第十三章 ゴミ山の王

 轟音がここまで響いてきた。


 玉座の間にいた春香は、腰へ抱き着いて震えているアーニャの頭を優しく撫でた。


 「城下町の門が突破されたようです!」


 玉座の間に飛び込んできた兵士が、そう報告を行う。


 三十分ほど前、王都マロウス直近の草原にて、武装した兵隊らしき者たちが陣形を作り始めた。その情報を聞き、春香はアーニャや側近らと共に、玉座の間へ避難していた。こちらへ攻め入る恐れがあるからと。


 危惧は的中し、城門は突破された。確実に向こうはやる気なのだ。


 報告にきた兵士へ、グスターフが質問する。


 「相手はどこの国の軍隊だ!?」


 兵士は唾を飛ばしながら答える。


 「それが軍隊ではなく、傭兵団のようです。おそらく、黒獅子傭兵団だと思われます」


 「黒獅子傭兵団だと……」


 グスターフは絶句する。


 春香はグスターフの様子を見て、眉根を寄せた。相当やっかいな相手なのだろうか。


 春香は、グスターフへ訊く。


 「グスターフ、黒獅子傭兵団ってなに?」


 グスターフは、憂いを帯びた表情で答える。


 「東の大陸を中心に活動を行う傭兵団です。構成員のほとんどが、獣人で占められているのだとか」


 「手強いの?」


 「おそらく。話を聞く限りでは、傭兵団では最右翼のようです。特に、頭領である黒獅子の男が、常軌を逸した強さだと聞いたことがあります」


 「黒獅子の男?」


 グスターフは頷く。


 「遠くの大陸で活動する傭兵団のことなので、私も詳しくは存じませんが、レオ・ミリギィという黒い鬣を持つ獅子の獣人が、一つの城を落とすほどの実力を持っているそうです」


 「レオ・ミリギィ……」


 春香はぽつりと呟いた。なぜかわからないが、何か引っかかるものがある。


 単独で一城を陥落させるとは、一体どんな化け物なのか。いくら獣人とはいえ、眉唾な気がする。いわゆる尾ひれがついた武勇伝か、あるいは……。


 「春香、私、とても怖い」


 アーニャが不安げな顔で、春香の制服の裾を引っ張った。


 「大丈夫ですよ。アーニャ様」


 春香は震えるアーニャを抱きかかえ、ワキガの臭いを嗅がせてやる。しばらくすると、落ち着いたのか、アーニャから震えがなくなった。


 春香は、アーニャを抱いたまま、その場にいる人間を見回した。


 タイスや彩音、シルヴィアなどルーラル村の人間たちや、ゲオルグなどの実力者、それからマロウスの強力な親衛隊がいる。和枝もだ。この面子なら、誰が襲ってこようと撃退できそうだが……。


 ちなみにロイは、密偵の任務があるため、今は不在だ。世情に詳しい彼がいれば、『黒獅子傭兵団』について、もっと詳細な情報が聞けたかもしれないのだが、よりにもよって留守である。


 「一体何の目的で黒獅子傭兵団は攻めてきているの?」


 グスターフは首を横に振った。


 「それは不明です」


 「要求は?」


 「ありません。やつらは突如として現れたのです」


 「……」


 ただの傭兵団が単独で一国の首都を侵略するのなら、相当な理由が必要だ。だが、その理由が見当付かない。要求がないのも不気味である。


 「とりあえず、春香様とアーニャ様はこの玉座の間で待機を」


 グスターフがそう進言し、春香は頷いた。


 「お前たちはここで春香様とアーニャ様をお守りしろ」


 ゲオルグが親衛隊にそう命じる。


 「和枝、お前もだ」


 ゲオルグの指示に、すっかり兵士が板についた和枝が首肯する。


 その後、グスターフはゲオルグと共に玉座の間を出ていった。突然の襲来で、ままならない部隊編成を整えるためだろう。


 二人が姿を消した直後、再び轟音が聞こえてきた。建物が倒壊するような音だ。さっきよりも近い気がする。


 「春香、怖いの。もっとワキガの匂いを嗅がせて」


 アーニャが催促し、春香はアーニャの顔へ自身の脇を押し付ける。アーニャは恐怖の顔から一転、幸福感に包まれた甘い顔に変化した。


 それを見ていた春香は、ふと思い当たる。


 先ほどグスターフが言った通り、敵の目的は不明だ。そして要求もない。だが、考えられる動機としては、アーニャだろう。強力とはいえ、たった一つの傭兵団が、国際情勢がある中、一国を侵略するのは自殺行為に等しい。


 だが、アーニャを手に入れられれば、話は別だ。政治の交渉にも使えるだろう。


 敵の狙いは、この子である。


 そこまで考え、春香ははっとする。もう一つの可能性を見出したからだ。


 すなわちそれは……。


 春香は、脇の臭いを嗅いでいるアーニャを見る。それから、それを羨ましそうに眺めていた親衛隊の一人に声をかけた。


 「ちょっとお願いがあります」




 先ほどまで賑わっていた城下町の目抜き通りは、騒乱の一言となっていた。露店は倒壊し、建物は方々窓ガラスが割れ、軒先は荒らされている。嵐が通過した後のような有様だった。


 平和の只中にいた住人たちは、突如の闖入者に驚きどよめき、逃げまどっている。


 レオは、進行部隊の最後尾を進む戦闘用馬車の騎手席(御者台)に座り、前方を窺っていた。ここからなら、隊列が先頭までよく見えた。


 進行部隊は現在、マロウス城下町のメインストリートを半場まで侵攻している。もう少し進めば、マロウス城へ辿り着くだろう。


 この時点までは、障害らしい障害はなかった。先頭で隊を牽引している切り込み隊も、ほとんど損耗が見受けられない。


 強襲という選択は、功を奏したようだ。


 制圧部隊が拠点を確保する光景を確認しつつ、レオは最後尾で悠然と前進を続けた。


 すぐそばを、マロウス城下町の住人たちが恐怖に顔を歪ませながら、傭兵団から逃げていく姿が目に映る。しかし、傭兵たちは、誰も追うことをしなかった。今回の目的は一人の少女。虐殺でも侵略でもないのだ。相手が向かってこない限り、放置しろと全部隊に指示を出していた。


