第29話 キツネとアップルパイ(3)
畜舎の扉を開けて放牧場へ誘導すれば、腹をすかせたポポヨラは寒空も構わず一目散に駆け出していく。「ホーウ、ホーウ」という
ポポヨラとは、トリカ亜大陸からレムリア大陸北西部のツンドラに分布する
ポポヨラの放牧こそがトリクスの生業だとニルノースク王国などは考えているが、あながち間違いではない。一頭ずつに角税が課され、ポポたちが苔を食む林に森林税を課されても、トリクスたちは腹いっぱいになった鹿たちと野を駆けることを何より愛した。
放牧場とはいっても西の川から東の丘陵辺りまでがなんとなくの境界で、スキーを履いた人間と犬たちがぐるぐると周辺をパトロールしながら、ギングマや雪原オオカミ、クズリといったハンターの襲撃を防ぐ。こんなに散らばってちゃんと戻ってくることがいつも不思議だったが、拍子抜けするくらい簡単だぞとニルファルは教えてくれた。
「拳に塗った塩を舐めさせるんだ。大抵の個体は、三度も舐めさせれば人間から塩がもらえると学ぶ。あとは畜舎に塩塊を置いておけば、こっちが苦労しなくても勝手に帰ってくるようになる」
美味いものほどよく効く躾はないんだと、大雑把なところのある賢者は大笑した。たまに帰ってこないポポもいたが、減ったら減ったで山に行き、新しいのを塩で手懐ければ済む話だった。
身重の個体だけは畜舎から動かないので、なけなしの飼い葉を置いてあげる。六歳になるメスのポポヨラはエルと同い年で、姉妹と言っても過言ではない親友だった。
「おはようレータ。いい夢見れた?」
声をかけると、ふわふわの柔毛に覆われた頭が甘えて擦り付けられた。
長いまつ毛の下の瞳孔は横長で、頭を傾けるたびに水平の角度を保ち、喫食中であっても320度の視野で外界を捉える。長い夜に覆われるこの時期だけ、ふだん琥珀色の瞳は群青色へと変化した。少ない光を効率的に取り込むために虹彩が変容するのだということも、ニルファルの授業で教えられたことだ。
忘れてしまいそうな朝を思い出させてくれるその色が、エルは好きだった。
「あったかくしていい子にしてるのよ。もうベリー探しや沼地遊びのお転婆はダメ。あなたひとりのからだじゃないんだから」
どこかで耳にした台詞を大人ぶって真似しながらお腹を撫でて、いつものように祈りを込める。
無事に生まれますように。レータとその仔に幸いがありますように。
空気を揺らさない歌が、少女の唇の上だけで奏でられた。
エルは歌うことを禁じられているがそれとは別に、この地には歌ってはならぬとされる歌があった。幾重にも折り重なる旋律は果ての歌、ルートと呼ばれた。
歌詞があるようでないような素朴なハミングは、
「おお臭い臭い! なんてポポヨラ臭い田舎だ!」
ニルノースクの官吏どもは、徴税で村を訪れるたび横柄に振る舞った。
税なら年二回、ポポ
大げさにハンカチを鼻に当て、木彫りの椅子に被せた毛皮を汚らしそうに指先でつまみ、床掘り式の炉を原始人のようだと嘲笑う。帽子を脱いだ村人たちは、何を言われても黙って小さくなっている。
「全く、こんなところで暮らせるやつらの気が知れないな」
「見てみろ! 安っぽい刺繍だ。犬や鳥の柄を好むなんて、幼児か間抜けだけだ!」
こういう時、エルは
孫娘にトリカのおとぎ話を教えてあげようとヘンナが作った刺繍絵巻。オイルランプの仄暗い灯りのもと、皺だらけの手で一年かけてこしらえてくれた宝物。
憤然と立ち上がった少女を、共に秘匿されたニルファルが科学書から顔を上げぬまま、「エル」と押し留めた。
「約束を忘れたか?」
約束。
それはこの家において、犯すべからざる法。
「だってママ! あの人たち、おばあちゃんの刺繍をバカにしたわ!」
「犬と雪原ギツネの区別もつかない阿呆の言うことなんて、
エルは思いっきりぶんむくれた。追っ払っていいと言ってくれたなら、どんな手を使ったって二度と来ないようにしてみせるのに。だが大好きな母と祖母の言いつけは絶対である。少女は納得のいっていない顔をしながらも、樹木粉の袋の上に再び腰を下ろした。
