第40話 音楽は止まない(3)
貝殻をモチーフにした噴水、溢れんばかりのウィンターローズのブーケ、金で縁取られた猫足の家具、ベルベットのソファー。シャンデリアの光が花弁のように散った華麗なるこの部屋は、なんとお手洗い。
「はあ〜……」
手水場に置かれたソファーに腰掛けた赤毛の少女は、深々とため息をついてうなだれていた。まだ仕事中だ。だが、どんどん女性に取り囲まれるロスを見ていると、なんだか胸が痛くて我慢できず、逃げてきたのだった。
入口のドアが開く音に、慌てて立ち上がった。今日だけは三等国民であるギムナジウム生も、来賓と同じ手洗いを使うことを許可されている。とはいえ一等国民たる淑女たちがいい顔をしないだろうことは、目にする前から明らかであった。
入室者からはなるべく距離を取り、会釈の姿勢で足早に通り過ぎようとする。
「ねえ、あなた!」
が、鋭い呼びかけとともに手首を掴まれてエルは硬直した。
「あっ、ごめんあそばせ!」
相手は慌てて腕を離した。
それはエルより少し年上の、若いベルチェスター令嬢だった。紫色のドレスにブラックレースの小物類、金髪を頭の高い位置でまとめた勝ち気そうなその顔立ちは、どこかで見た覚えがある。
エルをまじまじと確かめた彼女は突然、青い瞳にいっぱい涙を溜めた。
「奇跡だわ! あんなにされた顔が治ってるなんて……!」
あっと口を開けた。夏の誕生日の日暮れ刻、顔面鞭打ちをくらった時のこと。バナナの皮ですっ転んだ高等文官と従者のほかに、あの場には後部座席に座るレディーがあったことを思い出す。
「本当にごめんなさい! あたくしが余計なことを言ったせいで……!」
かつてはつまらなそうにマニキュアを眺めていた彼女は、今夜は深々と頭を下げた。
「勘違い男のこと、あたくしも思いっきりバカにしてやりたかったのよ。だってあなた、嘘みたいにカッコよかったから。まさかあんなことになるなんて思わなかった。助けてあげたかったのに怖くて、何もしてあげられなくて……!」
はらはらと落ちる涙が、頬に沿って黒い軌跡を描く。伏せられた彼女のまつ毛は、びっくりするほど黒々と長かった。
「泣かないでください、
浅黒い手が、ハンカチでそっと涙を拭った。
「謝ってもらうことなんてひとつもありません。あなたがマクファーソンさまの財布を見つけてくれたおかげで、あたしの友だちは腕を落とされずに済んだんですから」
本心だった。むしろ名も知らぬ三等国民の女の子のことを半年近くも心配してくれていたのだと思うと、胸がぽかぽかと温かいほど。「ご指摘のとおりほら、顔もパーフェクトに元通りだし」とウインクすれば、ハンカチを受け取って鼻を
「あなたその服、聖歌隊なの?」
「そうです。今はちょっとしたサボり」
「わかるわ、うんざりするわよね。どこを向いても時代錯誤で、まるでおばあちゃんの家みたいで」
おばあちゃんの家? ここが? エルが知っているそれはミルクの匂いが立ち込めた白樺造りの素朴な屋敷で、ホール・オデオンとはおよそ真逆といっていい建築物である。
動揺を顔に出す前に、「ねえ!」と手首を掴まれた。
「罪滅ぼしにはならないけどあたくし、ちょっといいもの持っていてよ。せっかくの
泣き止んだ彼女の足取りは軽かった。エルの返答を待たず、駆けるようにして廊下を抜けて、絨毯の敷き詰められた階段を上がる。二階への入口には屈強なドアマンが配置されていたが、ブロンドの令嬢がツンと顎を上げれば、恭しく両開きのドアを開けた。
後ろにくっついているトゥラン娘には、たっぷり不審げな視線を注ぎながら。
「総督府の中なら顔パスなの。あたくしと一緒にいる限り、誰も文句なんて言わないわ」
セキュリティエリアの先には、部屋番号が記されたいくつもの扉。一室の前で足を止めた彼女は、慣れた手つきで鍵を回した。
まず目に入るのは、鮮やかなフューシャピンクのソファーだった。カラフルなクッションが溢れんばかりのベッドの天蓋は黒いレース、床のラグはシマウマの毛皮。落ち着いた若草色の壁だけは他の部屋と同じかと思われたが、それにも牙を剥き出したトラの絵画が飾られている。
「お嬢さま……ここは?」
ゲストルームにしてはなんというか、趣味が強い。ロンググローブを放り投げて勝手知ったる様子でトランクを引っ掻き回す背中に尋ねると、「お嬢さまなんてご身分じゃないわ。今はみんな平民よ」と笑った。
「ここはあたくし専用の休憩室。もちろん全員に用意されてるわけじゃなくて、あれがないこれがないって面倒くさい客にだけ」
ホール・オデオンに専用の部屋を持つなど、超VIPである。何者⁉ と書いてある顔は歯牙にも掛けず、ドレッサーの前の椅子に座らされた。
ふわりと襟元にかけられたのは、黒いケープ。様々な形状をしたふわふわのブラシが、小気味よい音を立てて白い右手に並ぶ。
「まずはメイク、それからヘアセット。粉がつくから衣装は最後よ」
「あの!」ハッキリ聞かないとダメそうだ。大きな鏡の中で、状況を飲み込めない翠眼が訝しげに細められた。「何をされるんですか?」
「あなた名前は?」
「エ、エルです」
「それで全部なの?」液体の入ったガラス瓶を振りながらぐるりと目を回す。「短くて羨ましいわ! あたくしはパトリシア。そのあとはうんざりするほど長い苗字が続くの。トレイシーって呼んで頂戴」
鏡の外周につけられたいくつもの丸い電灯が突然光り、眩しくて顔をしかめた。こんな煌々とした灯りを浴びるのは初めてだ。
両眼のサファイアを煌めかせたトレイシーは、ケープの肩に手を置いて悪戯っぽく微笑んだ。「エル。これからあなたを、とびきりのレディにドレスアップするわ」
小麦色の頬にパッと朱が散った。「え⁉」
「言っておくけど、ホールのおばさまたちみたいなドレスは期待しないで頂戴。あんなのあたくしひとりじゃ着付けられないわ。被って終わりの気楽なやつよ」
どうしようもなく胸が高鳴った。エルが知っている衣服はトリカの民族衣装、ニルノースク王国のエプロンワンピース、あとはギムナジウムの制服と作業着と寝間着だけ。ドレスなんて名がつくものは、古紙回収で拾ったファッション誌でしかお目にかかったことがない。
消えかけのガスランタンの下、こっそり回し読みしてため息をついたあの衣装に、自分が袖を通すことができるのだろうか? そんないいことが、本当に起きる?