 やがて部隊は、マロウス城へと通じる通りへ差し掛かった。


 そこは、塀に挟まれた綺麗な石畳の道である。他の路地よりも狭い上り坂となっており、今はまだ見えないが、このまま坂を上り切ったところに、城門があった。


 切り込み隊がその道へ入った時だった。甲冑に身を包んだマロウスの兵隊が、ひしめき合いつつ、こちらへ駆け下りてくる姿が見えた。全部で二十人ほど。


 ようやく本番のようだ。


 先頭を行く切り込み部隊と、マロウスの兵隊たちが会敵する。狭い路地で、一気に熱量のある合戦の声が巻き起こった。


 相手は大国の首都の兵隊であるものの、経験値が少ない雑兵。百戦錬磨の傭兵団ならば、容易く打ち破れるはずだ。


 レオは、かねてより、そう予測していた。


 しかし――。


 隊列の最後尾で、成り行きを見守っていたレオの顔が曇る。


 相手側の陣形が、なかなか崩れないのだ。壁に阻まれたかのように、前進が滞っている。そればかりが、じりじりと押されているようでもあった。


 なるほど。腐っても主要都市の精鋭。腕は確かのようだ。こちらが侮っていただけか。


 切り込み隊の前衛が、マロウス兵により押し切られた光景を確認したレオは、指示を出すために立ち上がった。


 その時だ。


 一つの影が、切り込み隊の後方から、マロウスの兵に向かって突進する姿が目に入った。まるで巨大な砲弾のような勢いと迫力があった。


 突進を受けたマロウスの兵たちは、盾や剣を弾き飛ばされ、宙を舞い、地面へと叩き付けられる。


 それから兵士たちは絶命したのか、身じろぎ一つしなくなった。甲冑が大きく陥没している。まるで巨大な馬車にでも跳ねられたような状態だ。


 敵兵たちを蹴散らしたのは、切り込み隊隊長、猪獣人のガルトである。武器を持たず、身一つで敵陣へ突っ込み、蹂躙せしめる男。猪突猛進を体現したような肉体と精神を持っている。


 ガルトの突撃により、立ち塞がっていたマロウスの兵隊は、ほぼ壊滅状態だった。道がさして広くないせいで、密集せざるを得かったことが災いしたのだろう。まさに一網打尽である。


 「切り込み隊前進!」


 ガルトがそう雄叫びを上げ、倒れたマロウスして、の兵を踏みしだきながら、切り込み隊は再び前へ進み始めた。


 ゆっくりと、隊全体が坂道を上っていく。


 すると、レオが乗った馬車の背後から、騒々しい音が聞こえてきた。


 レオは馬車から身を乗り出し、後ろを確認する。そこで、はっとした。こちらを追うような形で、マロウスの兵隊が押し寄せてきているのだ。しかも、相当な数の。


 おそらく、これが向こうの本命だったのだろう。先ほど立ち塞がっていた兵隊と目の前の兵隊が挟撃し、相手を仕留める算段だと思われた。


 だが、先頭に立ち塞がっていた兵隊が予想外に早く突破され、こうして後手に回ってしまったということだ。


 背後の兵隊は、それでも相対するつもりらしく、皆が手に武器を構え、近づいてくる。


 応戦するしかないようだ。


 レオは立ち上がろうとして、膝に手を当てた。


 そこで異変が起きる。


 眼前のマロウス兵たちが、次々と倒れていったのだ。甲冑の隙間から血飛沫をあげながら、後ろから順に、闇夜で獣に襲われるかのごとく。


 兵の間を、複数の影が縦横無尽に駆け、跳ね回っていた。その正体を知ったレオは、ふっと笑う。


 やがて、背後から襲撃してきていたマロウス兵は、全てが倒れ伏した。甲冑の隙間から漏れ出た血が、石畳を赤い絨毯に変える。レオは声をかけた。


 「さすがだなカット」


 目の前で、カットが着地する。遊撃部隊隊長の猫獣人だ。風のような身のこなしと、狭い隙間でも潜り抜けられる柔軟性を誇る強者。対峙すると、極めて戦いにくい相手だ。


 「こんな雑兵、私たちにかかればネズミ以下ね」


 カットは、手にした小振りのダガーナイフを振りながら言う。そのナイフ用い、相手の甲冑の隙間から急所をピンポイントで突き刺し、死に至らしめたのだ。


 カットの周りにはいつの間にか、遊撃部隊の精鋭が集まっていた。虎獣人のチトもいる。


 「頼もしくも恐ろしい奴らだ。あれ程の数の兵を一瞬で……。敵には回したくないな」


 レオの言葉を聞き、カットはにやりと口角をあげた。鷹爪のような牙が覗く。


 「『落城の黒獅子』らしかぬ殊勝な言葉ね。誉め言葉として受け取っておくわ」


 そして、本来の作戦に戻るため、カットたちはその場から立ち去った。音もなく、まさに猫のように素早く。


 邪魔者がいなくなった黒獅子傭兵団の進行部隊は、やがて城門へとたどり着いた。


 なぜか城門は開いており、数名の見張りの兵がいた。だが、その兵士たちは、羽虫を払いのけるように、切り込み隊の手によってなで斬りにされた。


 周りからマロウスの兵がいなくなったことを確認したレオは、部隊の前方へ向かい、先頭に立った。


 レオは、開かれたままの城門を見上げる。この惨禍の中、城門が解放されているのであれば、もしかしたら罠の可能性があった。


 レオは内部を確認する。城門から先は、大きな広場となっていた。そこには誰もいない。


 強襲されたとはいえ、ここまで侵入を受けて、兵隊が出てこないのは妙である。


 レオは逡巡した後、前進することに決めた。仮に罠であろうと、黒獅子傭兵団ならば、容易にかいくぐれるはずだ。それに、自分が先頭に立っていれば、傭兵団に損害すら与えられないだろう。


 ここでまごついている方が、むしろ危険といえた。


 「全部隊前進! 俺が前を行く。警戒してついてこい! 騎兵隊は全員馬から下りろ!」


 レオはそう叫ぶと、城門をくぐった。


 傭兵たちを引き連れながら、慎重に進む。広場を直進し、マロウス城の門扉を目指す。


 静寂に包まれた広場に、傭兵たちの場違いな足音が響き渡っていた。いまだに相手の反撃はない。むしろ、のどかささすら感じる。一体、自分たちはどこを歩いているのだろうと、倒錯した疑問すら覚えた。


