第2話 世界は王を待っている(2)

『ひょっとして、キングストンにいるあのプディングのことを言ってるのか?』


 鼻を鳴らした嘲笑が、気が抜けたように返された。


『諸君らとの間には、もうとっくに勝負はついているものと思っていたが。二戦目をしたいというのであれば、別に好きにしてくれて構わんぞ。切り分けられるだけの肉塊を総帥にして戦争をしようだなんて、ジョーク好きな国民性にはまったく恐れ入るな……』


 拡声器の向こうで、男たちは声を上げて笑った。


 クレーンによって、三本の赤い鎖が引き上げられていく。瀕死のふたりから垂れた血が雪に跡をつけ、青年は足をバタつかせてもがいた。


「諦めるな……」


 瞬く間に鬱血する首の激痛と窒息に抗いながら、彼は言った。


 壁上に吊られた男と子どもたちには20マルト近い距離があり、器官を閉塞された声は虫の息で、到底聞こえるはずがなかった。だが彼らトゥランの民は、人間離れした聴力を持っていた。視力も優れていた。


 血泡を噴く唇が語ることを、翠の瞳たちは聞き分けた。


「信じるんだ。おれたちには、王がいる。必ず、救いに来る……!」


 それは、寝物語で親が聞かせてくれたおとぎ話のことだった。三等国民と呼ばれるようになって久しい新世紀、いくら七歳児でもそんな子供だましのメルヘンは信じない。


 だが吊るされてなお今際いまわきわに言い残そうとする姿は、大人たちがそれを本当に信じていたのだということを雄弁に語っていた。そうでなければいったい誰が、今にも締め殺されようとされる時に、誇らしげな笑みを浮かべることができるだろうか?


 あれはおとぎ話ではなかったのだ。


 王の言い伝えはこの日、伝説から約束に姿を変えた。彼らにとって約束とはすなわち、めぐる天輪との契約である。


 契約。三千年の長きに渡って、トゥランをトゥランたらしめてきた所以ゆえん


 隊列を先導する警官隊は微動だにしなかった。身の程知らずのテロリストどもの無様な死に様を、新しい虜囚どもにしかと見せつける腹づもりらしい。満足げにコーヒーを啜る音が拡声器から響く。単に、嗜虐趣味を持つ上役たちの趣向に合わせてのことかもしれなかった。


 高所から突き落とされた場合と異なり、吊り上げられる形式の絞首刑は、長く苦しむ。機銃掃射を受けたふたりもまだ息があった。もがいていた足の動きが小さくなっていき、苦しげに舌を出す青年に耐えきれず、数人の子どもがひざまずいて嘔吐した。


 銃声は雪空に三発、立て続けに轟いた。


 子どもたちや警官隊のはるか後方、300マルトは離れた位置から放たれたそれは、処刑台の人々の心臓をあやまたず撃ち抜いた。


『……何の真似だ!』


 あっという間に天に召された獲物の姿に、スピーカーは激怒した。


「こちらのセリフです」


 霧の中、漆黒の軍服を身に着けた青年が大股で歩む。


 雪に溶けそうな銀の髪を軍帽の下で束ねた彼の背後には、同じ制服の軍人たちが従っていた。傍らには犬と呼ぶには奇妙に大きな、歪な白い動物が寄り添う。


 青年は煙を出すライフルを右手に下げ、黒手袋を嵌めた左手でチタンフレームのメガネのブリッジに触れた。メガネの下には端正な顔貌かおを斜めに切り下げるように、額から頬にかけて稲妻を思わせる傷が走る。


