第2話


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 パンデミックが始まって三年が過ぎた。新型ウイルスは多様に変異し人類への攻撃力を高めた。変異種にはギリシャ語のアルファベットで名前が付けられ人類はすっかりギリシャ語に詳しくなった。デルタは増殖力が千倍になり、オミクロンは感染時間を十五分から一分に短縮し、空気感染能力も獲得した。感染は爆発し、経済は停滞し、犯罪率は増加し、ロシアは侵攻した。ウクライナはEUの友好国なので北大西洋条約機構には加盟していないが戦線が他のヨーロッパ地域に拡大する可能性はある。プーチンは戦術核兵器使用の可能性に言及する。典型的な独裁者が使用可能な攻撃オプションを鑑みれば地球上で人類史上初の全面核戦争が実行される可能性も否定出来ない。そうなれば楽観的に見積もっても開始後二十四時間以内に一億八千万人が死に、一年以内に五十五億人が死ぬ。典型的な展開だ。そんな凡庸なストーリーの映画があったら映画評論家に酷評されそうだ。店員は全面核戦争後の世界をうろ覚えの映画マッドマックス2を参考にして思い浮かべた。それは砂漠の中をバイカーズジャケットを着てガソリンを求めてマイカーで移動するような生活だった。焼け残ったコンビーフの缶詰なんかを食うのだろうか。あまり快適そうな生活ではなそうだった。そうなったら飲み屋なんか行けないだろうな。店員は感染リスクを鑑みて飲み屋には去年のクリスマス付近にクリスマスソングを歌いに行って以来全く行ってなかったが、この戦争を機に行ってみようと思った。

 店員に休日が訪れた。二連休だった。午前中ディーラーに行ってマイカーのトヨタ86前期型のオイル交換と点検をしてもらった。午後は寝てから夕暮れ時に起き、ストロベリーヨーグルトを食べ、コーヒーを飲みながらパナソニック製ノートブックPCで《アウトレイジ》のDVDを十分くらい見てから、ヴィックス・メディケイテッド・ドロップを舐めながらテイラー・スウィフトの《End Game》で歌の練習をした。ある日、高音が弱くなったのを機にヴィックスを毎日舐め始めてからかれこれ十年近く経過したがその間一度も風邪を引いてないし、どの新型ウイルスの変異種にも感染していない。マスクとか検査キットを無料配布するよりはヴィックスを全国民に三か月分くらいずつ無料配布した方がパンデミックの制圧に有効ではないだろうかと半ば本気に考えていた。店員は歯を磨き、シャワーを浴びてからマイカーで買い物に出掛けた。

 買い物の前に勤務先のコンビニに行った。休日でも発注だけはやらなくてはならないからだ。発注の前にソニー製携帯電話でNBCナイトリーニュースをYoutubeでダウンロードしてから村上春樹原作の映画ドライブ・マイ・カーの配信版を購入しダウンロードを開始した。ダウンロードしている間に発注を終え、例の女子とちょっと話してからスーパーへ向かった。

 スーパーでステーキ用牛ロースと缶ビールを一本、ジムビーム一本、炭酸水のペットボトルを二本買った。カーオーディオに差したUSBメモリー内のケンドリック・ラマーのアルバム《DAMN》を聞きながら月極駐車場に戻ると缶ビールを飲みながらネットフリックスで《シン・レッド・ライン》を途中から十数分見た。仕事終わってから酔っぱらって見るには概念的過ぎるし、長ったらしい景観ショットも退屈だ。明日からローランド・エメリッヒの《ミッドウェイ》をまた見よう。荷物をまとめてクルマを降り、帰宅しステーキを焼いた。塩コショウを肉に掛け、蓋をして強火で両面をサッと焼いてから火を止め蓋を開け、温度を下げてから蓋を戻し弱火で数分間加熱する。加熱時間は先週より一分長くした。先週はレアだったが、今回はナイフで切った断面がほんのりピンク色の完璧なミディアムレアに仕上がった。高い肉だったらレアでもいいが、安い厚切り肉なので完璧なミディアムレアにしないと美味しくない。肉汁の残ったフライパンで冷凍ミックスベジタブルを炒めた。店員はネットフリックスで第二次世界大戦のドキュメンタリーを見ながらステーキを食べた。スターリンのレッドアーミーがベルリンに侵攻していた。食べ終わると食器と調理器具を洗ってから、ジムビーム・ソーダを飲み、《ドライブ・マイ・カー》を少し見た。原作を読みたくなった。つまみのプリッツがなくなったタイミングで携帯電話でタクシーを呼び、行きつけの〈club Orfeo〉に向かった。彼は独身だった。

