第39話 音楽は止まない(2)

「キースリング伯爵家の御子息たちですわね? わたくしビートン子爵家のレベッカですわ」


 きつい香水に、うっかり咳き込みそうになる。


 人混みを割ってロスの前に現れたのは、未婚女性の目付役シャペロン。後ろには扇で顔を隠した女子が二名。だから嫌だったのだ、と氷の顔面はため息を飲み込んだ。


 ただでさえ目立つユージンと舞踏会ボールでただ突っ立っているなど、肉食獣の檻でぼけっとしているウサギのようなもの。相手からすれば皿に盛られたおやつでしかない。


 とはいえ、伯爵家の子息という呼称の示す該当者は横の男だけである。無言で後ろに下がったロスに、面倒事を押し付けられたことを悟ったユージンは礼儀正しく微笑んだ。


「ごきげんようビートン夫人。お会いできて嬉しいです」薄情な従兄弟が逃げ出さないよう、仲良く腕も組んでおく。


「わたしたちに何か?」


「いえね、こんなに素晴らしい殿方たちが一曲も踊らないなんて、円舞クランツへの冒涜だと思いまして!」


 はち切れそうなロンググローブが、親しげに中空を叩いた。


 爵位が下の者からの挨拶は、基礎的なマナー違反である。だが社交の場においては女は男より上の身分とされ、目付役シャペロンとして年配女性が年若い青年に話しかける場合は、さらに大目に見られた。


 そもそも連邦共和国は、百年以上前に貴族制を廃止している。伯爵だの子爵だのといった地位はとうに法的根拠を失い、皆お揃いの平民であるはずだった。


 だが今宵ホール・オベロンに集まったのは、当然のように自らの家名を爵位つきで名乗る人々ばかりである。


「見れば見るほど、目の保養ですわあ。こんなに見目麗しいのにその上、ブレイクの隊長と副隊長だなんて! おふたりとも王子さまみたいだって、花嫁フィニッシング学校スクールでは噂の的ですのよ! ねえあなたたち?」


 水を向けられて、真っ赤になった少女たちが頷いた。耳まで頬紅を塗っているので、実際に赤面しているかはわからない。


 青年たちは「光栄です」「恐れ入ります」と紳士らしい会釈を返した。何が望みか察しているはずなのに、口先の謝意を示すばかりで動く気はさらさらないという態度。母親の眼光が剣呑に光る。


 おい、こっちの要求は理解しているだろうが。それともその形がいいオツムは飾りか? ――にこやかに微笑んでいる壮年の淑女の顔面から、野太い恫喝の幻聴が聞こえてくる。


 いいか、さっさとうちの娘をダンスに誘え……そのあとは喫茶室までエスコートだ……ダンスホールへの送りまで絶対にやってもらうからな……ほら! 早く誘わんかい! ほら!


「……」


 そつのない表情を保った青年将校たちは、グローブの下の手のひらに、じんわりと汗を掻いた。


 あくまで顔面で訴えるだけで、レベッカから切り出さないのには理由がある。どれほど踊りたくても、レディー側からダンスを申し込むというのは、この上なく下品なことなのだ。誘う権利があるのはただ、紳士だけ。


 とはいえ男のほうもここで母親の顔圧に折れてしまえば、ダンスひとつで話が終わるわけがないことを知っている。礼の手紙、後日の訪問の約束、ディナーのセッティングなど、その後に無数のステップが続くのだ。行き着く先はもちろん、おめでたいご成婚である。


 捕まえたい女と逃げたい男の攻防。舞踏会とは、淑女たちによる紳士狩り大会のことでもあった。


「ねえちょっと、あちら!」


「まああ……」


 花形軍人と目付役シャペロンの攻防は、人目を惹いた。抜け駆けさせてなるものかと、各家の母や伯母は壁の花に甘んじている娘の尻を叩く。肩を怒らせて戦闘区域へおもむく女たちの眼光はさながら、敵将を討ち取らんとする古つわもの。


 最悪だ。死んだ魚の目で、ロスはシンプルな感想を抱いた。部屋にいるべきだった。


 参加のきっかけは、狩りのターゲットを分散させてくれというユージンの頼みだった。わざわざ自室に足を運んでの依頼だったが、別にいつも通り断ってもよかったのだ。少し考えてから「まあ……いいですよ」と頷いたら、頼みに来た本人が「今日は槍でも降るのか⁉」と驚いていたくらいなのだから。


 ノコノコやって来た理由はひとつ。クライノート・ギムナジウムの生徒たちが、聖歌隊として参加すると聞いたから。


 守護者として自分は、君主の身の安全を保証する必要がある。吊るしたマントジャケットへと念入りにエチケットブラシを滑らせながら、ロスは懸命に言い聞かせた。彼女の近くに潜入できる機会があるなら活用するのは当然のこと。そうもちろん、守護者として。


 ゆらゆら揺れる軍服の裾を見て、舌を出した愛犬がじゃれついた。いつもみたいに遊んでくれていると判断したのだ。


「D-612、ジャーキー5本だ。それで見逃してくれないか?」


 堅物で知られる若年少佐は、飼い犬相手に大真面目で交渉した。「毛がついた服で登場して、だらしない男だって思われたくないんだ」


 誰に?