「クレーン式絞首刑の死亡までの所要時間は平均十分。楽しまれるならおひとりでどうぞ。このあとの新入生のタイムテーブルは分刻みで決まっています」


『誰に向かって口を利いている! わたしは高等文官だぞ!』


「でしょうね、警官隊に命令を出す権限をお持ちのようですから。いずれの高等文官かは存じ上げませんが、規則は規則です」


『クソ! 番犬ごときが偉そうに!』


 ダン! と机を叩く衝撃で、頭上の拡声器がハウリングした。


『ご立派なブレイク部隊員に告ぐ! 栄光の連邦共和国に火炎瓶を投げつけた害獣は四匹のはずだが、壁には三匹しか吊るされていない! その自慢のを使って、逃げたネズミを捕まえろ!』


「承知しました。が、貴官がハウンドを野良犬扱いしたことは司令部に報告させていただきます」


 姿勢よく後ろ手を組むと、足先で地面を叩いた。靴底に入れた鉄板が硬質な音を鳴らす。


 お座りシットの姿勢からハウンドは即座に立ち上がり、獲物を探して長い首を巡らせた。彼の後ろに居並ぶ部下たちも従う。


『害獣ども! グズグズするな、とっとと進め! ――ゲートを開け!』


 命令に従い、三重の鉄格子のゲートが左右に開いた。壁上から点々と滴った血はインクのようにハッキリと雪に映え、何かの地図や記号のような跡を残した。


 くぐり抜ける時、子どもたちはもう顔を上げなかった。ただ息を殺し、世界のどこにも焦点を合わせないように、少し遠くの地面をぼんやりと見ることに集中した。


 残酷なものをこれ以上、自分の脳に刻みつけることがないように。


 ――勤労せよ! きみには自由が待っている。ベルチェスター連邦共和国に自由と栄光あれ!


 誰もがろくに目を通さなかった頭上のアーチには、公用語でこのように記されていた。




 壁外のレーベンスタットを、息を切らして青年が駆ける。たったひとり生き残った年若いテロリストは、捜索隊に追われて絶体絶命の状況だった。


 目立つ翠の瞳は色眼鏡サングラスで隠したが、浅黒い肌はどうしようもない。街の住人たちが起き出せばたちまち通報されて、壁に吊るされた仲間の隣に並ぶことになるだろう。


 壁で行き止まりの路地へ飛び込んだ瞬間、こちらへと大股で近づく足音がトゥランの聴覚に聞こえた。


 まさかと振り向いた彼は、雪の路上に残る自分の血痕に今更気がついた。迂闊うかつさに天を仰ぐ。


「……いいぜ。来るなら来い! 誇り高きトゥーラニアの生き様、見せてやるよ!」


 武器はもう出し尽くした。あとに残っているのはこの拳だけという、笑いしかない英雄的状況である。


 地元武術の構えを取った青年は、路地に姿を表した漆黒の隊服を見てさらに強く親指を握り込んだ。野郎、ハウンドまで連れていやがる。


 だがサングラスの奥で、翠眼はふと瞬きをする。


「あれ? あんた、もしかして……」


 軍帽を被った銀髪の青年は、何に勘づいたかわかっている様子だった。黒手袋の人差し指を立てて、言葉を制する。


「3マルトほど後方、雪に隠れてしまっていますが、下水道に続く鉄格子があります。老朽化しているので破壊できるかと。地下から隣の市に逃れたら、町で一番古い時計屋に行ってください。きっと店主が助けとなってくれるでしょう」


 サングラスの青年は、一瞬まごついた。


 眼の前の男は、白い肌も服装も、武器も猛獣も全て、憎きベルチェスターの軍人そのものである。だが、その言葉を信じるに足る根拠を彼自身が知っていた。


「……あ、ああ。わかった」


 雪を掻き分けると果たして、指先に鉄格子が触れた。しかし腕の傷は深く、力を込めようとすると流れた血で手のひらが滑る。いくら錆びたオンボロといえど、嵌め込まれた格子を外すことは困難を極めた。


