第3話

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 次の土曜日はクラブに行かなかった。高いし、サイトウは心が繊細だったので大勢の人がいて騒がしい場所では精神が疲れる。静かで何もしない時間で精神を回復する時間を多く必要とする。昔はもっと繊細だったので抗うつ剤と抗不安剤も必要だった。クラブなんか一か月に一回くらいが適切な頻度だ。銀座に毎日飲みに行く往年の銀幕スター、大物司会者、大物野球選手なんかはそれほど羨ましくなかった。高いシャンパンもそれほど飲みたいとは思わなかったが、飲んだことが無かったので一回くらいだったら飲んでリッチな気分を味わいたいと思った。夕方に起きて、日課と用事を済ませ、買い物をして、86の運転席でビールの代わりにライム缶酎ハイを飲んだ。ラムではなく焼酎ベースだが味は結構モヒートに近かったので、多少コリン・ファレルマイアミ・バイスで主人公が女性とキューバのナイトクラブでモヒートを飲む気分を微かに味わいながらローランド・エメリッヒの《ミッドウェイ》を携帯電話で見た。艦載機の武装交換で手こずる空母赤城が派手に爆発していた。

 帰宅し、部屋着に着替え、ステーキを焼き、冷凍ミックスベジタブルを炒め携帯電話で第二次世界大戦のドキュメンタリーを見ながら食べた。ちょうどホロコーストの回が終わって、ヒロシマが始まった。イギリス人の解説者は当時のアメリカ人と日本人の間は人種差別意識が非常に強くお互いに残酷な行為をしたと言っていた。ミシェル・ウェルベックの小説でも似たようなことが書いてあった。そっちは主に日本人による英米人捕虜に対する虐待への非難だった。ロシアはウクライナで避難民の集まる駅にミサイルを撃った。数十人の民間人が死んだ。使用されたのは集束弾と新聞に書いてあった。前だったらクラスター爆弾と言ってたが、クラスター感染と混同しないように変えたんだろう。思想家のフーコーはかつてエピステーメーという術語を使って〈実体を持たない権力〉の精神への作用を暴露した。権力者の直接的な指示が無くてもその時代の支配体制によって副産物として作り出された目に見えない知識の総体、エピステーメーが密かに人心を操り、恐るべき悲劇を引き起こす。残酷な不条理の要因となり得るエピステーメーは空間的、時間的に隔てられた場所から観察すれば、人を誘惑し悪事を行わせる概念的な悪、あるいは悪魔であるかのようにも思える。エピステーメーは実体が無いが故にそれ自体に対する物理的対抗手段はないし、目に見えないからその存在にも気づきにくい。どことなくパンデミックを引き起こした病原性ウイルスにも似ている。ウイルスは肉眼では視認出来ないが物質的存在ではあるので、ワクチン、治療薬に代表される物質的手段で対抗出来る。エピステーメーの場合は抽象概念なので、その対抗手段も抽象概念及びその媒体に限定される。言語、絵、映像、文書、演説、音楽、物語、S NS。ただそれらは権力によって有害なエピステーメーの増強にも利用される。ウイルスが多様に変異しワクチンへ対抗するように、プロパガンダは巧みに偽装し大衆を陥れる。

 ゼロ戦がカミカゼ特攻をしている最中に電話が鳴った。携帯電話画面の炎上する米軍艦船に重なってメッセージが現れた。アキラからだった。

「あれ、お前、今週は飲みに出ないの?」

「毎週は行かないよ」

「俺は毎日、クラブ行くけど」

「昭和の映画スターだろそれ、主に東映の。石原裕次郎みたいだな」

「まあな。ところで話があるからとにかく来いよ。カネは心配しなくていいから」

「いやだからそういうの悪いからいいよ」

「じゃあ、バーにしようか」

「バー? バーだったらまあいいけどさ」

 サイトウは部屋着からシャツとジーンズとユニクロのバイカーズ・ジャケットに着替え白いリーボックを履いて歩いて十五秒くらいの保育園に行っていつものタクシー会社に電話しいつものようにタクシーを呼んだ。タクシーは五分後に来た。待ち合わせ場所は繁華街のコンビニだった。タクシーから降りたサイトウはコンビニの中で週刊誌を読みながら待った。主に戦争の記事だった。数誌の記事の内容を簡単に要約すると如何なる国家共同体においても人口の1パーセントは優秀なエリートで2パーセントは異常に残酷で、大多数は命令されれば残酷な行為を行うが多大なストレスやPTSDに苛まれるという話だった。仕方ない。大抵の人間は死ぬのが怖い。命令されても残酷な行為を拒否する勇敢なパーセントはどれくらいだろう? そんなことを考えていた最中にアキラがコンビニに入ってきた。

