白い花に朱を添えて

宵町いつか

第1話

 自分の心音しか聞こえないほど静かなマンションの一室。くるみの木で作られた可愛らしい小さな椅子に座りながら、ぼんやりと景色を見ていた。

 私に着せられているのは季節外れの純白の半袖ワンピース。腰にはブラウンのベルトがアクセントとして存在している。それがお腹をひしひしと圧迫していた。

 夕焼けがワンピースと同じ色のレースカーテンを通り抜け、座りながらキャンバスに向かって油絵を描いている長髪の少女を幻想的に照らし出していた。暖かな色が彼女の不健康なほど白い肌を薄く、人間の色に色づけている。

 少女の足元にはフィキサチーフが転がっていた。先刻までは立っていたが、彼女が足を組み替えていたらいつの間にか倒れていた。しかし彼女はそれに気がついた様子もなく筆を丁寧に動かしてた。

「ねえ」

 私は声をかける。が、彼女はちらりと目を向けただけで、何も返事をしてくれない。

「ねえ」

 もう一度、今度は強く呼びかけると彼女はため息をついた。

「被写体に動かれたら困る」

 ため息をついた拍子に、さらりとした長髪が肩から滑り落ちた。それはまるで一つの芸術作品のように思えた。しかし、そんなことを言えば彼女は機嫌を損ねることは分かっているのであえて言わないでおく。

「でもさ、もう三時間近く景色変わってないんだけど?」

「あとちょっと」

 彼女はそう言ってまた筆を走らせる。ちなみにこの会話はつい三十分ほど前にも行われており、全く同じ返事が返ってきた。もうそろそろ立ち歩きたい。

「はいはい。あとちょっとね」

 私は欠伸をして、また彼女を見つめる。こうやって真剣な眼差しでキャンバスを見つめている彼女を見れるのは私だけの特権だと思うと、やはり嬉しい。このまま独り占めしていたいと思う。

「ねえ」

「んーあとちょっと。我慢して」

 子供をあやすように彼女は甘い声を出す。かわいいな、なんて思いながら私はもう一度話しかけた。

「私って、希里きさとの何?」

 彼女はピタリと止まって、こちらをじっと見る。目をまんまるにしてこちらを見る姿はまるで猫のようで、愛らしかった。

「それ、言わなきゃだめ?」

「もちろん」

 じゃあ、と彼女は椅子の上にパレットと筆を置いて、私に歩み寄ってくる。

 彼女の姿がだんだん近づいてきて、視界いっぱいにきれいな顔が映る。彼女の細い指先が私の栗色に染まった髪の毛をすっと通っていった。

「私の作品、かな」

 にこりと笑う彼女は、まるでこの世のものとは思えないほど美しかった。その黒曜石のような髪に、瞳に、心に、私は囚われているのだ。

「そっか」

 私は彼女を見つめながら言う。しばし見つめ合ったあと、完全に日が落ちきって、彼女の顔が見えなくなった。ただ、暖かな体温だけが、空気を伝って、服の生地越しに伝わってきていた。


 佐城希里さしろきさとと私が出会ったのは、二年前の十一月だった。その頃の私達はまだ高校生だった。希里は大学進学が決まっていて、私はまだ受験真っ最中、とまでは行かなくとも人並みには勉強に励んでいた。

 私と希里が話したのは受験勉強のためにバイトをやめる日だった。

 小さな喫茶店で、常連さんしか来ないような場所だったから、制服を着た希里はとても目立っていた。座っていた席も覚えている。入口から一番遠くて一番見えにくい壁際の席だった。注文はコーヒーと小倉トースト。

 希里はまだ肩口までしか伸びていなかった髪の毛を時折くしゃくしゃさせながらスケッチブックに鉛筆を走らせていた。喫茶店で高校生が絵を描いている、というのは私の記憶に刻みつけるには十分すぎるものだった。

 私が希里の食べた小倉トーストの食器を片付けに彼女の席へ向かった時、急に希里が話しかけてきた。

「ねえ、あなた高校生?」

 絵を描いていたからなんとなく、クールというか気難しそうな人という印象があったから、話しかけられたことに驚いて、可愛らしい声だったことにも驚いた。

「え、あ、はい」

 腐れど喫茶店のホールを二年間は努めていたのに、あたふたしてしまった。頭がこんがらがってしまって、少しの間考える時間が必要だった。

 彼女はそうなんだ、と呟いて髪を耳にかけた。隠れていた左耳の軟骨部分には1つピアスホールがあった。安定しているのか塞がっている様子はない。

 彼女は考える素振りを見せてから、すっとスケッチブックに文字列を書き千切って、私に向けてそれを差し出した。

「はい」

 反射的に受け取った紙切れにはメールアドレスと画像投稿共有サイトのIDが書かれていた。

 受け取ってしまってから、これはいけないだろうと気がついた。けれど眼の前の彼女は何事もなかったかのようにスケッチブックに向き直っていて、とても話しかけられる雰囲気ではなかった。