「すみません、配慮が足りませんでした」


 力む青年の肩に黒グローブの指先が触れる。


「下がっていてください。D-612」


 呼びかけたのは、傍らの犬に対してだった。顔面の全てが長い毛に覆われた白い獣は、歪なボルゾイのように細長い頭部を傾げ、主人の意を正確に理解した。


 前脚を伸ばして、五本の指で格子を掴む。パキリと音を立て、開封済みのジャムの蓋でも開けるようにあっさりと下水道への扉は破壊された。


「ありがとう! 恩に着る」


 地下へ潜ろうと向けられた背に、「それと、これだけ」と淡々とした声が言い添える。


「まもなく王は目覚めます。次の夏の誕生日、『導きのトゥール』を贈るので。きっとあの鍵が、彼女を導くでしょう」


 振り向いたサングラスが、まじまじと青年を見上げた。


「……ハルヴァハリヤ・ハルヴァハルムー!」


 血まみれの両手が、雪空に大きなキスを投げた。


「今日はいい日だ! 最高だ! 仲間は死んで、弟は奪われたけどそれでも、ああそれでも、嬉しい! 何もかも無駄じゃなかったってことだ。きっとこれから全てが、上手くいくってわけだ!」


 サングラスを外し、滲んだ涙を拭う。


「じゃああんたが守護者なんだな。しかし先にトゥールを渡すっていうのは……守護の律を破るつもりか?」


「本意ではありませんが、やむを得ないんです。おれもこう見えてもう、背中が真っ白で」


 青年は両手を広げて肩を竦めた。「来年の誕生日まではたないでしょう」


「ああそんな……可哀想に。まだ若いってのに」


 サングラスの青年は顔を曇らせ、メガネの青年は「ええですが、きっと全て上手くいきます。あなたの言う通りに」と頷いた。


「そうだろう。間違いない。だっておれたちのハルヴァハルだ」


 彼は今度こそ、背を向けて去ろうとした。だが、「すまん。これはただの好奇心なんだが」ともう一度振り向く。


「さっきあんた、彼女と言ったな。……王は女性か? どんなお人だ?」


 問いかけを受け止めた青年の白皙の顔貌かおに、じわじわと色が滲む。


 凍てついた氷から雪が剥がれるようなそれは、自慢したくて仕方がない宝物について、よくぞ聞いてくれたという笑みだった。


「とっても元気で賢い子です。もちろん何をやっても一番ですが、それは万能の王ハルヴァハルだからではなく、彼女自身の努力の賜物。愛情深くて勇敢な姿を見れば、どんな捻くれ者だって魅了されずにいられません。トゥーラニアどころか大陸全土の民衆を熱狂させるに間違いない……まさに、銀河一キュートな女の子です」


 スラスラと繰り出されたのは、正気の沙汰ではない大賛辞。あまりの盛り具合にジョークなのか、それとも守護者のメガネは曇っているのでないかということも疑われる。


 だが誇らしげに胸を張った青年将校の微笑は、心から信じているのだということを雄弁に語っていた。


「銀河一キュートな女の子⁉」


 サングラスは素っ頓狂な声を上げた。


「気に入りませんか?」


「まさか! その逆だよ!」


 縁に片手をついて、血を流した青年は腹を抱えて笑った。


「だって物語の結末には、プリティーな女の子がちっちゃな拳でクソッタレのベルチェスターをぶっ飛ばしてくれるってことだろ? ハッピーエンドだ。おれたち民衆は拍手喝采、スタンディングオベーションってわけだ! これが最高じゃなくて何なんだよ、なあ⁉」


 目尻に滲んだのは笑い泣きの涙だった。


「会えてよかった! あんたの最期まで恵みの雲が共にあらんことを、兄弟」


「あなたの行く先が恵みの雲と共にあらんことを、兄弟」


 逃亡者の姿が消えるのを確かめて、鉄格子は再び元の位置に戻された。


 北国に静かに降り積もる雪は、四人目のテロリストの生存の痕跡を綺麗さっぱり覆い隠した。

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