 やがて傭兵団は、マロウス城本館へとたどり着く。レオはガルトと共にフォーメンションを組み、蹴り開けられた門扉の中へ突入した。


 入った先はホールだった。絢爛だが、明かりが点いておらず、薄暗い。かろうじて、壁に掛けられた武具や調度品が見える。そして、ここでも人の気配は感じられなかった。


 一体、どうしたのだろう。城の者はどこにいるのか。


 そうレオが思った矢先、中央に誰かが立っていることに気がついた。影のような存在だったため、今まで目に入らなかったのだ。


 その人物は少女だった。スカートを組み合わせた見慣れない礼服のような服を着ている。歳はちょうど『音楽会』のロジーナ・フンパーディンクくらいか。


 そしてレオは、瞬時にその少女が峰崎晴香だということがわかった。


 アルチナから聞かされていた形姿から判断したのではない。『鼻』で気づいたのだ。


 あの時嗅いだ香気芬々。恋焦がれた『ワキガ』の香りが、ホールに漂っている。それが眼前に立っている少女から発せられているのだ。


 レオと共に突入したガルトや切り込み隊のメンバーも、ワキガの香りが届いたらしく、魅惑されたように惚けている。全員が嗅覚の鋭い獣人であるため、より顕著に感じることだろう。


 レオは心の中で呟く。見るがいい。これが『ワキガ』の類稀なる香りなのだ。お前たちもわかっただろう? 俺が晴香を渇望する理由が。


 なぜ、彼女が一人でこのホールに佇んでいるのかわからないが、これでチェックメイトだ。傭兵団が一丸となって、晴香を捕縛し、予定通り即時撤退をすれば完了だ。


 あとは野望へと突き進めばいい。


 レオは、目の前にいる晴香に対し、宣言する。


 「峰崎晴香だな? 我々の手に収まってもらうぞ」


 そして、レオは高らかに部下たちへ命令を下した。


 「全部隊、あの娘を捕らえろ!」


 レオの声がホールに響き渡る。それから、シンとした静寂が訪れた。


 反応がない。まるで、一人芝居を打ったかのような間抜けさがあった。


 レオは怪訝に思い、近くの部下たちの様子を確かめる。


 皆は、先ほどの同じく、呆けたままだ。


 「どうしたお前たち。俺が命令を下しているのだぞ」


 だが、誰も動かない。まるでレオの声が、耳に入っていないかのようだ。


 レオは、唾を飲み込んだ。奇妙な感覚にとらわれる。何かがおかしかった。もしかすると、重大な認識違いをしていたのかもしれない。


 レオがそう思った時だ。


 別の声が、ホールへ響き渡った。女の声だ。


 それは峰崎晴香が発したものだった。


 「全員、その場に跪きなさい!」




 黒獅子傭兵団が、マロウス城下街へ侵攻を始めてから少し経った頃、晴香は一人でホールへ向かっていた。


 理由は相手を迎え撃つためだ。


 彼らのマロウス襲撃の動機を、晴香は当初、アーニャだと思っていた。傭兵団が一国に攻め入るのであれば、その目的は王以外ないのではないかと。


 だが、ふとその考えを改めた。


 もしかすると、相手の狙いは別にあるかもしれない。


 王を拉致、もしくは殺害が目的なら、わざわざ城にいる環境で狙うのは得策とは言えなかった。外交の移動の際に狙うだとか、他国でのパレードの際に暗殺するなど、もっと合理的な方法がある。


 だが、彼らは堅牢である本拠地に攻め入る選択を取った。


 もしも、王以外が狙いで城を襲撃するのならば、すなわち、マロウス城にいると確定しているものの、動向が把握できない存在が相手の場合であろう。


 つまり、それは晴香である可能性があった。すでに複数の国に晴香のワキガの魅力は伝わっているのだ。それを聞いて、晴香を手に入れようとする輩が現れてもおかしくはなかった。


 そして、それが事実なら、むしろ好都合である。晴香が目当てであるならば、わざわざ奥地へ隠れて、大切な手駒を減らすより、敵の前へ姿を晒した方が手っ取り早く解決できるのだ。


 黒獅子傭兵団は、全て獣人で構成されていると聞いた。異世界人が相手である以上、晴香のワキガがあれば、容易く服従させることができるだろうと。


 私は世界を手に入れる者。どこの馬の骨とわからない傭兵団など、相手ではない。


 晴香は確信の元、兵を下がらせ、黒獅子傭兵団と相対する道を選んだ。そして、彼らを眼前に控え、命令を下したのだ。


 結果的には、晴香の推察は当たっていた。彼らの目的はやはり自分であり、ワキガに魅了されることも。


 だが――。


 晴香の命令により、ホールへと突入してきた黒獅子傭兵団は、皆跪いていた。


 たった一人を除いて。


 その人物は、黒い鬣を持つ大柄の獣人だった。晴香の言葉を訊くや否や、一斉に跪いた部下たちを怪訝な面持ちで見ている。僅かばかり動揺があるようだが、貫禄は微塵も消えていなかった。