「待たせたな」

「おかげで立ち読みを存分に楽しんだよ」

「どんな記事を読んでたんだ?」

「主に戦争の記事だ」

「つい数か月前までは平和は空気と同様に当然だったが、悪夢がすっかり現実になった。」

「厳密に言えば、悪夢も現実も我々の脳が作った幻想であることに変わりない。違うのはソースが脳の内部の意識か、感覚器官から得られた外部情報かだ」

「ふうん、で?」

「動物も夢を見る。動物実験では夢を見ることを妨げられるとその動物は死ぬ」

「何かひどい実験だな」

「人は一生の内、約六年間夢を見る。夢を見ている間は感覚的に時間の進行速度が遅くなるから、ひょっとしたら感覚的には覚醒している時間よりも夢を見ている時間の方が長い可能性もある」

「とすれば?」

「以上を踏まえれば人間は、夢と現実という別々の世界を生き、二重の物語を作っているような気がしてこないか?」

「二重の物語……そう言われるとそんな気がする」

「さあ」サイトウは締めくくった。「今夜の物語の舞台へ案内してくれよ」

 アキラが案内した物語の舞台は、1920年代から30年代のジャズが静かに流れる、ダークでアンティークなバーだった。二人はカウンターを通り過ぎた奥のテーブル席に座った。アキラはそこで高そうな日本製ウィスキーをボトルキープしていた。誰かの苗字みたいな名前だった。サイトウもアキラと一緒にそれをロックで嗜んだ。アキラは飲みながら煙草を吸った。サイトウは六年前にやめたので吸わなかった。何だか全く分からないが明らかに古いジャズだと分かるBGM を聞きながらウディ・アレン映画の登場人物気分に浸りながらサイトウはそのバーについて感想を口にした。

「いい店だな」

「だろ」

「ここは何て店だ?」

サイトウは既に酔っぱらっていたのでその店の看板なんか見ていなかった。アキラは質問に答えた。

「〈ムーンレイ〉だ」

「ふうん」

「気に入ったんなら今度は一人で来たらいい」

「一人では来づらいな」

「誰か誘えばいい」

「素敵なアイディアだ。で、話って何だ?」

 それは仕事の話だった。アキラが勤める会社で働いてみないかという誘いだった。ひょっとしたら素敵なアイディアかもしれない。その会社の経営者、社長はタカモリという四十五歳の男だった。彼らより七歳年上だ。それはつまりどういうことかと言うと、タカモリが小一のとき任天堂からファミコンが発売され、その年サイトウとアキラが生まれた。サイトウとアキラが小一の時スーパーファミコンが発売され、その時タカモリは中二だった。今やすっかりファミコンはアンティークになり、レトロなコンピュータやゲームはヴィンテージ・アイテムとして高額で取引される。要するにみんないいおっさんだった。

 運良くささやかな成功を勝ち得たおっさんのタカモリは複数の飲食店を経営していた。それらはそれぞれ二軒ずつのイタリアン・レストランとステーキハウス、及び一軒のビストロだった。ただ、タカモリ本人は飲食業というよりはクルマ屋だった。ドイツ車を直輸入し正規ディーラーより安価で販売する会社で成功した。BMW やAMGを売りまくった。だがそんな商売が様々な要因から行き詰まり始めた矢先、通っていたお気に入りのレストランのシェフと仲良くなり、飲食業への鞍替えを算段した。そのシェフがアキラだった。アキラは長年の経験があったし、頭も悪くなかった。タカモリの出資で出店したレストランを悉く繁盛させた。経営のカンも冴えていたのでシェフは下に任せ、統轄的な立場として複数店舗の実質的経営者としての役割を担った。タカモリは事実上、出資者としてアキラから報告を受け各種経営判断を承認する立場になった。つまり働かなくてもカネが入ってくるシステムが出来上がった。それはとても素敵なシステムだった。

