第43話 音楽は止まない(6)
ゆるやかな編み込みの下、豊かに波打つ赤毛が揺れる。彼女が身につけるのは、ほっそりした肢体に沿うシンプルなリトルブラックドレス。こうした席には眉をひそめられる、喪服のような黒地である。アクセサリーは紅珊瑚のネックレスだけ。だが正面から見ればコンパクトな一連ネックレスは、うなじから幾重にも粒を垂らし、大きく開いた滑らかな背中を彩っていた。
色彩は黒と赤。パステルカラーのローブデコルテと大量のジュエリーを第一とする舞踏会のドレスコードからは逸脱したそのコーディネートはしかし、小麦色の肌に赤い髪をした少女の小生意気な可憐さを絢爛に引き立てていた。ただでさえハッとする翠の眼差しはまつ毛を濃く伸ばされて、目が離せないほど強く光る。
傲然と顎を上げて立つ姿はまさに、真っ赤な大輪のダリア。
エルは自分をぽかんと見つめるいくつもの目を黙殺した。代わりに、座り込んだままの青年の前に長手袋の指先から何かを落とした。
ロスの真横に落ちてきたのは、皺のついたハンカチ。なぜか人間の瞼がクッキリ転写されている。
これは、拾えという意である。そしてもちろん――百年分は古典的なやり方だが――淑女が紳士にやる場合、ダンスに誘えということである。
(……え⁉)
青年は二度見した。エルの衣装を確かめて、さらに三度見する。
今夜は
おまけに先日5ユニスのミドルヒールでやっと歩けるようになった足は、見るからに凶悪なハイヒールを履いているのだ。
「あのっエルさん! それはさすがに無茶……!」
カツ! と尖った
クイーンとはせっかちなものである。答えの決まっている決断に猶予を与える人種ではない。彼女がロスに与えた選択の時間はそれで終わりで、青年の手を掴むと強引に引き上げた。
無理やり立たせておきながら、この上なく優美に右手を差し出す。
「踊ってもらえますか? ロスさん」
淑女が殿方をダンスに誘うことは、筆舌に尽くしがたいほどに下品。それはダンスレッスンの最初に教わっている。
禁忌とされた振る舞いを、エルは堂々とやってのけた。
「おいおい見たか! 娼婦だぜあの女!」
トヴィアスが嘲笑する。口汚い野次は、この少女の前では快い風となって赤い後れ毛を揺らした。
レディーの心得その一、常に余裕を見せること。
ロスが逡巡したのは、正味のところ一秒足らず。
「……おれでよければ喜んで」
主君の手を、下からそっと握り返す。
先のことばかり考えてしまう頭だが、今回ばかりは全部終わってから働かせることにした。彼女を無礼者に笑わせたままにしておくくらいなら、素性がバレて銃殺刑になったほうがマシだ。
それに、おれはずっと願っていたじゃないか。この命尽きるまでに一度、自由に空を舞う大鷲の姿を見上げてみたいと。
指揮者は背中越しの会話を聞いていた。適当に流していたカドリールは右手を巻いて終わらせて、目配せで次の曲を指示する。
疲労の限界であるはずの楽員たちは、黙って無言で頷いた。
客たちは、トゥラン娘が身の程知らずにも一等国民ぶって踊ろうとしていることを
社交界とは、下の階層から上に
可哀想に。あの子は舞踏会の美しさにのぼせ上がって、現実を見失ってしまったに違いない。だって最下層の三等国民でありながら、わたしたちのブレイク隊員と踊ろうだなんて。
「下等民はクランツも踊れない猿、とか言ってたかしら?」
この少女は実際、少しばかりドレスアップしただけのトゥラン人だった。化粧を施そうが浅黒い肌を隠せるわけでも、翠眼を青くできるわけでもなかった。
しかし一等国の青年軍人を真っすぐ見据え、身分を忘れた尊大な――対等な立場であるかのような言葉遣いで堂々と対峙する姿は、人々にある種の錯覚を覚えさせた。
「見せてあげるわ。あなたがバカにした猿が、どんなダンスを踊るのか」
無粋な横槍が入る前に、ヴァイオリンとフルートの旋律が始まった。
わざとロスから身を離したエルは、胸に飛び込むようにスピンしながらホールドの姿勢を取った。ほんの一瞬で、なんと四周。赤い巻き毛の残像が消える間もなく、次のターンの前の予備歩がすかさず始まる。
舞踏会に付きものの
今宵の銀髪の青年将校と赤毛のトゥラン娘のペアも、そうした踊り手だった。
体格差があるはずなのに、ステップの足取りもターンの足取りも鏡のように揃っていることは、スカートから伸びるしなやかな足が教えた。スローアウェイ・オーバースウェイのあと、深々と反る背中からジンジャーブロンドが滑り落ちる。紅珊瑚のバックネックレスが床につく。
つまみ出せと命じるために衛兵を呼びつけた紳士は、口を開けたまま呆然と見入った。
見えてしまえば、目を逸らすことはできない。ひそめられた眉はあちこちで
「ロス⁉」
貴婦人の包囲網から何とか抜け出したユージンは、素っ頓狂な声を上げた。引っかき傷をこさえられた頬を抑え、唖然と口を開ける。
「あいつ、一体何してるんだ……⁉」
彫刻のように美しい青年将校の斜め後ろで、少し髪の薄くなった小男も愕然と立ち尽くしていた。
燕尾服を纏ったフェルディナントの脳は、目の前の光景を理解することを拒絶した。なぜか三等国民の娘がブレイク隊員とクランツを踊っている……ちょっとばかし、自分のところの生徒に似ているような気もする……まあ当然のことながら、他人の空似だろう。コーラス隊を視界に入れてしまったのが、彼の判断ミスであった。
ギムナジウムの生徒たちは、熱に浮かされたようなうっとり顔をしていた。あののぼせ上がった眼差しには、嫌というほど覚えがある。言うことをまるで聞かない神経質な小鳥どもをあれほど熱狂させられるのは、学長たる自分が知る限りひとりしかいない。
つまり、あの赤毛の少女の正体は――。
「エル・スミスゥウーッ! また貴様かあああ!」
ポマードで撫でつけた髪を掻きむしる中年から、半泣きの叫びが
「どうして貴様はいつもいつもそう、頭がイカれておるんだーっ‼」
涙目の悲鳴は、赤毛娘には届かなかった。たとえ聞こえたところで、表情ひとつ変えずに無視されたに間違いない。
レディーの心得その二、何をやらかそうが涼しい顔で受け流せ。
コーチにはそのように教えられているのだから。
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