 あの獣人が、黒獅子傭兵団の頭領で間違いないだろう。


 つまり彼がレオ・ミリギィなのだ。


 しかし、レオだけが晴香の命令に従わなかった。ワキガの臭いは確実に届いているはずなのに。


 晴香の脳裏に『魔女』の姿がよぎる。アルチナ・オルランド。


 あの女も、晴香のワキガを嗅いでいながら、命令が通じなかった。異世界人にも関わらず。


 まさか。


 「そこの獣人、跪きなさい!」


 晴香は再び命令する。だが、従わない。レオはこちらを見据え、凝視してきた。


 肉食獣特有の鋭利な刃物のような目に射られ、晴香は自身の全身に粟が生じたことを自覚する。


 晴香は、単身でここへ乗り込んできたことを後悔した。護衛を志願するタイスたちを説き伏せ、警護兵に時間稼ぎをさせてまで場内に招き入れたことが仇になったのだ。


 レオは、こちらに一歩踏み出した。それは獲物へと忍び寄るライオンを彷彿とさせた。


 すぐにでも、この獣人を排除しなければ。


 「皆、その男を殺しなさい!」


 晴香は黒獅子傭兵団へ命令を下した。




 峰崎晴香の鋭い命令が飛び、それまでホールの絨毯に跪いていた部下の傭兵たちは、一斉にこちらに襲い掛かった。


 レオは驚くものの、カラクリを理解しつつあった。


 レオは冷静に対処する。一旦距離を取った後、両手を広げ、意識を集中させた。すると、ホール内にあった武具や調度品が引き寄せられる。


 それらは、砲弾のような勢いで、レオに襲い掛かってくる傭兵たちへ向かった。

 槍や剣が彼らの胴体を貫き、致命傷を負わせる。調度品の類も、激しくぶつかり、昏倒させた。


 突如、風圧を感じる。猪獣人のガルトが、空気を切り裂くような速度で突進してきた。


 レオは、両腕に寄り集まり『巨大な腕』となった武具や調度品の塊を、ガルトへ向かって振るった。


 ガルトは弾き飛ばされ、壁へとめり込むが、すぐさま体勢を立て直し、再度突進を行う。さすがは猪といったところか。死ぬまで猛進を止めない。


 レオは、右腕を振り上げ、ガルトへ叩き付けた。ガルトは甲冑ごと圧潰され、踏まれたトマトの缶詰のようになって絶命した。


 さらにレオは、両腕を振り回し、自分へと迫ってくる傭兵たちをなぎ払った。大質量の塊と甚大な勢いに、傭兵たちは甲冑ごと骨が砕け、内臓も圧壊し、血を飛び散らせながら、スクラップのようになって転がっていった。


 ホールへ突入していた切り込み部隊は、この時点で壊滅状態となった。


 これがレオの『力』である。多勢だろうと、単独で壊滅させる強力な武器。一介の傭兵団の団長を『落城の黒獅子』とたらしめた源泉。


 レオの『力』は、いわば『物体操作』とも言うべき性質を持っていた。人が所持していない物質を、自由自在に操作することが可能となる能力だ。


 操れる物質の体積には上限があるものの、誰も所持していない物体なら、何であろうと操作ができた。打ち捨てられた武器や防具、壊れた馬車、崩壊した城門や城壁など、何でもだ。


 それらを『腕』や『鎧』として身に纏い、手足のように使って戦うことができる。


 レオは、床に転がってある死んだ傭兵たちが所持していた剣や盾などを引き寄せ、さらに腕へと付着させた。戦力強化だ。


 レオは、巨大な腕と共に、佇んでいる晴香にゆっくりと体を向ける。彼女は青ざめた顔をしていた。


 レオは満面の笑みを浮かべる。晴香の『ワキガ』の特性が理解できたからだ。


 彼女の『ワキガ』は、香気なだけではなく、他者を操ることができる作用があるようだ。理由はわからないが、レオには効いていない。それはアルチナも同じだったのだろう。


 不思議な力。もしかすると、自分や『音楽会』の面子が持つ『力』と同じ性質なのかもしれない。いずれにしろ、利用価値があるのは変わりがなかった。むしろ、期待以上と言える。


 これならば、より一層、レオの悲願に有益となるだろう。晴香の『ワキガ』を以ってすれば、あの騎士共を意のままに操れるのだから。


 レオは、晴香へ大きく吠えた。自身の体中の毛が逆立っていることを自覚する。


 「俺の名前はレオ・ミリギィ。黒獅子傭兵団の団長にして『音楽会』の一人。アルチナ・オルランドからお前の話は聞いている。えも言われぬワキガの香り。必ず我が物にするぞ!」


 レオの言葉が終わると同時に、城の外で待機をしていた騎兵隊や歩兵部隊の部下たちが、ホールへ駆け込んできた。


 彼らは晴香の『ワキガ』の香りを嗅ぐなり、一様に硬直した。そして、晴香が命を下すと、先ほどの切り込み隊のように、レオへと襲い掛かってくる。


 レオは、腕を振り上げた。




 晴香は、自身の傭兵団と戦いを繰り広げるレオを見ながら驚愕していた。


 レオが自分に言った言葉を思い出す。


 やはりこの男は、アルチナ・オルランドと繋がりがあった。しかもそれだけではない。こいつは同種なのだ。転生人しか保持していないはずのスキルを行使し、そして、服従しないものの、手中に収めたいと思うほどには、ワキガの半端な効果を示している――。


 つまり『魔女』の一人なのだ。それから彼が口に出した『音楽会』なる名称。アルチナと邂逅した時、そんな名前を聞いたような気がする。


 レオの口ぶりからは、彼やアルチナのような『魔女』が、他にもいることを示していた。晴香の情報も共有されているのだろう。あの時、晴香はワキガの臭いが染み付いたパジャマを剥ぎ取られたのだから。


 すでに水面下では、脅威が病魔のように進行していたことを意味していた。


 アルチナだけではなかったのだ。晴香を狙おうとしている得体の知れない連中は。レオがこうして襲撃してきたように、これから先、強力なスキルを持つ相手が狙ってくる恐れがあった。


 異世界を征服することを決意した矢先に、こんな障害が現れるとは。ただでさえ、『始末』しなければならないクラスメイトたちがいるのに。


 くそ。どうしてこんな……。


 晴香の命令により、果敢に団長へ挑んでいた『駒』たちは、急速にその数を減らしていいった。異変を知り、駆け付けた新たな『黒獅子傭兵団』にも命令を行い、加勢させるが、攻勢に変化はなかった。