「それで」サイトウは基本的な質問をした。「その会社で俺は何を担当するんだ?」

「クルマは運転出来るか?」

「ああ」

「俺のクルマを運転してくれよ」

「それだけか?」

「最初はな。運転して目的地に到着したら俺について来い。俺が何を見て、何を聞いて、何を言うか。それを覚えて欲しい」

「分かった」

 サイトウはとりあえず最初は結構楽そうだなと思い、好ましい感情を抱いた。

「ところで」アキラも基本的な質問をした。「スーツは持ってるか?」

「古いのなら」

「じゃあ、新しいのを買いに行こう。心配しなくてもいい。この仕事にはスーツはユニフォームみたいなものだからカネはこっちで出す」

「ユニフォームか。だったらお言葉に甘えさせてもらおうかな」

「どうせなら俺と同じブランドがいいだろ。都合のいい日にちを教えてくれ。店に採寸の予約を入れる」

「大体最近は金土が休みの確立が高いな。土曜日にしてくれたら休みにしてもらうよ」

「分かった」

「そのスーツ、随分高そうに見えるけど実際高いのか?」

「スーツに限って言えば、高そうに見えるスーツは実際高い」

 近頃珍しく値段分の価値があるプロダクトって訳か。スーツ以外だと多分、薬くらいかな。ユニクロかAmazonでなるべく高そうに見える安い服をごくまれにしか買わないサイトウはそのような感想を心の中でつぶやいた。《ゴッドファーザー》三部作の影響で何となくスーツと言えばイタリアかなと思っていたサイトウだったが、アキラのスーツはイギリス製だった。ハンツマン(Huntsman)というテイラーでロンドンに店がある。わざわざロンドンに行かなくても新宿のデパートに行けば同じのを買えるらしい。彼らは新宿のデパートにクルマで行く計画を立てた。どっかでランチを取ってからデパートに行って映画でも見てから帰ろうかとアキラは提案した。いや、別になんでもいいよとサイトウは答えた。計画の骨格は大体固まった。

 出発の日は四月中旬だった。その頃は既に社会が体系的な抗体を持ち始め、パンデミックだろうが何だろうが経済は復興の兆しを見せ始めた。土曜日の朝早くサイトウはアキラのマンションへ向かった。アキラが予め契約した月極駐車場にパールホワイトのクーペを駐車した。アキラのクルマはBMW5シリーズ(F10)だった。クリストファー・ノーランの映画テネットにおいてニールがエストニアの首都タリンで運転し大活躍していたクルマと全く同じ車種年式で色も同じブラックだった。3リッター直列6気筒ターボエンジンを搭載した速そうに見えなくて速いクルマだ。ドイツ車なのでハイウェイで本領を発揮するだろう。行程における役割分担としては前半がサイトウで後半の新宿のデパートの駐車場までがアキラの運転ということになった。BMWの運転席に座った第一印象としてはエアコンの操作パネルが運転席側と助手席側で独立しているので、デートの時相手は勝手に好きなように操作すればいいので楽そうだなと思った。発進時の操作としてはまず、シートベルトをしないと一部操作系が有効にならないという安全設計だった。シートベルトをしてからセンターにあるパーキングブレーキスイッチ下部のオートホールドボタンを押すと発進時に自動でパーキングブレーキが解除され停止時に自動でパーキングブレーキが作動する。つまり一度止まればブレーキから足を離しても停止状態をキープしてくれて楽だ。サイトウはオートホールドモードにしてからシフトレバーのジェット戦闘機の操縦桿だったらマシンガンを撃つボタンみたいな感じのボタンを押しながらブレーキを踏んだままでシフトレバーをPからDに移行しブレーキから足を離しアクセルオンで発進した。ドイツは平野の多い大陸国家でヒトラーが作った速度無制限区間があるのでお馴染みのアウトバーンがあることからもドイツ車は全般的に直進安定性重視設計だ。高速道路のエンプティ・トラフィックな直線ではMAX加速で移動時間を短縮した。最高250キロでリミッターが作動するはずだったがアウトバーンではなかったので220キロまでしか出さなかった。サービスエリアでの休憩を機にサイトウは携帯電話をブルートゥース接続し、メモリー内のアルバム《トップガン オリジナル・モーションピクチャー・サウンドトラック》を再生した。《デンジャーゾーン》を聞きながらマーヴェリックがトムキャットで原子力空母から発艦する気分でサービスエリアから発進し高速にアクセル全開で合流した。

