏襲した上で更に推進する。具体的には以前も暗黙はされていた民間による自由経済の場、自由市場の公式認可である。それによってDPRKにはトンジョと呼ばれる最大数千万ドル以上の資産を保有する新エリート層が勃興した。彼らが扱うのは中国経由で仕入れた西側自由主義圏を含む世界各国の物品である。彼らは商談で訪れた中国の高級レストランで一人分千ドルのディナーを味わう。

 そして遂にキム・ジョンウンは最終的な賭けに出る。米国との外交交渉だ。彼はシンガポール、ベトナム、板門店で三度に渡って米国大統領ドナルド・トランプと首脳会談を行う。DPRKサイドは核開発能力の一部の放棄で米国による制裁の解除を実現しようと算段した。合意違反が発覚した場合、米国側による速やかな制裁の再発動権限を条文に盛り込むという条件付きで制裁解除に意欲的だったトランプだったが、ジョン・ボルトン補佐官とマイク・ポンペオ国務長官による説得で態度を変えた。最終的には失敗に終わった賭けだったが、この経過においてキム・ジョンウンによる西側自由主義圏との開かれた外交関係の構築という反主体思想的願望が明らかにされた。この首脳会談の移動の為に使用された航空機の存在がある種の象徴的意味合いを持つのはその所以である。ジェット機を操縦するジョンウンだが、彼は七歳の頃から子供用に改造されたメルセデスSクラスを運転する走り屋でもある。最高指導者に就任して以降もレクサスのSUVを運転し単独で移動することもある。服装も明らかに先代よりバリエーションが増し、洗練された。スーツも着るし、時にはレザージャケットを着てティアドロップ・サングラスを掛ける。基本的には伝統的主体思想による恐怖政治が徹底されているが、彼が追い求めているのはヒロイックな悪童主義であるようにも見える。

 総書記の特命によって実行された秘密工作計画にイ・ソンヒが任命されたのは板門店での米国との交渉決裂から数か月後のことだった。決裂によって総書記は核開発推進路線へと逆戻りし、その運用の効率化も推進しようと目論む。地上発射方式の各種核ミサイルは監視衛星によって攻撃行動が予測されてしまうので、敵対勢力にとっても絶対的脅威とはなりにくいが潜水艦に配備されるSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)だと話が変わる。既にSLBMを配備した潜水艦を保有するDPRKではあるが、その潜水艦は設計が前時代的である為、秘匿行動能力が著しく低い。

 日本のカッティングエッジ・テクノロジーを入手したいという総書記の意を受け日本を含む対外工作を担当する朝鮮人民軍偵察総局第三局が内偵を実施し、以下のような具体案を策定する。日本人化訓練を受けた工作員、イ・ソンヒが偽造パスポートを使い空路北京経由で日本へ潜入、海上自衛隊の潜水艦製造を受注する川崎重工の潜水艦設計部長カトウ・マサト(五十二歳)に対しハニートラップ作戦を実行し結婚にこぎ着け、ターゲットと共同生活する中で彼の使用する端末から必要なデータを奪取する。そのデータを活用すればより秘匿行動能力の高い潜水艦を設計、製造可能になり極東海域におけるDPRKの西側自由主義圏に対する脅威としての存在感が増大し得る。

 2019年十月。イ・ソンヒはジェット旅客機から成田空港に降り立った。その二十五年前、彼女は公務員の父親と専業主婦の母親の一人娘として平壌に生まれた。平壌の集合住宅の五階で暮らす彼らは基本的にはエリート階級に属していた。西側の価値観から言えばDPRK内ではエリートと言えども慢性的な食糧と電力の不足で困難な生活を強いられるというのが前世紀終わりから今世紀初頭にかけてお馴染みのイメージだが、彼女が五年制の小学校を卒業し名門の平壌第一中学校に通い始め、三年の初級から後半の三年間である高級に進級する頃には自由市場の露店や百貨店には食品が多く並び、衣服や化粧品に加えサッポロの缶ビールやソニー製液晶テレビ、中国製USBポート付きDVDプレイヤーが豊富に品揃えされ、全国的に中国製の太陽光パネルの設置が進んだ結果、電力事情は家庭用電化製品の使用は問題ないレベルまで改善し、スマートフォンも都市部では普及し始める。