 ホールに死体の山が築かれていく。


 それに合わせるように、晴香の中に恐怖が蓄積されていった。




 地響きと轟音が響き渡る。先ほどからずっと続いていた。まるで地下で巨人が暴れているみたいだった。


 アーニャは玉座の間で、床へ座り、じっと俯いていた。晴香の従者であるシルヴィアが「大丈夫ですよ。アーニャ様」と頭を撫でてくれるが、不安は全く消えてくれない。


 現在ここには、シルヴィア以外に、親衛隊しか残っていなかった。タイスたちは晴香から何かしらの指示を受けていたようで、先ほどどこかへいってしまった。


 アーニャは、自身の鼻に残っているワキガの香りを噛み締めながら、その持ち主である晴香のことを想う。


 晴香は無事だろうか。従者や護衛を説き伏せ、一人で敵の元へ向かったが、傷付けられていないだろうか。


 晴香には『ワキガ』がある。この世のものとは思えないほどの素晴らしい香り。嗅ぐ者全てを魅了できる体臭。


 ワキガがある限り、晴香には危機が訪れないはずだ。それなのに、いまだずっと続いているこの騒乱の音は、一体なんだろう。


 晴香を失うことは、何よりも恐ろしかった。この世で唯一、愛情を与えてくれる存在なのだ。もう晴香なしでは生きていくことが考えられなかった。


 晴香にすぐにでも会いたい。会って、また『ワキガ』の香りを嗅がせて欲しい。


 晴香、どうか無事でいて。


 アーニャは、玉座の間で、膝を抱え、心の底から強くそう願った。




 レオは巨大な腕を振り、距離を詰めようと向かってくる遊撃部隊の部下の体を吹き飛ばした。


 遊撃部隊は軽装であるため、肉体は容易く損壊する。部下は肉片と内臓を飛び散らせながら、壁へと叩き付けられ、羽虫のようになって潰れた。


 次々に襲い掛かってくる他の遊撃部隊員たちにも、レオは同じ対処を行った。容赦なく肉ダルマへ変えていく。


 宙を舞う真っ赤な肉塊と、粘液に塗れた内臓の間を縫うようにして、隊長であるカットが接近してきた。


 レオは腕を振り下ろし、叩き潰そうとするが、カットは蝶のようにひらりとかわした。


 眼前にカットが肉薄する。カットは我を忘れたような表情で、ダガーナイフを突き出してくる。軌跡から、的確に首の動脈を狙ったものだとわかった。


 レオは近くの物体を引き寄せ、自身の首をガードする。ナイフは火花を散らせた後、弾かれた。カットは、すかさず左手に持った小振りのタクティカルナイフを、今度は胸部目がけて突き出した。刃を水平にしていることから、肋骨の隙間から体内へと滑り込ませ、肺に損傷を与えることが狙いだろう。


 レオはナイフが胸部へ到達する寸前、自身の腕に纏わり付いている物体の一部を、カットの左腕目がけて飛ばした。


 ボウガンの矢よりも速く射出された甲冑の残骸は、ナイフもろともカットの左腕を奪い去った。カットは、ちぎれ飛んだ左腕を気にすることなく、なおも右腕のダガーナイフをレオの眼球へと突き刺そうとする。


 だが、タイミングはすでに遅し。レオは両方の手を組むと、スレッジハンマーを振り下ろす要領でカットの頭頂部へ叩き込んだ。


 小柄な猫獣人は、頭部から足先まで、つづら折りのようにして潰れた。逃げ場のなくなった内臓や骨が、便臭と共に周りにはみ出て、奇怪なモニュメントのような形を形成する。


 直後、背後から接近する気配を感じた。レオは振り返ることなく、左腕を背後へ向かって払う。何かが潰れる感触。チラリと横目で確認すると、虎獣人のチトがミンチと成り果てていた。


 一通り戦闘が終結し、レオは大きく息を吐いた。マロウス城のホールを眺める。眼前は、死屍累々。獣人たちの赤黒い肉と内臓、血が一面に広がっていた。


 これまで共に戦ってきた部下たちと戦うハメになったのは、至極奇妙で、予期せぬことだった。だが、致し方なかった。あのままでは、部下たちは確実にレオの心臓へ剣を突き立てていただろう。


 レオは、峰崎晴香がいた場所に目を向ける。すでに彼女は騒乱の最中、姿を消していた。城の奥へと逃げたようだ。


 まあいい。いずれは追い詰めることができるだろう。


 レオは、散乱した武器や甲冑、戦闘により崩れた壁などの残骸を体に引き寄せ、全身を覆わせた。


 レオの体は、両腕が異様に長太い、鎧を幾重にも着込んだ重装歩兵のような出で立ちとなった。露出している部分は、眼球周辺のみである。


 レオは床を踏み鳴らしながら、晴香を追うため城の奥へと歩を進めた。




 晴香は、マロウス城本館の廊下をひた走りながら、心底慄いていた。不安により、呼吸がふいごのように荒くなっている。


 あいつは化け物だ。あれほど数の傭兵を独りで……。


 ワキガ臭が効かない相手がいることも誤算だったが、その人物が化け物のような戦闘力を保持していたことは、もっと誤算だった。


 ずっと響いていた戦闘の騒音も、つい今しがた収まった。皆やられてしまったのだろう。おそらく、次はこちらを追ってくるはずだ。急がなければ。


 晴香は本館を出て、中庭を抜けた後、別館へと入った。そして、奥にある大広間の扉を開ける。


 大広間には、晴香の命令により、待機していた大勢の兵士がいた。


 晴香は兵士たちへ、レオを討伐するよう新たな命令を下す。兵士たちは鬨の声を上げると、意気軒昂に大広間を出ていった。


 彼らはレオの手によって、皆殺しにされるだろう。だが、時間稼ぎにはなるはずだ。予め用意していた『保険』のための。


 晴香は今いる大広間から、さらに奥へいき、外へ出ると広場を通って、憲兵隊の本部施設へと入る。


 内部には、少数の憲兵隊の他、タイスと彩音もいた。


 晴香は訊く。


「ゲオルグと和枝は?」


 タイスが答える。


「姫様の指示通り、作戦行動中です」


 どうやら『保険』は機能しそうだ。


 後は結果が出るまで、ここで待つしかない。闇雲に逃げても危険なだけだ。


 晴香は震える手で、自身の体をかき抱いた。




 新たに現れたマロウス兵の一団を全員挽肉にした後、レオは中庭へと到達した。


 中庭はよく手入れされており、美しかった。彫像や噴水、美術品のような外灯も趣があり、高貴さが見受けられる。この城の品を体現したような場所だった。


 レオは、中庭をゆっくりと進む。人の気配はしない。先ほどの兵隊で打ち止めということは有り得ないだろうから、どこかに潜んでいるのは確実と言えた。しかし、ここまで侵入されて兵隊の攻撃が続かないのは、一体なぜなのか。