役人たちはありったけの毛皮や干し肉を奪った。さんざんバカにした刺繍絵巻も壁から剥ぎ取ると、丸めて
ヘンナの屋敷の広間から持てる限りの金目のものを取り上げて、彼らは去っていった。
西の壁から、自慢の宝物は失われてしまった。エルはスカートの裾を握りしめ、がらんと広くなった壁を涙目で睨みつけた。「ニルノースクなんて嫌い!」
孫娘を見つめるヘンナは、愛しくて仕方ないという笑い顔で、「今度はもっとすごいのを作ってあげましょうね」と小さな赤毛頭を抱きしめた。
ニルファルは、「さて、見ての通り邪魔者はお帰り遊ばした」と本を開いた。
「負けっぱなしでいるつもりか? 学びの時間だ、エル」
自分を見下ろす賢者の不敵な笑みを、少女もまた生意気に見つめ返した。
果ての民が自由に暮らしていたのは、遥か昔。二百年前、トリカの地はニルノースク王国の支配下となった。
地の底から二重の主人を見上げているのが、最果てのトリカの人々だった。
――
「さあエル陛下、今日はロイヤルミルクティーだよ。それからフレッシュチーズのレモントルテ!」
バッスルドレスを纏った初老の女が、ウインクとともに小花の散った一皿を置く。トゥラン人の彼女の名はライラ。古めかしい装束は本人の趣味ではなく、家主であるゲルハルトによる命らしい。
ヴァルト帝国貴族の末裔であるゲルハルトは、華やかな宮廷文化が咲いた旧世紀のレーベンスタットをこよなく愛した。共和国に帝国が倒され、皇帝も貴族も皆平民身分に落とされてからも、彼はひとり地下の都のコーヒーハウスで、時を止めた烈日の帝国時代を生き続けている。見つかれば即日処刑のトゥラン人地下組織にも、帝国貴族のロールプレイをしている限りは協力的……という、よくよく聞けば、ちょっとどうかした話であった。
もっとも、この酔狂に付き合っているのはライラの他には、温厚な老紳士のカムランだけである。
「おいしすぎる!」
脳天に抜けるほど甘いミルクティーを口にした赤毛頭は涙ぐみ、大人たちはニッコリした。箱庭に閉じ込められた小さな君主においしいものをたくさん教えてあげるということは、彼らの仕事のなかで最も楽しいものである。
「おやおや。こんなに素直な反応をして、淑女教育はどうなっているんだい」
「順調ですよ。階段の上がり方、コートの脱ぎ方、二度目の挨拶、嫌いなものが皿に乗っている時の切り抜け方、皮肉を倍にして返す作法、第三者に気づかれないように無礼者をしこたま蹴飛ばす足技……教えたことは全てパーフェクトに」
「さすが万能のハルヴァハルだねえ!」
ライラは感慨深げに頷いているが、必要性に疑問を投げたいレッスンばかりである。
「このミルク、脱脂粉乳じゃないですね? ケーキも三種混合油脂じゃなくて本物のバターだし……どこでこんな食材手に入れてるんですか? 貴重なものなんじゃ?」
「子どもはそんなこと気にしなくてよろしい」
自分もほんの若造でしかない青年は、ピシャリと撥ねつけた。冷たそうに見せたつもりでいながら、「エルさんはお腹いっぱい食べていればいいんです」と見つめる顔は、この上なく満足げであった。
ズダダダダ! と、部屋の外でだれかが階段を滑り落ちた。三人が顔を見合わせると、ややあってバタバタと駆け上がるやかましい足音が続く。
「陛下が来てるって⁉」
「エルさんです」
「エル!」
扉から顔を出したのは、腕が吹っ飛ぶという鮮烈な初対面をお見舞いしたギヴ青年。
「マザーを連れてきたぜ!」
「今レッスン中なんですが?」
不機嫌そうなロスにも構わず、ギヴは大きく背後を示した。
「紹介する! 地下帝国の
苦笑いで現れたのは白い肌に柔らかな栗色の髪、ミルクティー色の瞳を持つ、鈴蘭のように可憐な女性。
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