第1部

第1章

第1話 世界は王を待っている(1)

 <それ>はいたるところで稼働している。中断することなく、あるいは断続的に。<それ>は呼吸し、過熱し、食べる。<それ>は排便し、愛撫する。<それ>と呼んでしまったことは、何という誤謬だろう。いたるところに機械があるのだ。

 ──『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ

 


 冷たい霧の立ち込めた終着駅に響くブレーキ音は、激昂した怪物の絶叫のようだった。腹いっぱいに獲物を収めた貨物列車は、石炭の煙を吐き出しながら停止した。


 モスグリーンのコンテナの錠が下ろされ、警官隊の手によって扉が開かれる。


『整列しろ、害獣ども!』


 天井の拡声器から、半円型の鉄道屋根トレイン・シェイドに覆われたプラットフォームに怒号が響く。


 よろめきながら降車したのは、幼い子どもたち。


 年はみな七歳。毛糸玉のように色とりどりの髪に浅黒い肌、お揃いの翠の瞳。


 数日間輸送されたコンテナの中にはベッドはおろか椅子もなく、与えられたのは少量の水とビスケット、日に一回のトイレ休憩だけで、すっかり憔悴した彼らは嘔吐と失禁で汚した華やかな装束を足に絡ませながら、休止中の改札を抜けて駅前広場に並んだ。


 皆、新年の晴れ着姿だった。


 ここは北緯52度。レムリア大陸渡州としゅう八国はちこくの最北、ヴァルト州の都レーベンスタット。


 顕現祭エピファニーを終えたばかりの厳寒の早朝は見渡す限りの雪景色で、外気に晒された鼻や手足がどんどん赤くかじかんでいく。


 警官隊は子どもたちから羽付き帽、コインの首飾り、ビーズのピアス、バングル、金糸の縫われた外套を剥ぎ取った。これより先、貴重品の持ち込みは認められていない。グローブをした大きな手が伸び、少女が抱きしめたぬいぐるみを取り上げた。


「あっ……!」


 母が持たせてくれた大鷲おおわしの友だちは、足跡で汚れた雪の向こうへ放り投げられた。取りに行こうとすることは、ダークグレーの隊服を身に着けた警官たちの施条銃ライフルと着剣したその切っ先が押し留めた。


 小さな肩がブルブルと震え、すすりきれない鼻水が滴り落ちる。


『ようこそ、レーベンスタット・箱庭クープへ!』


 拡声器の声は、いささかの好意も労いも滲ませなかった。


『貴様らは幸運だ。この壁の中では、正当なる一等国民としての教育を受けることができる。その下品な頭に染み付いた汚らわしい三等国の習性は、人類のために浄化されねばならない。勉学に励み、勤労し、共和国のために身を捧げるのが貴様らの務め。晴れて立派なベルチェスター国民となれば、大手を振ってこのゲートから外に出ることができるであろう!』


 嘘だ。


 いくつもの翠の瞳が、痛みに歪んだ表情でスピーカーを見上げた。


 兄さんは帰ってこなかった。姉さんも帰ってこなかった。


 知っている限り全ての家族で、この貨物車に連れて行かれて戻ってきた子どもはいないのだ。ただのひとりも。


 赤い鼻先に雪が散る。


 上腕の骨のような立ち姿だけを黒々と晒した並木道の先で、眼前にそびえ立つのは灰褐色の壁。高さ25マルトのコンクリート製のそれは、およそ7平方ギールマルトの正六角形を形作り、ここから先を囲っている。中で何が行われているのか、彼らの親も近所の大人も、誰も知らない。それでも幼い子どもを渡すほかないのが、トゥランという民族の宿命さだめであった。


 ベルチェスター連邦共和国は、大陸の覇者である。


 およそ130年前の聖顕歴1792年。当時の共和国書紀ユルスナル・レヴィアトゥールは、『人類黎明計画』を始動した。


 スキームに則り周辺国を併合していく共和国の勢いは、まさに燎原の火のごとし。1838年に大陸の雄トゥラン諸侯州を陥落おとして以来90余年、このレムリア大陸の帝王として君臨していた。


 トゥラン領は戦火で汚染され、住処を失った民は連邦領へと連行された。


 彼らの子どもたちが親元から引き離されるのは、七歳を迎える年の顕現祭エピファニー


 十二夜続く聖餐日ヴァノーチェのお祝いを片付けたその日に連行され、壁で仕切られた管制閉鎖区域の住人となり、連邦式教育を受けながら工場労働に従事する。十六歳の成人試験に合格するその日まで、彼らが壁から出ることは許されない。


 強制収容区域の通称は、箱庭クープ


 子の収奪を拒んだら、問答無用で絞首刑。


 連邦の大陸併合領東部、ヴァルト州の州都レーベンスタットのクープに建つクライノート・ギムナジウムも、そうして寄せ集められた子どもたちが住まう場所であった。

 



