第30話 キツネとアップルパイ(4)

「ツェツィーリエ・リューゲンよ。ツェツィーでいいわ」


「あ、エルです! どうも!」


 初めてのまともな挨拶に、拍子抜けしつつ握手する。ヴァルト女性にしては小柄で華奢だが、茶系の髪と瞳は旧帝国人らしい色彩。


「こんな小さな女の子がトゥランの王さまだなんて。不思議なめぐり合わせもあるものね」


 聖母という大層なあだ名を持つ彼女は、おっとりと微笑んだ。


「あの、マザーというのは?」


「ああ、やだわ!」照れくさそうな笑みも、コロコロと鈴を鳴らすよう。「わたしの実家、ちょっとした商会をやっててね。リューゲン商会の伝手で隠れ街ハイドアウトに燃料とか生活用品とかを調達していたら、いつの間にか聖母だ女神だって崇められるようになっちゃって。慕ってもらえるのは嬉しいんだけど、なんていうか……圧がすごくて」


 どうやらこの美女も、預かり知らぬうちに神輿みこしに乗せられた仲間であるらしい。「それはお気の毒でしたね」とエルは顔面いっぱいの同情を示した。


「トゥール、使えるようになったかい⁉」


「えーっと……」


 ワクワクとしたギヴの問いには言い淀んだ。


 使えるようになっているわけがない。何せここでの授業といえば、頭上に重ねた本が落ちないように歩いたり蓄音機から流れる古典音楽クラシックの曲名を当てたりと、およそ王の力とは無関係なことばかり。こんなことしてる場合じゃないと毎日急かしているが、口に甘味を放り込まれれば電飾エレクトリカル行列パレードが開催されて屈服せざるを得ない、悲しい身体であった。


 美味いものほど、よく効く躾はない。知ってか知らずか、最果ての地で姉が語った教えをその弟は無造作に実践し、エルは効果の程を骨身に沁みて実感していた。


「……徴収の、時が来た!」


 覚悟のうえで歌えば、相変わらず容赦のない静電気がバチィン! と弾ける。宙を舞った鍵をロスが受け止め、涙目で腕をさするエルにすかさず返した。


「本当だ! いやいやしてるなあ」ギヴは目を丸くした。


「でしょ? どうすればいいか全然わからないんです」


「なあマザー、ちょっと未来を見てみてくれよ」


「はあ?」


 何を寝ぼけたことを言い出すのだろう? エルは呆れた。「ギヴさん、しょうもないアプローチはやめましょう。興味ない男にノリツッコミを強いられるツェツィーさんが気の毒です。花とか贈った方が万倍いいわ」


「おれを何だと思ってるんだい?」ませた年下から下心を疑われた青年は潔白を主張した。


「ガチな話さ。下水道の抜き打ち調査も隠れ街ハイドアウトでボヤが起きることも、マザーが予言して未然に危険を回避したんだ。すごいだろ! 彼女ならきっと、どうやって目覚めればいいのかも教えてくれるはずさ。なんせ未来が見えるんだ!」


 確かにすごい。エルは驚嘆の眼差しでツェツィーを見つめた。


 先日までなら詐欺を疑っていたところだが、超常現象を山ほど目の当たりにした身としては今度は予言かと受け入れるだけである。彼女もトゥラン人の祝福と同じような、不思議な力を持っているのだろうか?


 だが当のツェツィーは、「たまたまだって言ってるじゃない!」と否定した。


「確実じゃないし、知りたいからって急にわかるわけじゃないのよ。満月に尋ねて新月に答えを得る、そういうスケール感の話なの。難しいことであればその分、時間がかかるわ」


「ここじゃあ月はないからなあ。でも、空さえ見えればわかるんだろ?」


「まあ、絶対とは言い切れないけど……」


「不要です」


 浮足立った会話を制したのは、氷のような声。


「トゥーラニアの運命を知るのはめぐる天輪のみ。導きのトゥールと王との結びつきに、余人の助言など何の役にも立ちません。むしろ邪魔です。どうか余計なことは一切、しないで頂けますよう」


 凍てついた銀の双眸は、守護者の怒りをなみなみとたたえていた。


 しかし水を向けられただけのツェツィーが「ごめんなさい……」と小さくなるのを見ていられず、エルは「ロスさん、余計なことを言ったのはギヴさんです」と口を挟んだ。


「悪いのはギヴさんだけです」


「ああ、ギヴが悪いね」


「チンシャするぜ!」


「以後気をつけてください」青年は横顔で冷ややかに言った。


「レッスンは始まったばかり。トゥールが従わないのは、きっとそう……まだ淑女レベルが足りていないから」


「それ今思いついたテキトーな指数ですよね? 騙されませんからね?」


 疑わしく睨む赤毛頭を見るロスの顔は、軽口を叩く表情に戻っていた。頬杖をついて、からかう時の声で尋ねる。「だってエルさん、ポケットに何入れてます?」


 セミの抜け殻やドングリでも入ってるだろうと言いたいのだろうか。失礼な。幼児扱いに眉を寄せながら手を突っ込めば、果たしてポロポロと出てきたのは――乾燥トウモロコシの粒。