「あのー」

 私が声をかけてもやはり彼女は反応しなくて、私が机にメアドとIDの書かれた紙をすっと差し出すと、驚いたような表情をしてから、納得したのか渋々といった様子で受け取っていた。

 私はそれを見届けてそそくさと裏へ戻った。そしていつもと変わらずバイトを終えて、辞めた。

 その時は委員会で忙しくて学校から直で来ていたから、制服に着替えて店から出た。

「ねえ、さっきの子」

 希里が話しかけてきたのだ。その時された話を簡潔にまとめると、一目惚れしちゃった。その一言で説明終了されてしまう。

「一回、モデルになってくれない?」

「はい?」

 脳の処理が追いつかずに、脳内が疑問符で埋め尽くされる。そんな私を無視して眼の前の彼女は嬉しそうにぴょんと飛び跳ねて声を弾ませた。

「よし決まり!」

 聞き間違い、というよりも希里の人との関わりの薄さがきっかけで私達の奇妙な関係が始まった。それがなぜか今でも続いている。


 紫煙がまるで狼煙のように夜空に溶けている。

 私は部屋の中からベランダで煙草を吸っている希里を地べたに座りながらぼんやりと見ていた。リビングの真っ白なLEDを背中に受けている希里の姿は今にも消えていきそうな儚さを保っていた。

 希里が灰皿に煙草を押し付けて、部屋に入ってくる。煙草のスモーキーな鼻につく匂いが空気に乗ってやってきて、鼻にこびりつく。

「希里、臭い」

「マーキングだって。マーキング」

 マーキング。その言葉を強調するように繰り返した希里はどこか楽しそうだった。独占欲が溢れた結果だろうか。

「んなものしなくてもいいじゃん」

 私がそういうと、希里はむくれてソファーに寝転がった。むー、と唸るような声が聞こえたかと思うと「それもそうだけど、やっぱマーキングしたほうが特別感っていうか優越感が来るじゃん?」という、彼女の持論が展開された。

「そういうもん?」

「そうそう」

 納得したように頷く希里を見て、私は自分の利き手の右手首を服の上からすっとなぞる。熟れた感情がぞわりと湧き出てきたのがわかった。それを私はまだ知らない振りを続ける。きっと、彼女が気がつくまで何度でも。

「あ、明日バイトだわ」

 ふと思い出して私がぽつりと呟くと、希里は予想外のことが起こったかのような顔をして、手で顔を覆った。

「そうだった……明日居ないから描けないじゃん」

 私は頭の中でシフトを思い出す。確か、朝から昼までだった気がする。多分、その時間は希里が大学だったから入れたはず。

「希里、明日って何限まで入れてるの?」

「えーっと多分三限までだと思う。で、夜からバイト」

「じゃあ、少し出来るじゃん。私、バイト昼までだし」

「でも精神的にきついわ」

 でろんとソファーから腕を垂れ流し、希里は嘆く。前に「芸術家は繊細なの」と、冗談交じりに言っていたことを思い出した。どうやらその言葉は真実を含んでいたらしい。彼女の言葉の真意は図りかねるけど。

「んじゃ、アイスでも買ってきてあげる」

「この時期に?」

「この時期に半袖着せてるやつが何言ってんだ」

 私がそう反対すると、希里は苦笑いを受かべて「あれは仕方ないよね」と、言い訳にも満たない言葉を並べ立てる。

 ため息をついて、立ち上がる。地べたに座っていたからか、おしりが痛い。板が一枚入っているかのような感覚だった。

「アルバイトなんて、辞めちゃえば?」

 彼女がつぶやいた。彼女のささやかな社会への抵抗だった。まだ、青い希望。

「……そうしちゃったら、私達、落ちぶれちゃう」

「これ以上落ちる場所なんて無いでしょ? 私達」

 確かに、そうだ。けれど、私はまだ抗いたいんだ。

「これでも、生まれてくれて良かった、なんて言われたことあるんですよ。……酔いの席だったけどさ」

「酔わないと言えないものなんて、いらないじゃん。ましてや親のセリフなんて」

 彼女は私のすべてを知っている。きっと私よりも知っている。

「希里も、そう言われたでしょ?」

 そして私は彼女のことを彼女以上に知っている。

「そうだったね」

 彼女は完全に体の力を抜いた。だらけきった腕がフローリングに付いた。長袖の服から覗く、青い血管の浮き出た彼女の手首は、見かけによらず私を振り回すには十分すぎる力を持っていた。