 ハウンドがそう訊いたわけもなく、ただ飼い主を見上げて首を傾げただけだったが、「ううっ!」と狼狽うろたえたロスは顔を背けた。


 ……正直、聖歌服を着た彼女を見たかった。「超ド級の骨董品なんです」と肩を落とした姿は可哀想だったが、どんな格好だろうと目に焼き付けておきたいというのが譲れない願いなのだ。酒気を帯びて調子づいた一等国民のボンクラどもが手を出さないよう、キッチリと監視することも外せない。


「あーらナイト夫人ごきげんよう。いったい、どうやってこちらにいらしたのかしら? 提燈祭ラテルネは一流の人々だけが招待される催しだと、わたくし心得ているのですけれど」


「男爵夫人、ごきげんよう。ホホホおかしな質問だこと。もちろん馬車に決まってるじゃない。まさか歩いてきたとでも?」


 濃度が高すぎる香水の匂いに、すでに呼吸は完全に停止させた。ドレスの下で互いに足を蹴飛ばし合うパステルカラーの群れはぼんやりさせておき、代わりに遠い列柱廊の奥、小さな赤毛頭に焦点を合わせる。


 ホールの端に垣間見えた彼女は、やはり可愛かった。ブカブカのローブを着てベレー帽を被って歌うレトロな出で立ちは、天井に描いてある金髪の天使なんかより五億倍愛くるしいと断言できた。


 普段よりいっそう顔色の悪い青年は、前後左右に居並ぶ色とりどりの頭髪たちを見て小さくため息をく。いいなあ……。


 ロスが養父に行かされた寄宿学校は、旧貴族の子弟のみが入学を許される共和国最上級の男子校という、端的に言えば反吐へどが出るタイプの人種を集めた動物園だった。あの肥溜めでの五年間ときたら、完全に消去すると言われても二つ返事でお願いしたいような思い出である。


 もしも奇跡が起きて、彼女と同じ年頃に生まれ直せたら。そうして一緒に、ギムナジウムに通えたなら。


 果たして世界は、どれほど輝いただろうか。


 友だちになろうなんて大それたことは望まない。教室の端から、ふわふわのジンジャーブロンドの後頭部を眺めているだけでいい。いつも姿勢のいい背中、はにかんで紅潮する頬、歌うように語る声を覚えて大人になれたなら、きっとこんな自分も今より、恥の少ない人間だったはずだ。


 だが、先に大人になったからこそできることもあるのだと、現実逃避に幕を下ろす慰めもいつものこと。つまらない、時には吐き気を催すような仕事の積み重ね。それでも子どもたちにかかる火の粉を、多少は払うことができる立場を手に入れた。


 せめて本当に成し遂げたいことだけは、最期に果たすことができるだろう。


「ナイト夫人、あなた若いバーレスク役者に入れ揚げているってもっぱらの噂ですのよ。わたくしだったら恥ずかしくて、こんな場所には出てこられませんわあ」


「あたくしは芸術を愛しているだけですわ、花にも水を与えなければ枯れてしまいますもの。それより男爵夫人、ご主人の連れ子が寄宿舎で刃傷沙汰を起こしたとか! 人間に似てるトラを養育してるだなんてまあ〜慈悲深いこと! 家中のカーテンがズタズタにされる前にお帰りになられたら?」


「ご心配には及びませんわあ⁉ 夫人こそその高尚な芸術支援活動、お姑さんはどこまでご存知なのかしら⁉」


 青年将校ふたりを囲んだ女たちの集団は、早くも貴婦人の仮面をかなぐり捨てた小競り合いへと発展していた。彼女たちの気性を考えれば自然な展開である。ユージンは何とか収集をつけようと「ご夫人方、落ち着いて」「怖い顔をしては美貌が台無しです」と言葉を尽くしたが、何もかも焼け石に水だった。


 助けを求めて、死角で部下を何度も小突く。自分はクープのスターとしてのイメージを保たなくてはならないが、この男なら絶対零度の一言を吐くことができるのだ。


 十三度目の肘鉄で、ロスもようやく折れた。仕方がない、仕事に戻ろう。もうひと目見たくて視線を巡らせれば、一瞬で見出せるはずの鮮やかな赤毛頭はしかし、忽然と消え失せていた。


 バカな。今さっきまで、いつも一緒にいる仲良しの少女たちに囲まれていたはずなのに。


 素早い目視を走らせて、聖歌隊の列のどこにもエルがいないのだと確かめた瞬間、銀髪の脳内からはドレスを纏った狩人たちも、親密そうに見えて緊張をはらんだ上官との関係も、瞬く間に霧散した。


「急用が発生したので失礼します」


 衝撃の辞去が申し立てられたのは、男爵夫人が相手のカツラを剥ぎ取り、ナイト夫人がパールのネックレスを両腕で引き千切った時。


「は……」ユージンの脳は、二秒ほど理解を拒んだ。「はあぁあ⁉」


「お前っ……人の心とかないのか⁉」


 ジャケットの腕をひっしと掴んで絶叫する姿は、好青年ぶりを欠かさないユージン・キースリングには珍しい必死の懇願だったが、彼の従兄弟からすれば単なる蚊の羽音だった。


 顔も向けずに振り払い、鬼気迫る形相を作ることでパステルカラーの包囲網も難なく割って、列柱廊までの最短距離を大股歩きで目指した。


 彼が渡ろうとするのは、大きくうねる円舞クランツの海。

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