 レオは、大熊のようにも見える巨体を揺らしながら、慎重に前進を続けた。


 ふと前方に人がいることに気づく。中庭を抜けた先にある建物から出てきたようだ。記憶した地図の通りならば、その建物は別館である。


 前方の人間は、全身甲冑であった。そして肩の部分には、憲兵隊の隊長を示す紋章。


 ようやくお出ましか。


「ゲオルグ・ウェバーか」


 レオはそう問いかける。目の前の憲兵隊隊長の男は、かすかに頷いた。


 そして、ゲオルグは腰から剣を抜き、構えた。立ち振る舞いから、磨き上げられた業物のようなオーラを感じる。熟練した技術と力がはっきりと伝わってきた。


 レオもゲオルグへ応じるように、両腕を広げて構える。同時に、周辺にも気を配った。目の前の男は陽動で、不意打ちを仕掛ける者が他にもいるかもしれないからだ。


 幸い、人の気配はない。姿もだ。正真正銘の一騎打ちというわけである。


 ゲオルグが、こちらへ駆け出した。一気に間合いを詰める算段だろう。全身甲冑を着ているにもかかわらず、動きは驚くほど早かった。


 レオは正拳突きをするように、巨大な右腕を正面へ繰り出した。ゲオルグは動きを読んでいたようで、地へと伏せ、それを回避する。


 レオは次に、左手を振って、彼を吹き飛ばそうとする。ゲオルグは、背を逸らし、ギリギリのところでかわす。腕がヘルムをかすり、弾け飛んだ。噂に聞いていた、額に三本傷がある精悍な顔が露出される。


 両の腕を振り抜いてしまったため、こちらにわずかな隙が生じた。ゲオルグはそれを見逃さなかった。瞬時に間合いを詰めると、唯一剥き出しであるレオの眼球へ向けて、剣による突きを行う。


 レオは甲冑の破片を使い、目をガードした。剣の切っ先は破片に当たり、逸れる。


 攻撃を防いだことを確認したレオは、その破片を、相手の顔面目がけて射出した。だが、がゲオルグは顔をずらし、いとも容易く避ける。そして一旦ステップバックし、間合いを取った。


 すかさずレオは、両腕からいくつもの残骸を飛礫のように放出し、ゲオルグを蜂の巣にしようとする。しかし、彼は舞踏に似た動きを繰り出し、ほとんどを回避した。顔面に迫った破片は、剣で叩き落としてしまう。


 一瞬、間が訪れたあと、レオは感嘆のため息をついた。


 これがマロウス領一の剣豪の実力か。さすがだと思う。もしも、生身での戦いだったら、こちらが劣勢だったかもしれない。


 だが、もう動きは覚えた。幸いこちらには、人知を超えたこの『力』がある。ごり押しでも充分勝てる算段であった。


 始めから、勝敗は見えているのだ。


 レオは両の腕を振り上げた。ゲオルグは応戦しようと、再び剣を構える。


 その時だった。


 右目付近に衝撃が発生した。同時に、大砲を撃った時のような、大きな爆発音が耳を貫く。


 レオはうめき声を上げた。焼け付くような痛みが、露出してある右眼球周辺を襲う。右目の視界が消失していた。


 レオは瞬時に気づく。これは爆薬の魔石によるものだ。着火や衝撃を与えると、爆発する性質を持っている魔石。


 それが右顔面の前で炸裂したのだ。


 おそらく、何者かが爆薬の魔石を矢に括りつけ、弓やボウガンで唯一剥き出しであるこちらの眼球に向けて撃ち出したのだろう。


 そして見事、レオの右目を奪うことに成功した。もはや右目は開くことは叶わない。


 しかし、一体誰が?


 レオは、右目の痛みに耐えながら、無事である左目で周囲を確認する。だが、事前に確認した時と同じく、伏兵の姿も気配もなかった。数多の戦場を駆け抜けた自分が、察知できないはずがない。


 まるで、透明人間でもいるようだった。


 レオははっとする。ゲオルグはすでに、眼前へと肉薄していた。剣の切っ先が左目へ迫る。


「舐めるな!」


 レオは気合の声を上げると、身に纏っていた様々な残骸を、周囲へ一斉に放出した。


 ゲオルグは、かろうじて露出してある顔を守ったものの、残骸を胴体に複数受け、背後に吹き飛んだ。憲兵の重厚な鎧が、大きく陥没した様が見て取れた。


 放出した残骸は、中庭にある噴水や彫像なども粉砕し、建物の壁すら崩壊させた。


 レオは、残骸となったそれらを両腕へと引き寄せる。そして、再び巨大化した『腕』を縦横無尽に振り回し、目に付く全ての物を破壊していった。


 崩れていく建物。新たに生まれた『材料』をさらに身に纏う。


 起き上がったゲオルグが、こちらへ切り掛かってくるが、動きは先ほどと比べて遥かに遅い。やはり、甲冑越しとはいえ、相当なダメージを負っているようだ。


 レオは空中を飛ぶ蝿を払うように、ゲオルグを弾き飛ばした。マロウス一の剣豪は、ちょうど背後にあった別館の窓を突き破り、内部へと姿を消した。


 レオはゲオルグには構わず、破壊を繰り返していく。集中砲火を受けている砦のように、中庭を囲む建物は、見るも無残な姿へと変わっていった。これほどの破壊規模ならば、自分の右目を奪った『何者』かも、いずれ巻き込まれて息絶えるだろう。


 残骸を身に纏い続けるレオ。さらに体積が増していく。やがて、レオの纏う『鎧』は、建物よりも巨大化した。


 マロウス城の敷地を眼下に控え、レオは昔、シュキの屋敷で読んだ本に描かれてあった『ゴーレム』という名のモンスターの名前を思い出していた。そのモンスターは岩で構成された岩石生物であり、大型のものは、城と見紛うほど巨大だという。


 まさに今の自分である。


 レオは剥き出しである残った左目で、マロウス城の敷地を見下ろしながら、晴香の姿を探した。


 あの少女はどこにいる? ワキガの少女は。この姿になった以上、もう敵はいない。どう足掻こうとも、我が手からは逃れられないのだ。


「どこにいる! 峰崎晴香!」


 レオの獣のような咆哮が、辺りにこだました。




 地を割るかのごとく、大きな振動と轟音が響く。憲兵隊の施設内部は、まるで馬車に乗っているかのように揺れた。


 これまでとは一線を画す、激しい衝撃だ。


 晴香は、タイスたちの制止を無視し、慌てて外へと通じる扉を開けた。


 そこで晴香は息を飲む。視線の先にあるものを、すぐには理解できなかったからだ。


 憲兵隊本部前の大きい広場を越えた向こう、ちょうど中庭と思しき場所に、巨大な『塔』のようなものが出現していた。そしてそれが人の形をした『巨人』だということに晴香は気づく。ガラクタを積み上げたような、大量の残骸で出来た『巨人』。