「それ……もしかしておやつ?」ギムナジウムの絶望的な食事を心配したツェツィーが、聞きづらそうに尋ねる。


「いいえ……」赤毛頭はうなだれた。「小さな子たちにこしらえてあげた、ポップコーンの不発弾です」


「ど、どうしてそんなものをポケットに……」


 常識的な質問である。これは自分の痛恨のミスだ。エルは唇を噛みながら、この上なく悔しそうに白状した。


「広場で撒いたらハトがすごい寄ってくるから……楽しくて」


「……」


 ロスは何とか、コーチ役としての節度を保とうと努力した。とはいえ淑女教育の持ち物がハトの餌という展開は、彼にも予想外の展開だった。しかもポケットに直入れ。肩の震えは大きくなり、身体が次第に折られていく。


「ふはっ!」


 こらえきれずに吹き出した青年は、目尻に涙を滲ませて大笑いした。ライラとギヴは、とっくにテーブルを打ち叩いている。


「可愛すぎる……!」


 少女は赤い頬を膨らませて大人たちを睨みつけ、それから深いため息を吐いた。


 淑女レベルというふざけた指数が存在するとしたら、確かに最下位であることは間違いない。


「あの、ツェツィーさん!」


 ティーワゴンを押したロスが階下へ消えた束の間。一瞬の隙をついて、エルは華奢な背に駆け寄った。


 ツェツィーはダイニングテーブルを拭こうと、調味料入れを持ち上げたところだった。


「どうしたの?」


「えっと……」


 彼女はどこまで聞いているのだろう。説明に迷いながら、急かされるように胸元からトゥールを取り出した。


 蓮花を模した古めかしいウォードキー。抜ける夏空色の宝石を抱いた、ずしりと重い精巧な黄金。


「あたし、絶対にこれを使えるようにならなくちゃいけないんです。一刻も早く、今すぐにでも。でもやり方が全然わからなくて、途方に暮れてて……。だからロスさんは断っちゃったけど、……未来を見てほしいんです」


 一撃だ。


 自分はどうあっても、一撃を返さねばならない。


 そのために、果ての雪原からここまで歩いてきた。


 導きのトゥールは、やっと手にした武器。めぐる天輪とやらが与えてくれた千載一遇の好機。どんな救いの御手も下りてこない地の底で燦然と輝く、計り知れない可能性を秘めた神々の御業。


「どうすれば使えるようになるのか。……本当に、あたしが王なのか」


 これは、無能が持っていていいものではない。


 追い詰められた焦燥を滲ませた翠の瞳を、ミルクティー色の瞳は気遣きづかわしげに見つめ返した。




 ――聖顕歴イニティウム1920、最果てのトリカ


 ツンドラの大地に高く茂る森はなく、小高い丘から見渡せば氷河の果ての遥かな山脈まで、白銀の世界がどこまでものぞめた。頭上には満天の星々が広がっているがこれでも真昼で、仕事の時間だ。鐘楼の向こうにはポポ橇をひく一群、湖上には氷に穴を空けてマス漁をする村人。小さな赤いケープに気づき大きく振られた手に、両手を振り返す。


 昨日仕掛けたライチョウの罠を見ようと山を登れば、スキーを履いた男たちが斜面を滑り降りてきた。


「おおエル! 我が喜び、レムリア大陸の至宝! 今日もいい朝だ!」


 鼻をくっつけたヨンネラッセからは、クータモ葉巻の匂いがした。


 鼻と鼻をつけるというのはトリカ流の挨拶だ。数ヶ月に及ぶ長い夜の中、果ての人々は陽光の差さない空模様を、いつも「いい朝だ」と褒めた。


「よし、これで三人になった。相棒、これからギングマ狩りだ。斜面の向こうに巣穴を見つけてな」


 親指で背後を示したヨンネラッセに対し、「待て待て待て。三人ってのは、まさかエルまで頭数に? お前、クータモの吸いすぎでとうとう脳みそに煙が回ったみたいだな」とマウノラッセが毒を吐く。ノッポのヨンネと小太りのマウノはともにヘンナの従甥いとこおいで、老人になってもいつも一緒にいる。


「うちのチビかぼちゃが屈強なトリクスに見えるってんならその頭はもうダメだから、ポポヨラのと取り替えてもらったほうがいいぜ。ポポには何のメリットもないけど」


「お前さんには期待しとらんから慌てるな」


「賭けてもいい。里刀自りとじにぶっ飛ばされる」


「平気だって。ただ棒を持って立ってりゃあいいんだ」


 制止もどこ吹く風で、ヨンネラッセは古めかしい圧気発火器ファイアピストンを巧みに使うと咥え葉巻に火をつけた。


 ……結果から言うと、この日の猟は成功した。ただし、大惨事の一歩手前で。

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