 十階建ての立派な校舎を持つ平壌第一中学校は生徒数約千二百人で、キム・ジョンウンの母校でもあった。都市機能の近代化と兵器の先進化を推進したい総書記の意向から教育の重点は物理や数学などの理系科目に置かれた。インターネットは一般市民には禁止されていたが、そこではコンピュータ教育にも力を入れられイ・ソンヒもそこで高度なIT技術を学んだ。最高のエリートだけが入学する学校だけあって卒業生の多くは一流の大学に進学する。ソンヒも例外ではなかった。

 熱心な勉学の結果、ソンヒは平壌外国語大学日本語学科に合格する。この頃はまだ、女子には兵役義務は無く、男子であっても一流大学に入学するようなエリート、もしくは優れたスポーツ選手等は当然兵役を免除される。大学生活も三年を過ぎ四年目を目前にして順調に生活していたソンヒはある日、学部指導員に声を掛けられ第一学部長室に連れていかれた。

 その部屋の奥まった窓際のスペースにはパーテーションで区切られた応接スペースがあり、そこで一人のスーツ姿の男が待っていた。彼は窓の外を眺めながら煙草を吸っていた。ソンヒが目にした彼の後ろ姿からはそれほどの上背はないが発達した筋肉と引き締まった肉体がうかがわれた。彼は振り向いてソンヒと顔を合わせた。鋭い視線だった。彼女は猛禽類に狙いを定められたか弱いリスの気持ちが分かった。彼女の背筋が凍ったのはこの時が初めてだった。

「吸うか?」

 スーツの男は煙草のソフトケースを差し出して、日本語で尋ねた。

 試されている。スンヒは直観した。

「いいえ。煙草は吸いません」

「いい発音だ」男は微笑んだ。

「ありがとうございます」

 どうやら第一関門は突破したみたい。スンヒは一息ついた。

「ま、座ってくれ」

 二人はテーブルを挟んだソファに向かい合って腰を下ろした。

「学校は楽しいかね」

「はい」

「休日は何をしている?」

「いろいろです。勉強したり、友達と出かけたり」

「二週間前の日曜日は何をしていたかな?」

「友達と地下鉄に乗ってデパートに行きました」

「天気はどうだった?」

「午前中は雲が少しあって、午後は雨が降ったり止んだり」

「デパートでは何をした?」

「洋服と化粧品を見て回りました」

「昼食は?」

「近くのファーストフード店に行きました」

「店名は?」

「三台星清涼飲料店です」

「注文は?」

「ハンバーガーとフライドポテト」

「飲み物は?」

「レモンジュースを」

 三台星清涼飲料店は平壌で二店舗を営業するシンガポール資本のハンバーガー・ショップだ。彼らは日本語で会話していたので彼女はハンバーガーと言ったが、一般的な平壌市民は同じ物を〈牛ひき肉とパン〉と呼ぶ。〈牛ひき肉とパン〉は忽ち多くの平壌市民を虜にした。当然、ソンヒも例外ではなかった。