 少し袖をめくる。

「綺麗」

 つぶやいて希里はうっすらと笑う。そしていつものように口を開いた。

「やっぱ変な人」

「皆まで言うな」

 そういう、些細な時間が確実に流れていたことは、確かだった。


 バイトが終わって、家に帰る途中シャンプーが切れかかっているのを思い出して、薬局に寄った。希里はそういうのに対してあまりこだわりがないから、必然的に私が身の回りのことをすることになる。希里はせっかく髪質がいいのに、無頓着なのはもったいない。 私がいなければきっと彼女の部屋は一瞬で散らかって、足の踏み場がなくなるだろう。

 家族がいれば、きっとこの感情は味わえなかったと思う。

 私の家は普通とは言い切れないけど、かといって異常といえるほど異常ではなかった。そういう家庭だった。けれどほとんどの家庭と確実に違う所があった。たとえば、父親が家に一銭も金を落とさないことだったり、両親間での会話が全くないことだったり、私と両親との関係があまり芳しくないことだったり。

 少なくとも普通ではなかったことは確かだった。

 彼女と、希里と居られるから、やっと私は普通の感情を抱けるようになったんだ。きっとそうだ。

 いつも使っているシャンプーを買って、ついでにリンスとボディソープも買っておく。昨日約束したからアイスも買っていく。

 思ったよりも重くなってしまったビニール袋を手に持ちながら、私は帰路につく。

 あまりの寒さに一瞬、針が刺さるかのようなささやかな痛みが走る。日常が崩れてしまうような錯覚に似ていた。さっきまで居た薬局で、両親会ってしまうとかそういう、日常が一瞬で崩れ去るような感覚に似ていた。

 私の絶望はいつだって私の頭の中でしか発生しない。今だってそうだ。

 申し訳程度に腕をさすりながら熱を発生させる。大学の講義が終わって暇を持て余しているであろう希里の元へ私は急いだ。

 家につくとやはり希里は暇そうにソファーの上で寝そべっていた。元々は灰色のズボンと上下セットだったはずの薄い桜色の部屋着はいつの間にかバラバラになって、今ではパステルカラーの違うズボンとセットになっている。

「おかえりー」

 気の抜けた希里の声が部屋に響いた。

 机の上に薬局で買った物を置く。バランスを崩したのか、中からドスンと鈍い音がした。

 希里はおもむろにこちらを向いた。少し目が赤くなっている。きっと大学で自信の作品の評価がひどい言われようだったのだろう。彼女は悔しがりやだから、家に帰って一人で泣いたんだ。

「目、真っ赤。太陽みたい」

 希里が目を何度か擦って、笑った。声に出さず、表情だけを変えた。

「そんな綺麗じゃないよ」

 私は彼女のそばに近寄って、髪の毛をく。艷やかな髪の毛は一瞬で私の手を包んだ。

「ねえ――」

 彼女はいつものように、なんてことないように私に問いかけた。

「カッター持ってくる」

 私は彼女の髪の毛から自分の手を助け出して、机の上のペン立てに入っているカッターナイフを取り出した。カチカチろ金属音が鳴って、それがやけに現実感を運んできた。

 丁度手首よりも大きいくらいまで出したところで彼女に手渡す。

 希里は上体を起こし、私に向き合う。

 私はその間に上の服を脱いでキャミソールだけになる。

 露出した肩には幾本もの線が走っている。白い肌に浮き出るように赤かったり、茶色かったり、もう白くモヤがかかったようにあとが残っている部分もある。

「行くよ」

 彼女はすっと、私の肩にカッターナイフを置く。

 赤い線が伸びる。

 私は彼女の芸術品。

 これが彼女が私に対して行う口づけ。

「希里」

 私は彼女に声をかける。けれど、彼女は肩の傷に夢中だった。

 血がゆっくり垂れていく。それが服とかにつかないだろうか、と今更ながら心配になる。

「愛してるよ」

 私は芸術品で、彼女は創る側。

 彼女から見れば私は物なのだ。

 希里がふっと笑って、顔を近づけ、笑みを深め、口ずさむ。

「痛みに耐えてる顔、可愛い」

 きっと、私は一生彼女の虜だ。

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白い花に朱を添えて 宵町いつか @itsuka6012

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