 知っている知識で言えば、『ゴーレム』という言葉が相応しかった。


 そのゴーレムが立っている中庭は、本来ならマロウス本館と別館が囲んでいたはずだが、今はほとんどが崩壊し、巨人の姿が丸見えとなっていた。


 晴香と同じように外へと出てきたタイスと彩音も、一様に驚愕の表情を浮かべた。


「あれはいったい何?」


 彩音が声を震わせながら呟く。


 晴香は、あのゴーレムの正体を知っていた。


 間違いなくレオ・ミリギィだろう。彼はあそこまで巨大になれたのだ。


 そして、そうなっている以上『保険』は機能しなかったということだ。ゲオルグや和枝は死んでしまったかもしれない。


「姫様。ここは危険です。中へお入りを」


 タイスがそう言った時だ。ゴーレムの頭部に当たる部分から、レオの声が迸った。


 何と言っているかまでは聞き取れなかったが、自分を追い求める言葉だということを晴香は感じ取った。


 それから奇跡が起きる。まるで晴香の存在を探知したかのように、ゴーレムはこちらを向いたのだ。


 はっきりとレオの視線を感じる。猛禽類が上空から獲物を見定めるような、粘着性のある眼力。


 足元から恐怖を感じた晴香は、タイスの言葉通りに、憲兵隊本部の中へと避難しようとする。


 だが遅かった。レオは巨大な右手を広げると、こちらへ向かって勢いよく腕を伸ばしてきた。まるで巨竜が獲物に飛び掛るかのような、仰々しい光景だ。


「危ない!」


 レオの腕が晴香へ迫った時、間一髪のところで、タイスが晴香を押し倒した。すぐ近くをゴーレムの腕が通り過ぎる。


「姫、ご無事ですか?」


 晴香の身を心底案じるタイスの言葉に、晴香は頷きだけで返す。


 憲兵隊の本部施設を見ると、一部が崩れていた。ゴーレムの腕がかすっただけでああなったらしい。彩音はいち早く施設奥へと避難したようで、姿が消えていた。おそらく、無事だろう。


 晴香を捕まえ損なった右腕は、再びモンスターのように動いた。そして、こちらへ向かって襲い掛かってくる。


 晴香が身をすくめた瞬間、宙に浮く感覚がした。タイスが晴香を抱きかかえ、憲兵隊本部前の広場を駆け出したのだ。


 レオは左腕も使い、晴香を捕らえようとする。


 ヒュドラの口のように迫る両方の手から、タイスは晴香を抱えたまま、縦横無尽に広場を逃げ回った。だが、猿臂を伸ばし続ける巨大な二つの腕から逃れることは、たとえ、武闘大会優勝者だろうと、至極困難であった。


 やがて、タイスは腕に払われ、晴香と共に地面へ転がった。タイスが庇ってくれたお陰で、こちらに怪我はない。


 芝が覆う地面から、ふらつきながら体を起こした晴香は、眼前にゴーレムの手が接近していることに気がついた。慌てて逃げようとするものの、足がもつれてまた転んでしまう。


 巨大な手が晴香を掴もうとする。そこで、手の一部が砕け散った。砲弾でも当たったような感じだ。


 真横でタイスが得物である鉈を振り下ろし、ゴーレムの手の一部を砕いたのだ。


「お逃げください姫様!」


 タイスはそう叫ぶなり、もう一度鉈を打ちつける。タイスの豪腕に、ガラクタで出来た腕は大きく崩れた。


 さらにタイスが鉈を振り上げた時だ。もう片方のゴーレムの腕が、風圧と共に、タイスを横スイングの形で殴りつけた。


 タイスは風に煽られた空き缶のように吹き飛び、憲兵隊施設の壁に当たると、そのまま昏倒してしまう。


 晴香は、戦慄した。動揺で足が震え、立つことすらできない。


 タイスまでこれほど簡単に負けるとは……。これは非常に不味いかもしれない。


「晴香様! お守りいたします!」


 晴香が恐れ戦いていた時、本部で待機していた憲兵隊の隊員たちが、大挙して救助へと向かってくる姿が見えた。


 しかし、レオのゴーレムの手により、まるで蚊のように、あっさりと叩き潰され、真っ赤な肉塊と成り果てた。


 途端、静寂に包まれる広場。助けとなる者が近くに一人もいない状態であった。この場合、彩音は役に立たないだろう。


 レオは地響きと共に前進し、広場に入ると立ち止まった。


 晴香は震えながら、レオを見上げる。彼は、ゴーレムの眼球部分にある唯一剥き出しの目で、こちらを見下ろしていた。よく見ると、右眼が損壊しているようであった。ゲオルグか和枝がやったのだろうか。


 レオは、こちらへ腕を伸ばしてくる。晴香は唾を飲み込んだ。心臓が早鐘のように打ち始めている。もうすでに、立つことも這うこともできなかった。


 晴香は目を瞑った。万事休す。終わりだ。世界征服どころではない。このまま自分は捕われの奴隷となるのだ。


 晴香は、巨大な手に掴まれることを覚悟した。何人もの人間を肉塊に変えた、血染めの巨人の手。ごつごつした感触が全身を包むのだ。


 だが、しばらく時間が過ぎても、何も起こらなかった。時が止まったかのようだった。


 晴香は目を開ける。眼前に一人の人間が立っていた。迫るゴーレムの手から、晴香を庇うように。


 その背中を見ると、まるで姫を守る騎士のようだと思った。


 その人物の目の前に迫っているレオの右腕は、なぜか動いていなかった。寸止めしているかのように、停止していた――いや、目を凝らすと、僅かばかり進んでいるようでもあった。


 一体何が起きているのだろう。この人は一体誰? ヒューマンであることは確かだが……。


 目の前の人物は、顔を横に向け、声をかけてくる。


「怪我はないかい? 峰崎さん」


 晴香は、目を見開く。思わず声を上げそうになり、口を噤んだ。驚愕により、全身の毛穴が開いていることを自覚する。


「史園くん!」


 信じられないことに、目の前の人間は元クラスメイトの史園清茂だった。


「ど、どうしてここに!?」


 晴香は動揺のあまり、呂律が回っていなかった。


 史園は晴香の感情とは裏腹に、掛けている銀縁眼鏡を上げながら、落ち着いた素振りで答える。


「説明は後。今はとりあえず……」


 そう言うと、史園は、目の前にあるレオの巨大な右腕に触れた。




 レオは少しばかり狼狽していた。


 新たな『刺客』。


 次から次に敵が立ちはだかってきたが、今回の相手はこれまでと随分違うようだ。


 レオは、眼下にて佇んでいる少年を見下ろした。


 どこからともなく現れ、捕獲寸前の晴香を庇った。そこまではいい。だが、この現象は一体全体、なんだ?