「その日、同一人物を複数箇所で見た記憶はあるか?」

「はい」

「どのような人物だ?」

「三十代前半の女性でした。服装は紺のパンツスーツだったと思います」

スーツの男は吸っていた煙草を灰皿に置いた。

「君は労働党の仕事に関心があるかな?」

「あります」

「……我々は党の仕事の為に有能な候補者を探している。率直に言って、君は非常に有望だ」

「光栄です」

「君は党の為に危険を冒して働く気はあるか?」

「……あります」

「私の言う危険は、君の生命をも保障出来ない危険だ。それでも、やり遂げる覚悟はあるか?」

「はい、喜んで自分の命を共和国に捧げます」

 その面談の数週間後、ベンツによる送迎で東北里第十号招待所に到着したスンヒはその時の男に再会した。彼は工作員訓練におけるスンヒの担当指導員となった。面談で彼に言った言葉はもちろん本心が含まれてはいたが、全てではなかった。食品や化粧品などはスーパーやデパートで手に入るが非合法な物でも欲しいと思えば自由市場に行けばあらゆる物が手に入る。外国で製作されたコンテンツはUSBメモリーに保存され販売されている。アメリカ、日本、韓国の音楽や映画がそれで見ることが出来る。彼女は密かに購入したUSBメモリー内のアメリカ製娯楽映画を父親に買ってもらった中国製小型ポータブル動画プレイヤーでこっそり鑑賞した。もちろん完全な違法行為なのでヘッドフォンは欠かせない。隣人に通報されたら逮捕されてしまう。もしDPRK国民が同じ物語の映画を作ったら間違いなく死刑になるような映画ばかりだった。西側のカルチャーに触れた彼女は一層興味を膨らませ憧れを抱いた。ロマンティックな映画に胸を躍らせ、外国アーティストのダンスと歌に魅了されていた。表面は主体思想に染まった忠実な国民だったが、内側では自由を渇望し始めていた。外国語を学び、秘密工作員になれば、外国へ任務で潜入し、その自由を味わえるに違いない。彼女はそのような願望も持ち合わせていた。だがそれは誰にも語られることはなくしっかりと鍵を閉めて心の奥底に閉じ込めてあった。

 スンヒは整った顔立ちの美しい女性だった。長身で引き締まったスレンダー体形で、優れた反射神経を兼ね備え、課外活動では陸上競技で短距離走の選手としても活躍した。運動能力、反射神経、観察眼、洞察力、判断力、知性。どれをとっても類い稀なスパイとしての素質に恵まれたソンヒは過酷な訓練を重ねるに従い、彼女の素質は徐々にかつ劇的に新たな性格を帯び始める。かつては純真で無垢だったその素質は恐ろしく危険で、無慈悲ですらある能力へと変質していった。数か月もすると彼女は一般的な男性三人を相手に彼らを素手で殺す近接格闘術を体得した。あるいは敵が彼女に拳銃を向けたとすれば、銃を一瞬で奪いその敵を殺せるようになった。彼女はそのような特殊な能力を身につけるに従い、あの自由市場で買ったUSBメモリーに入っていたアメリカ製娯楽映画に登場するようなスーパーヒーローに変貌しつつあるかのような感覚に浸った。悪くない。彼女は思った。実際、それは悪くないどころか、魅惑的ですらあった。

 当初彼女が滞在した東北里第十号招待所での滞在期間は十日間だった。そこでは主に思想教育が実施され、その後は金正日政治軍事大学へ入学し、広大な同校敷地内の妙香山谷間一地区二号招待所に隔離収容され一年間に渡り過酷な工作員教育を受ける。招待所の建物の中には寝室、食堂、講義室、洗濯室、倉庫が併設される。食事の準備は別の総合炊事場で行われ、管理人が食事を運ぶ。掃除や洗濯等はそこで共同生活する数人の教育生が自ら行う。教育内容は行軍、持久走、遠泳で基礎体力を増強するのは勿論、格闘、射撃、重火器の使用、短剣での戦闘訓練に加え、工作船の操縦、変装、侵入、盗みの訓練、語学学習等で、朝六時の起床後七時半の開始から夜二十三時まで実施される。

 卒業後は東北里第九号招待所に拠点を移しその後も不定期的に別の招待所に移住しながら徹底的な日本人化訓練が行われる。担当の女性教員とは日本名で呼び合い日本語で話し、日本人の仕草や作法で生活する。各招待所間の移住は主に退屈を防ぐ目的があったが、国内の招待所での生活以外も国外旅行訓練や中国における外国生活実習も複数回実行された。いくら外国に行ったり招待所を移ったりして退屈を防いだとしても、結局訓練は訓練でしかない。スンヒは訓練ではない本物の任務をやりたくて仕方なかった。そのような訓練生活が五年も続いたある日、遂に実際の工作任務の担当者として指名される日が来る。指令を受けた彼女は、平壌国際空港で北京行きのジェット旅客機に乗った。旅客機が離陸する瞬間、スンヒの心は天にも昇るような輝かしい高揚感の真っ只中にあった。彼女が待ちに待った瞬間だ。心が躍らない訳がなかった。

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