 店員は失恋から受けるダメージが大きく、恋愛から得られる快楽が乏しかった。そのことから彼は彼自身の頭がおかしいのだと確信した。彼以外の人間が彼自身と同じように感じるのであれば、人類は滅亡していたはずだからだ。人類の存亡には大多数の繁殖への意志が欠かせないはずだった。それは特別な才能を必要としない本能的な機能であるはずだ。彼は彼自身にその機能が完全に欠けているような気がした。だが、大多数が担うべき機能を彼だけが損なっていたとしても、それは大多数への損害にはなり得ない。彼一人が彼以外の大多数の人類の存亡を無視したとしても、何の害もない。人は他人に害を与えない限り自由に生きていいはずだ。だが、それは単なる幻想だった。どんな存在も存在した時点でそれ以外を害する潜在的可能性を含有する。万有引力の法則は人間の潜在的な悪にあてはまる。質量に応じて値は変化するが、それは常に存在し、あらゆる力を行使し、何者も逃れられない。しかし実際は悪の潜在的可能性は何の実効力も保持しない無益な概念でしかない。悪人を罰し、善人の権利を守る保障が無ければ社会は秩序を喪失し大きな不幸に襲われるだろう。イデオロギーもへったくれもない。平穏な生活が最上だ。店員の根幹的な行動原理は不幸回避だった。ただカネがあったら、結婚しただろう。片っ端から告白し、誰かと付き合い、結婚し、子育てし、神経をすり減らし、歳月が過ぎ去り、生活習慣病を患い、高騰する医療費にカネを使い果たし、盛大な延命措置の末に死ぬ。別にそれならそれでいい。いずれにせよカネはあった方がいい。足りないととても嬉しくない。

 〈club Orfeo〉のカウンター席で声を掛けて来た彼はカネには困っていないようだった。ストライプの入ったスーツを着ていた。そのスーツは見るからに高級そうだった。きっと地中海に面する第二次世界大戦時枢軸国製だろう。その国は強力な戦車や戦闘機を作るのは苦手だが、粋でマフィアに似合いそうなスーツと死ぬほど速くてリセールバリューが高いスポーツカーを作る才能には相当恵まれている。スーツがイタリア製なら時計はきっとスイス製に違いない。

「サイトウじゃないか。覚えてるか、俺?」

 サイトウはスーツを見た。彼は覚えていた。アキラだった。アキラは小学校に初めて登校した日に出会った時と寸分たがわないお得意の満面の笑顔をたたえていた。一説によると笑顔の種類はおよそ数千に及ぶとされるがその中でもアキラの笑顔は他人の印象に残る点においてはそのトップ1%以内に入るような特権的笑顔だった。生まれながらのエリートだった。笑顔を燃料にして飛ぶF14トムキャットがあったら、アキラは当然、アメリカ海軍が誇るエリートパイロット養成機関、トップガンに選抜されたであろう。サイトウは試しにアキラが敵のミグを撃墜し「ビンゴ!」と叫ぶ様を心に思い浮かべてみた。その単語はアキラが言う為だけにあるとしか思えなかった。サイトウは質問に答えた。

「アキラだろ」

「ビンゴ! 久しぶりだなお前、元気にしてたか」

「実を言うと、そうでもないんだ」

「何だよそれ、普通は元気でなくても絶好調ですとかっていうもんだろ大人の礼儀として。まあいいや元気って言われても話が続かないしな。一緒に飲もうぜ。聞いてやるよ、お前が一体どんな不幸の真っ只中にあるのかをな」

