第44話 音楽は止まない(7)

 時計回りに旋回しながらホールを回るふたりは、大洋を遊泳するイルカのよう。真っ赤なウィンターローズのブーケが真横に来た時、華奢な右手がすらりと伸ばされた。


 一輪の薔薇を片手で手折たおり、青年のボタンホールに差し込む。逸脱した振り付けを唐突に挟んだ意図は、酔漢に汚されたワインの沁みを隠すこと。結婚式の新郎が身につけるような小花束ブートニアを片割れに贈って、エルは緋色の唇で満足げに微笑んだ。


「ギャアッ!」


 獣じみた歓声はクライノートの女子生徒たちから。


「今の見た⁉ あの世界一カッコいい女の子、あたしのクラスメイトなんだけど!」


 演奏中にも関わらず肩を揺さぶられたユーフォニウム奏者は、額に玉の汗を浮かべつつ必死で頷いた。


 キザ、自己陶酔、外連味けれんみ――他の誰かがやれば失笑を買いそうな演出は、このクイーンに限っては完璧に作用する。そもそもエル・スミスとは、地の底で生きる人々にとっていかなるスターにも勝るスターなのだ。


「ハンサムすぎませんか?」


 頬を赤くしたロスは悔しそうだった。「いったい何を食べさせたら娘がこう育つのか、姉を問い詰めたい気分です」


 それはエルが日頃思っていることである。「仕返しができて嬉しいです」とニッコリした。


 昨日まで彼女をレッスンしていた青年は、教え子が突然卓越した踊り手となったことにわずかな驚きも見せなかった。カフェでは転んでしまったステップを飛ぶようにこなすのも、教えたはずがないスピンを当たり前に回るのも、何の不思議もない。


 エルはハルヴァハルである。万能の王とはつまり、そのようなものなのである。


 舞踏会場は今となっては、ふたりのためのステージだった。照明もこの奇妙なペアをことのほか照らしているようで……というか事実、大量の光線が虚空から投げられていた。


 頬を蒸気させて捕まらない蝶のように舞う少女のポケットで、金の鍵が熱を持つ。


 シャンデリアの隙間に浮かぶのは、いくつもの黄金のスポットライト。指向性を持った光が、遊泳する赤と銀を追う。笑みを絶やさない踊り子が目を伏せるたび、瞼に落とされた金粉を煌めかせる。


 この夜のトゥールは、舞台照明に姿を変えるだけでは気を静めなかった。ポケットから溢れるように滲み出たかと思えば、金のインクで裾いっぱいにカサブランカの花束を描く。金糸の花弁はターンで空気を孕んだ瞬間に、極彩色の宝石に変わった。エメラルド、ルビー、タンザナイト、シトリン、ダイヤモンド――黒一色のドレスから、鮮やかな光彩が床に零れ散った。


 明らかな超常現象だった。しかし衆目はだれも気づかなかった。正確には認識していたが、あまりにダンスが素晴らしいので、この踊りに見合うドレスを広告会社か何かが演出したのだろうとそれらしい理屈を組み立てて自分を納得させたのだった。


「あれ、三等国民ではないのか?」


 主賓席の傍ら。一等国民を押しのけてホールの中央で踊るトゥラン娘を目にして、高等文官たちは猫騙しでも喰らったような顔をしていた。「どうして誰もつまみ出さないんだ?」


「おおおっすごい! 見えますかジャイルズくん、あの素早いスピン! いったい何周回ったか、数えようとしたら目を回しそうになってしまった!」


 訝しげな面々の中、オペラグラスにかぶりついている総督ハロルドだけが、夢中で歓声を上げていた。ようやく双眼鏡を外したかと思えば、両の目頭にハンカチを押し当てて「なんと素晴らしいダンサーでしょうか……!」とむせび泣く。


「全く、芸術に勝るものはありませんね。亡き母がいつも言っていたことを思い出します」


 鼻をかむ君主の背後で、冷酷無慈悲を身上とする高等文官たちは、「……」と途方に暮れた目線を交わしあった。


 1、2、3、1、2、3。壁の花エリアで座る少女たちは、ドレスの下でリズムを取った。自分を誘いに来てくれる紳士はいないからダンスエリアに混ざりに行くことはできない。それが社交界のルール。……でも、なぜこんなところで座っていなくてはいけないのだろう? 気づけば皺になるほど裾を握りしめながら、眩しいライトの下でひるがえる身体を食い入るように目で追いかける。