 レオのゴーレムと化した腕は、晴香の前で立ち塞がっている少年の元まで伸びている。晴香を捕らえようとした際、彼が割って入ったのだから当然だ。


 だが、少年を前にした途端、巨大な腕が動かなくなったのだ。正確には、微かに動いてはいた。しかし、仔細に伝わってくる手の感覚で、その進みは亀のように鈍重であることがわかった。


 かといって、力を込めて拳を押し込めても、全く速さに変わりはない。不可思議な現象だ。


 乱入者である彼が原因であることは、間違いないだろう。しかし、何が起きている?


 レオがもう片方の腕を使い、攻撃しようと思った時だ。


 さらに驚くべきことが起きる。


 地にいる少年は、背後の晴香と二、三言葉を交わすと、眼前で緩慢に進むレオの右腕に触れた。それから、払い除ける仕草を取る。


 その瞬間、強い衝撃を腕に感じた。そして、信じられないことに、ゴーレムの右腕が大きく跳ね上がった。


 右腕は、弾かれたように、少年の横に落ちる。その時はもう、動きは緩慢ではなかった。


 右腕をいなされたレオは、眉根を寄せ、少年を睨みつけた。


 恐ろしいほどの怪力――というわけではなさそうだ。彼もそうなのか。『力』を持つ者。


 晴香もその可能性があり、もしかすると、この右目を奪った者もそうなのかもしれない。立て続けにこうして『力』を持つ者が現れたとなると、とある可能性が浮かび上がる。まさか、とは思うが。


 なんにせよ、晴香を捕縛すれば、いずれも解決する話である。


 レオは、左腕をハンマーのようにして、少年へ打ち付けた。が、やはり寸前で止まる。それからは先ほどと同様、鈍重な動き。


 レオは左腕を引き抜くと、相手と自分との中間部分で、残骸の射出攻撃を行った。


 雨霰と飛びいく残骸。しかし、それらも少年の手前で停止する。地面に置いたままの右腕でも残骸を飛ばすが、少年は手を伸ばし、それも防ぐ。


 なるほど。一筋縄ではいかないようだ。だが、もう対処法は見つかった。


 レオは右腕を振り上げた後、思いっきり叩き付けた。少年に対してではなく、広場の地面に対して。


 脳裏に刻み込んでいるこの城の地図によれば、憲兵隊本部施設や広場の下には、地下がある。つまり、地面を割れば……。


 巨大な亀裂と共に、割れた地面は、容易く崩壊した。瞬時に大穴が開き、蟻地獄のように、瓦礫や地面の土が地下へと飲み込まれていく。


 大穴は、少年にも及んだ。少年は、逃れようとするものの、足をとられ、引き込まれてしまう。表情から、レオの地面を割る行動は予期せぬものであり、彼にとって、なす術もない攻撃であったことが窺い知れた。


 また、対処法が拙いことから、彼が『力』を持つ相手との戦闘には、まだ不慣れである事実も読み取れた。


 少年は地面の下へと消え、大穴が残された。頼もしいナイトを失った晴香は、穴の淵で震えている。晴香が飲み込まれないよう、工夫した結果だ。


 レオは、無防備となった晴香に腕を伸ばす。


 邪魔者は全て消えた。俺の勝利だ。


 レオはそう確信する。『黒獅子傭兵団』は半壊状態だったが、問題はなし。晴香さえ手に入れられれば、全ては解決するのだから。


 悲願を叶える――。ラ・エル騎士団領のトップへ君臨し、国の腐った中枢を変革する。ゴミの山で生活する子供が決して存在しないように。それからベンハイム家の名を復興させ、シュキの意志を継ぐのだ。


 その希望が手の先にある。クラウ・ソラスのような、闇を照らす剣が。ワキガの少女が。


 巨大な手を広げ、大蛇のようにレオは晴香を掴みにかかった。彼女は、心底怯えきっており、逃げ出せずにいる。


 これで、晴香は俺のものだ。


 レオがそう思った時だった。


 左目に激痛が走る。直後、視界が暗転。レオは絶叫を上げた。


 左目に、何かが突き刺さっていた。小刀やナイフのような。


 誰かがこちらの左目に向かって、刃物を放ったのだ。爆薬の魔石を射った奴か、あるいは別の誰かが。


 ともかく、左目をも潰され、視力は完全に失われてしまった。


 真の闇が訪れ、平衡感覚も一時消失していた。『力』の維持が困難となる。


 身体に纏っていた残骸や瓦礫の塊が、剥がれ落ちていく。


 レオは、呻きながら、ふらりと倒れた。そして、そのまま、自ら築き上げたガラクタの山を転げ落ちていった。スカベンジャーとして過ごしていた時、幾度となく経験した感覚だ。


 転がり続け、やがて地面へと落ちたらしく、体は停止する。レオは体を起こそうと手足を動かした。


 突如、右腕の一部分が、かっと熱くなる。続いて左手。それから腹部、太もも。


 レオは悶え打った。近くに人の気配を感じる。いつの間にか接近していた誰か――おそらく、刃物を投げた奴――がこちらの体を切り刻んでいることがわかった。


『力』を発動させ、身を守らなければ。


 そう思った矢先、首筋に火箸を押し付けられたような痛みと熱さが生じた。そして、血が噴き出す感覚。


 レオは、自分が致命傷を負ったことを悟った。


 混濁していく意識の中、かつてゴミの山から眺めた騎士団領の煌びやかな景色が、脳裏にいつまでも明滅していた。

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