 元気ではないとほのめかしたが、不幸だとは一言も言っていない。大人の礼儀に関してはお互い様だろ。サイトウは心の中でこのように反論したが一切口に出さなかった。なぜなら彼は実際不幸だったからであり、そのことを誰かに打ち明けたいという渇望が彼の心の中に溢れかえっていたからであった。サイトウとアキラは同じ小学校と中学校に通い何度か同じクラスになった。十九世紀的に言えばアキラはサロンで世間話に花を咲かせる社交界の花形で、サイトウは修道院で個人的な問題に個人的に取り組む修道僧だった。基本的には一切性格的に一致する部分はなかったのでお互いの家に遊びに行ったこともなく、常に心理的に隔てられた存在としてお互いを認識していた。アキラはサッカーやアイスホッケーに熱中し、サイトウは球体及び円筒上の物体の移動ないしはその阻止によって得点を競う運動をほぼ全て忌み、それ以外の問題についての思念で忙しかった。二人は異なる階層で異なるサークルを形成し異なる言語を話した。しかしながら、なぜかクラスの中での席は隣になることが多く、サイトウはアキラからしつこく消しゴムを貸してくれと頼まれた。サイトウにとって消しゴムは水や空気と同じくらい生存に欠かせない物資であり持ち忘れることなど考えられなかったが、アキラにとっては必要な時になって初めてその存在を思い出す程度の背景的な装飾に過ぎなかった。物理学的には同じ世界に生きていたが現象学的には別の次元に生きていた。数十年振りにアキラの声を聞き、特権的笑顔を見たサイトウは異なる世界に引き込まれたかのような錯覚を覚えた。

 ただそれはあくまで錯覚であり実際に異なる世界に引き込まれた訳ではない。なぜならそれは現代の理論物理学上不可能だからである。人間は感覚的に四次元までしか認識出来ない。縦、横、高さ、時間経過の四個だ。しかし数学上の仮説においては実際の宇宙は十一次元の存在であり具体的には球状の膜、つまりシャボン玉のような形をしている。そのようなシャボン玉みたいな宇宙が超空間と呼ばれる暫定的に無限に広大な空間に石鹸で作った無数の泡のように密接して存在しその泡(宇宙)の数は数十億個から十の百乗個に及ぶと予測されている。それぞれの宇宙はその隣の宇宙を直接的に観測できないが唯一重力のみは別の宇宙へ自由に到達可能であり、そういった別の宇宙の別の銀河の重力が人類によって観測される現象がダークマターの正体である可能性が高い。人類がその異なる世界であるところの隣の宇宙に行くテクノロジーを実用化するには少なくともこれから数十世紀に及ぶ文明の進歩は必要であろう。だから現時点においてサイトウは異なる世界には行くことが出来ない。出来るのは行ったと錯覚することだけだ。現代理論物理学の壮大な理論体系に比べれば錯覚したり想像したりするのはいささか幼稚な行為に思えるかもしれないが、地球上の無数の有機生命体の内で出来ないことを想像したり、その想像を信じたり出来るのは唯一人間だけに可能な特殊能力でもある。異世界に迷い込んだサイトウはそこで初めて出会った人間に自分がどのように不幸であるかを説明した。一説には不幸の種類は約数千に及ぶとされるので不幸は説明しないと理解して貰えないし、説明しても理解して貰えないかもしれない。

「お前、トルストイが不幸について言った言葉を知っているか」サイトウは質問した。

「誰?」

「十九世紀のロシアの作家だよ」

「ふうん。で、何て言ったんだ」

「えーっと、確か、幸福な家庭はみんな似てるが、不幸な家庭はいろいろあるみたいな感じだ」

「幸福な家庭だっていろいろあるだろ。よく聞くだろ家族ぐるみで子供を鍛えてオリンピックの金メダルとか目指す話。あんな苦しい思いして金メダルとかもらうくらいだったらゆったりと平凡に生きた方が絶対幸せだろ」

「十九世紀にオリンピックはなかったはずだ」

「なるほど。で、お前はどんな感じに不幸なんだ?」

「短いバージョンと長いバージョンがある。どっちがいい?」

「出来れば最も短いバージョンがいい」

「ステーキだったらミディアムレアがお勧めだが、まあいいだろ。ちょっと待ってくれ。短くするのに時間が要る」

「パラドックスか」

「仕事が嫌になった」

「いいね。短いし、分かりやすい。ただ夜はまだ長いもうちょっと長いバージョンも聞きたくなったよ」

「二千字で足りるか」

「十分だ」

 不幸の原因を二千字にまとめろ、か。いったいどんなレポートだ。そんなレポートは書いたことがない。サイトウは大学で大概どんな課題に関するレポートでもその課題と全く関係ない内容を書いた。一見全く関係ないことを書いているように見えて、やがて課題との意外な関連性が表出し話が一気に本題に回帰する感じの筋立てを無意識に多用した。その意外な関連性を演出することにおいて冒頭で語られる関係ない話は関係なければ関係ないほどより劇的な効果を発揮するはずだという直観的信念があった。欧州近世文化における課題においては米国現代ポップカルチャーについて書き、古代についてのレポートで未来を語った。あたかも遥かな未来は全面核戦争で文明が終焉した原始時代ででもあるかのような論調だった。単位や評価なんかどうでもよかった。いったん文章を書き始めると書きたいことを書きたいように書く衝動に抗えなかった。書く必要があったとしても書きたくなければ書くに値しない。それが唯一のルールだった。彼はルールを順守した。つまり常に自分自身には従順だった。ウィスキー・ソーダを飲みながらレポートの執筆に勤しんでいるとエリがやって来た。