薔薇の香りがする水がパッティングされて、とろりとしたクリームを塗り込まれた。気持ちがよくて目を閉じると、「そのまま瞑ってて」と何かわからないものが指先で叩き込まれていく。
「うーん」ふわふわの毛先で頬に触れながら、トレイシーは首を傾げた。「このお肌じゃ、ファンデーションはちょっとでいいわね。アイシャドウは何がいいかしら。エルあなた、恋とかしてる?」
「ぅえ⁉」
瞑っていろと言われた目を早々に開けてしまった。恋。……恋? 恋⁉ 言葉を探して真っ赤な顔でパクパクすれば、トレイシーは微笑ましげにニンマリした。「可愛らしいこと」
「その方、今日の
「う!」
「いるのね。ギムナジウムの男の子? ヴァルト人の先生? それともまさかのベルチェスター人だったり?」
「えああ……っ!」
「まあ、ベルチェスターの男なの! 評議会は〜……おじさまばかりよね。じゃあ駐屯地の軍人かしら?」
「んんん!」
「軍人ね!」トレイシーははしゃいだ。「すごくなくて⁉ あたくしのプロファイリング能力!
あっという間にネタを上げられてしまったエルは肩を落とした。ホシだとしたらちょろすぎる。
「ならその人、気楽な夜は今日で最後ね。今夜のあなたを見たらもう、頭がいっぱいになるに違いないもの」
恋する少女にトレイシーが選んだのは、薔薇水晶とゴールドのグリッター。煌めくラメをトントンと瞼に散らしながら、令嬢は歌うようだった。「お母さまがいつも言ってるわ。女の拳は無力だけれど、眼差しひとつで男を殺すことができるんだって」
「本当?」エルはうなだれたまま尋ねた。「絶世の美女じゃなくても?」
「当たり前じゃない」
ルージュをひいた唇は断言した。
「自分を美しいのだと信じる者に、世界は必ずひれ伏すわ」
見慣れた自分の顔は、あっという間に様変わりした。言葉もなく見入っていれば、トレイシーは「見事なジンジャーブロンドだこと!」とくせ毛の頭も難なく支配下に置いた。
「羨ましいわ、燃えるような赤い巻き毛。あたくしも金髪なんかより、真っ黒や真っ赤がよかった。嫌すぎて短く切っちゃったわ」
しかし今日の彼女の髪型は、長髪をエレガントに巻き上げたスタイルである。不思議そうに見上げていれば、「これウィッグ」と指先で頭頂部を示した。
「うるさい決まりがあるのよ、舞踏会のドレスコードって。前世紀のおばあさんみたいな格好をしてる一階ホールの女の子たちも、普段はパンツスタイルで自転車乗って暮らしてるわよ」
エルはなんだか切なくなった。自分たちにはお姫さまのごとく映った憧れのファッションは、彼女たちからすれば親に強いられて着せられる時代遅れの装束に過ぎないらしい。
「苦しくて大嫌いなの、あの忌々しいコルセットってやつ」と言いながらローブごとエルの衣服をひん剥いたトレイシーは、悲鳴を上げた。「なんてこと!」……ちなみに不意打ちで服を脱がされたエルも当然叫んだが、マイペースな令嬢には届かなかった。
背中には五つ、腰には七つのホック。十三本の金属ワイヤーが通された、悪名高き前世紀の遺物、二部式コルセット。
時は新世紀になって久しい。こんな化石を身につけているのはおばあちゃんくらいのものだったが、クープ評議会は一律で十一歳からのギムナジウム女子に着用を強制した。
深呼吸もできない状態だというのに、体育では持久走をやらされるわ工場労働に駆り出されるわで、少女たちはしばしば突発的な失神や嘔吐に見舞われた。ウエストの細さなんて程々でいいから好きなだけ肺の換気をさせてくれというのが、全員の願いである。
評議会が『貞淑な乙女への道しるべ』として配布するこの下着を、オフィーリアは『変態どもの
「このブカブカのローブを着るのに、ウエストを細くする意味があって⁉」
「一ピトもないです」エルはうつろな顔で首を振った。「評議会からの命令で」
「少女性愛者のグロテスクな趣味の押し付けだわ」
ドブネズミの群れでも見るような顔をして、トレイシーはオフィーリアと全く同じことを言った。
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