「ヒーハー!」

 サイトウはトム・クルーズの甲高い声を真似して叫んだ。高速を飛ばしながら聞く音楽としては最高のアルバムだった。あまりの最高さにアキラもいい気分になって言った。

「なんか《トップガン》を見たくなるな」

「俺の携帯に配信版が入ってるから何なら今すぐ見れるよ」

「なの? けど今はサントラだけでいいよ。音楽だけを純粋に楽しみたい」

 《Take My Breath Away》の頃にはそれまでの戦闘的な気分からすっかりロマンティックな気分へと移行し、サイトウはスピードを落としていた。ミグを全機撃墜し、戦争はすっかり終わった。次のサービスエリアで運転をアキラと交代した。

 彼らは新宿に到着すると、BMWをデパートの駐車場に止めてハンツマンの売り場に向かった。顔パスだった。アキラは店員と親しげにあいさつし、サイトウを紹介してから束の間の世間話の後、生地、ボタン、裏地を選んでから採寸に入った。中年の男性店員はメカニカル且つテクニカルな動きでリズミカルに各部を計測し、各種データを用紙に記入した。素早い採寸だったがそれでも思ったより時間がかかった上、その後デザインについても検討しなければならなかった。さすがロンドンの老舗は違うなと生まれて初めてスーツの採寸したサイトウは思った。計画では採寸の前に昼食だったが、二人とも気が変わって順序が変わった。二人はデパートを出て近場のカジュアルなイタリアン・レストランに入った。予定ではそれから映画をみるはずだったが二人とも帰る時間が遅くなるのがすっかり嫌になってしまったのでパスすることにし、メシを食ったらとっとと帰ることにした。サイトウは絶対太りたくなかったので、ペペロンチーノとシンプルなグリーンサラダをオーダーした。そのオーダーを聞いたアキラは何か遠慮してんのかと思い、自分用のナスとモッツアレラのトマトソースパスタ、厚切りベーコンのシーザーサラダに加えマルガリータピザと肉盛り二人前(鴨ロース、ロティサリーチキン、サーロインステーキ)、白身のカルパッチョ、サーモンマリネ、ガーリックトーストを注文した。ウェイターが料理を運び終えるとテーブルの上はさながら典型的な独裁者のディナー並みに豪勢になった。アキラはパスタをたっぷり口に放り込んでから言った。

「ほら、遠慮しないでどんどん食えよ」

不覚にも若干食い過ぎてしまったサイトウは帰途BMWのステアリングを握りながらその日見る予定だった《ザ・バットマン》は後日配信版を買って携帯電話で見ようと思った。そう言えば、映画館にはしばらく行っていない。2013年に《エリジウム》を大雨の中そのころ乗っていたZZTセリカ前期型を運転して観に行って以降行っていない。九年前だ。結局、周りの人間を気にしながら見るよりも、家で、酒飲んで、リラックスしてパソコンで見る方がいい。サイトウは映画は好きだが、映画館はあまり好きではなく、小さい子供は大好きだが、動物は大嫌いだった。二歳児とは一瞬で親友になれる。出会った瞬間から旧友だった。ミシェル・ウェルベックの小説の主人公は大抵真逆だ。子供が嫌いで動物が好きだ。サイトウが唯一好きな動物はペンギンだった。ペンギンは大人になっても子供っぽいからかもしれない。よく考えると老齢のペンギンなんか見たことがない。ペンギンはきっといつまでも子供である日突然、何の前触れもなくいきなり死ぬのかもしれない。


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