 子どもに優しいダンス教師など、冬のキングストンにおける晴れ間並みに稀有な存在だ。令嬢たちは皆、爪先に血を滲ませてお尻を叩かれながらレッスンを受けてきた。過酷な時間と引き換えに、彼女たちの手足は音楽に合わせて巧みに舞う術を身に着けた。


 だが、ステージに上るチケットを持つのは自分ではない。踊り終えたあとには義務も待ち構えている。


 わかっている。女は男に庇護されなくては生きられない。だからダンスなんかより、もっと大きな目的のために行動すべき。ちゃんとわかってる、バカな子どもじゃないのだから。


 けれど、行儀悪くもリズムを刻もうとする身体を押さえつけることは困難を極めた。


「踊り終わったらきっと言う機会がないから、今言います。……素敵です、とても」


 曲の終わりを惜しむように目を細めたロスは、苦笑いで瞼を閉じた。「なんていうか……眩しすぎて、目が溶けそうで」


 君主然としていたエルの顔に、とたんに年相応のはにかみが取り戻された。「ありっ、ありがとうございます」


「でも白状すると、ちょっと悔しいです。エルさんの初めてのドレスは、おれが贈ってあげたかったのに」


 答えに窮した。親族でもない男性がドレスを贈るというのは、一般的には相当真剣なアプローチに当たる。つまり、そういう意味? それとも叔父と姪の親族ケース?


「……これ、借り物だからノーカウントです」


 尋ねる勇気が出なかったエルは結局、少し頬を膨らませて照れ隠しした。「でもドレスなんて頂いても、着てく場所がないからもったいないわ」


 またひとつ風船を結ばれて浮かれた心は、目の前に本人がいなければジャンプでもして発散したいところ。


「今はね」


 弓なりから身を起こす少女の背を支え、ロスは微笑んだ。


「壁は必ず壊れます。……おそらく、そんなに遠くない日に」


 踊り終えたふたりは、主賓席に向かって優雅な礼をした。


 エルが披露したのはもちろん、古めかしくて麗しき屈膝礼カーテシー。かつてヴァルトやベルチェスターの若き姫君デビュタントたちがそうしたように拝謁する姿を見て、ゲルハルトは懐かしく目を細めた。


「いい気になるなよ!」


 驚嘆のため息を吐く人々の中、激昂した怒鳴り声が響いた。


 であるはずの軽侮をケンカとして買われたトヴィアスだけが、トゥラン娘の意図を正確に理解していた。


 これはベルチェスターへの挑発である。奴隷の分際で人間であることを主張しようという、命知らずの企みであると。


「いいか、立場を弁えろ! どれだけ真似が上手かろうが、猿が人間になれるはずがないんだ!」


「当然ご存知だと思うんだけど」


 息が上がっていても、その背筋は伸びたまま。豊かな巻き毛がばさりと払われる。


聖顕歴イニティウム1815年。レーベンスタット会議で首脳陣の親睦を深めるために舞踏会を催したのが、西側諸国がクランツを知るきっかけだった。つまりこの華麗なる円舞の生みの親はヴァルト帝国ってわけ。猿真似というか、もともと猿の踊りだったというのが正しいわね。そもそも源流は農村だし」


 教科書に記されたことや授業で教わったことは、赤毛頭の中の図書館にはたいてい格納されている。年が離れたヴァルトの隣人たちが誇らしげに語る民族舞踊の歴史のことなら、すぐに取り出せる位置に。


「大ヴァルト帝国のハズレもハズレ、山間やまあいの牛飼いたちが向かい合わせに飛んだり跳ねたりしてた、豊穣の踊り。街の市民が真似をして、やがて宮廷に届き、心を鷲掴まれた貴族たちがお城でも踊れるように大人しくさせたのがクランツよ」


 信じがたい顔をする男の前で、ドレスの裾がたくし上げられる。


 一曲披露したあとでも、ペリドットはちっとも落ち着いていなかった。むしろ踊る前より、激しく燃え盛っているようだった。


 少女の背後で、薄い肩を見つめる人々がある。彼らは願っていた。喉から出せない叫びを口の中いっぱいに溜めて、親指を強く握り込む。


 煌々と明るい怒りが、眼窩がんかの奥で火花になった。


「だからもとは、こんなんじゃないの!」


 ヒールが激しく地面を打ったのは唐突だったが、音楽は待ち構えていたように高らかに鳴り響いた。

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