「お飲み物はいかがなさいますか」

 彼女は〈club Orfeo〉でホステスとして働いていた。当然とても魅力的な外見を備えた女性で、そんな魅力には一切如何なる価値も無いのでもあるかのように振舞った。そんな振舞はシンプルで素敵な白いドレスのように彼女の魅力を引き立たせた。要するにホステスとしては非常に優秀だった。

「ジョン・コリンズ」

「じゃあ、俺も同じの頼むよ」

「はい」

 エリはにっこり微笑みながら返事をし、軽やかに歩き去った。彼女は二十二歳で、その体形は全てが秩序立っていた。あたかもエントロピーの増大とは無縁であるかのように思えた。人は老い、クルマは壊れる。権力は腐敗し、環境は破壊される。すなわちエントロピーは常に増大する。人類文明は利便性と快適性の向上という果実を求めてエントロピーの増大スピードを大幅に加速させた。これからそれを減速させることが出来るのだろうか。エリがドリンクを持って戻って来た。

「お待たせしました」

「ありがとう」

「何考えてるの?」

「別に」

「そう。ねえ歌ってよ、私が前頼んだの」

「えーっと、バックストリートボーイズだったっけ?」

「違う、テイラー・スイフト」

「《マイン》だよね」

「そうそれ」

 サイトウはマスクを外してからカクテルを飲み、《マイン》を歌ってからまたマスクを付けた。エントロピーも大事だろうけどまずこの疫学的問題をどうにかする方が先だな。ただサイトウは常にマスクをすることによって声帯が保護され乾燥する冬でも声がプレパンデミック期ほど弱くならないという付随的恩恵を享受していた。プレパンデミックではマスクは必要無く、プレ9/11では愛国者法は存在せず、プレルネッサンスでは遠近法は発明されていない。エピステーメーは段階的にアップデートし、決して後戻りしない。レアは余熱でミディアムレアになり、エントロピーは常に増大し、サディスティックな独裁者は虐殺を繰り返す。全ては数学に強い知的存在によって予定、管理、修正、決定される。人類はその仮借のない過程、デカルトによれば機械論的、ヘーゲルによれば弁証法的、ニーチェによれば永劫回帰的過程をかつて運命と名付け、今でも全く同じように呼ばれている。サイトウは書き上げたレポートをアキラに発表した。

「言いたいことは分かるよ」アキラは寸評を述べた。「要するお前の自由意志はサディスティックな敵対者の攻撃によって迫害され損なわれた」

「既に限界を超えたほど」サイトウは認めた。

「だったら、俺に出来ることがあるかもしれない」

「何の話?」

 エリが来て、興味を示した。

「何でもないよ」アキラはエリにそう言ってからサイトウの顔を見る。「この話はまた今度にしよう」

 その話はそれで終わり、サイトウとアキラはエリと話した。話題はころころ変わり、最近読んだ本とか種々の時事問題、料理その他だった。サイトウはエリにその時読んでいた本の話をした。ミシェル・ウェルベックだった。フランスの作家だよ。色んなフランスのカルチャーの勉強になるね。例えば、日本では高校生が地下鉄で喫煙するゴロツキを注意して殴られた話が大ニュースになるけど、フランスの地下鉄では若い女性が簡単にレイプされ、大したニュースにもならない。治安の悪い区域で働くオフィスワーカーはタクシーにしか乗らないし、それでも信号待ちで襲撃される。アメリカも酷い。最近もニューヨークの地下鉄で六十二歳の男がグロックで9ミリパラベラムを撃ちまくって十人が被弾した。それに比べれば日本ははるかに治安がいいし、地方はもっと治安がいい。治安がいいに越したことはないよ。エリの美しく輝く瞳を見ながら話すサイトウは幸福だった。カネがないコンビニ店員とこんな小難しい話して彼女は楽しいんだろうか? まあ、こっちはとてつもなく楽しいけど。私が楽しければそれで十分だ。きっと全ては手に入らない。ジョン・コリンズを飲みながらサイトウはそう思った。

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