「ああ、可哀想にマルヤム! こんな寒い中、怖い思いをさせられて!」


 雪を押し上げたマンホールの隙間、一対のガラスが鈍く反射する。双眼鏡から目を外した男は鼻を啜ると、手袋で顔を拭った。仲間がその肩を叩く。


 レンズ越しに無事を確かめた最愛の我が子は、何日も泣き通した顔をしていた。もう声も出ないほどに疲れ果てた横顔を見れば、今すぐ抱きしめて連れて帰ってやりたかった。


 生まれたばかりのあの子の、指先で包めてしまうほど小さな手を覚えている。七つになってもまだ、小さな手だ。包丁を持たせたこともなければ、マッチをうまく擦ることもできない。いとけないあの手に無情な鞭が跡をつけ、朝から晩まで工場で働かせるのだと思うと、絶叫しそうな憤激が胃の腑から指の先まで行き渡り、頭の芯は冷たく冴えた。


「行くか」


「ああ」


 四人の大人は、それだけの意思疎通で立ち上がった。


 猶予は残されていない。壁の中がどうなっているかは知るよしもないが、ゲートを閉じられてしまえばもう、手を出す機会はないということだけは確かだった。


 砕石舗装の道に、しなる鞭が乾いた音を鳴らす。


 獣の調教と同じ、進めの合図だ。


 身を竦ませて歩き始めた隊列の後方で、突如、鞭よりはるかに大きな打擲音ちょうちゃくおんが響いた。警官隊がライフルを構えて振り向く。


 広場に投げ込まれたのは、火薬を詰めた竹を連結したもの。西方の人々に馴染みのない爆竹は、端から爆ぜてけたたましい音と煙を上げる。


「全隊に告ぐ! 敵襲! 敵襲!」


 声を張る壮年の警官の後頭部を、ハンマーがしたたかに殴り飛ばした。


 テロリストはごく少数だった。中には女もいた。


 携えた武器は鈍器、発煙筒、それからお手製の火炎瓶。トゥラン人の小火器携帯はいずれのブロックでも固く禁じられているので、相応のお粗末なアイテムである。こんな装備でクープ警官隊を相手取ろうという行為は、舐めているといってよかった。だが彼らは当然、大真面目であった。


 命はとうに捨てた。銃弾もサーベルも恐れるに足りない。みぞおちを切っ先で抉られようが腹部を7ピト口径弾が貫通しようが、棍棒を振り回す手が止まることはない。


「行け!」


 頬に血飛沫ちしぶきを走らせた女が叫んだ。


 真っ直ぐに子どもたちを映すのは、彼らと同じ翠の瞳。


「走るんだ!」


 見つめられた少年の背を、力強い声が押す。少女の胸に火が灯る。


 身を翻そうとした足を止めたのは、けたたましい機銃掃射だった。


 上空から降り注ぐ小口径弾の掃射時間は五秒にも満たなかったが、子どもたちの耳には永遠の長さにも思えた。勇ましい女戦士が破壊され、人体よりも襤褸切れへ近い物体となるのは一瞬だった。


 頭上から、凶悪な羽虫の大群のような音がしていた。


 横たえたイチジクに似た無人の攻撃機はテロリストの上体を雑に蜂の巣にすると、口から薬莢をバラバラと吐き出してその銃口を回した。


『害獣が』


 拡声器の声は、忌々しそうに舌打ちした。


『おい、何で殺した?』


 少し遠い別の声がスピーカーから聞こえた。


 それは「どうして殺した?」という人間らしい問いではなく、「何を用いて殺した?」という業務上の質問だった。


『A-12のガトリングだ。まだかろうじて生きている』


『バカか、ここをどこだと思っている。総督府もあるんだぞ。これであの死体が汚染を始めたら、天文学的な費用がかかるだろうが。おいそこのクープ警察ども! クレーンは稼働しているな? 息のあるうちにチェーンで吊るせ!』


 悲鳴のような金属音が響き渡り、壁上から長い影が伸びた。


 補修工事のためにしてはチープな造りのクレーンが、鎌首をもたげる。だらりと伸びた赤黒い鎖を何に使うのか子どもたちには測りかね、火花を上げながら滑り落ちてきたチェーンをただ怯えきった顔で見つめた。警官隊にとってはいつもの仕事で、流れ作業の要領で虫の息となった女を運び、その首に鎖を回した。


 壁上に設置された装置は、クレーン式の絞首刑台。火刑のように燃料の準備や後始末も要さなければ、銃弾の補充も不要。レバーの上げ下げひとつで執行でき、刑後にはそのまま遺体を晒すこともできるという経済的な処刑器具は、本国議会のお気に入りである。


 致命的な掃射を受けたのは女だけではなかった。血反吐を吐く男の髪を掴むと首に掛けた鎖を引いて、もう立つことなどできない彼を無理やり起立させる。


 その姿は、彼の娘の目にも映った。


「……わああああ‼」


 変わり果てた父の姿にほとばしった絶叫は、容赦のない平手打ちで黙らされた。


「覚えているがいい、ベルチェスター! 必ず報いを受けることになる!」


 若い男は鎖に抵抗しながら、頭上を睨みつけた。


「おれたちの王が、この暴虐を許さない!」

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