第十二章 落城の黒獅子

 レオ・ミリギィは、北ヴェスブ大陸にあるジャナという国で生まれた。


 ジャナは長年に渡る内戦や政府の統治能力の不足、及び腐敗により、周辺国と比べて極めて貧困な国であった。


 レオは、ジャナ国内でもさらに貧困に喘ぐ、農村の八人兄妹の三男として生活を営んでいた。農村とは名ばかりの、廃棄物が運び込まれる汚染された大地の中で。


 元々痩せた土地であり、作物も中々育たない場所であった。その上、目先の金に眩んだ国の安易な政策により、廃棄物指定地に選ばれた結果、作物の育成が不可能となり、農業では生計を立てることが困難となったのだ。


 そのためレオは、他の兄妹姉妹らと共に、ゴミ山を漁るスカベンジャーとして、日々の糧を得ることを選択せざるを得なかった。


 だが、そのなけなしの金すらもすぐに消えた。獣人の父はろくに働かず、母や子供たちから金を奪い、酒を飲むクズだったからだ。


 クズは、それだけではなく、母や子供たちに度々暴力を振るった。


 その父の口癖は、隣国であるラ・エル騎士団領の騎士たちについてだ。


 「俺もあの騎士たちのような立派な生まれだったらなあ」


 ラ・エルの騎士たちは全員が由緒正しい家柄の人間。掃き溜めで生まれた父とは対極の存在だろう。


 なぜ、父がいちいち騎士たちを槍玉に挙げていたのかは今でもわからない。ジャナへ遠征にきた騎士たちを目にしたかもしれないし、誰かから話を聞いただけなのかもしれない。


 いずれにしろ、負け犬同然の父にとって、羨望の対象だったのは確かだろう。


 父から暴力を受け、傷だらけでゴミ山に登るレオは、いつしか、ゴミの頂から見える騎士団領の華やかな建物に目を奪われるようになっていた。父の言葉通りだとすると、自分もあそこで生まれていたら、今のようなみじめな人生を送らなくて済んだのだと。


 だが、もうそれは決して叶わぬ夢なのだ。人は生まれ変わることなどできない。自分は地を這い、ゴミを漁るスカベンジャーとして生きる運命なのだから。


 レオは幼少を、地獄の地で過ごしていた。


 だが、ある時変化が訪れる。


 蒸し暑い夏の夜、盗賊がレオの住む家へ押し入ったのだ。一文なしと言っていいほど貧困な家庭であるはずの家に、盗賊が目を付けた理由は不明だ。だが、盗賊は父や母を殺し、兄妹たちを陵辱した後、皆殺しにした。


 唯一生き延びたレオは、命からがら家を逃げ出し、街に外れまで辿り着いた。


 そこは騎士団領との国境へ続く道。偶然か無意識か、気がつくとレオはそこにいた。


 背後を振り返る。薄汚い街が眼前に広がっていた。そしてもう二度と、その故郷に戻るつもりはなかった。


 レオは、騎士団領ラ・エルへと繋がる道へ一歩を踏み出した。


 楽園への階段を登り始めたかのような、高揚とした気分に包まれた。




 レオ・ミリギィははっと目を覚ます。


 天井の荒い木目が目に入る。同時に、体の下にあるベッドが地震のように一揺れした。


 レオはベッドから体を起こし、部屋の外へ出た。


 すぐに潮の香りが鼻をつく。さざ波の音と共に、船体へ波が当たる騒々しい音も聞こえてくる。


 視界一杯に大海原が広がっていた。エルドア大陸とヴェスブ大陸を挟む大きな海。コービング海だ。


 そのコービング海を、船団が海を割るようにして突き進んでいた。


 この船団は、レオ・ミリギィ率いる黒獅子傭兵団が所有する数々の船舶からなっている。レオが乗船している巨大帆船を中心に、鶴翼形に展開し、さながらクジラの群れのようだった。


 コービング海の中心に位置するアルタ諸島を出発した後、西に向かうこと二日間。あと少しでエルドア大陸へ到達する予定だった。


 レオは潮風に鬣をなびかせながら、甲板に立ち、空を見上げる。


 星河一天の夜空。煌びやかな星々が、降り注ぐかのように、船団を見下ろしていた。


 「団長、眠れないのですか?」


 背後から声がかかる。振り向くと、夜警の傭兵が立っていた。チトという名の虎の獣人だ。


 チトはレオの隣にやってくる。


 「目が冴えてしまってな」


 「興奮しているんじゃないですか? 例の素晴らしい香りの少女がもうすぐ手に入るから」


 「そうかもな」


 レオは再び夜空を見上げる。


 『音楽会』のメンバーの一人であるアルチナから、峰崎晴香の『ワキガ』の香りを紹介されてからというものの、レオの頭(正確には鼻)から『ワキガ』の香りの記憶が消えてくれなかった。


 寝ても醒めても『ワキガ』のことばかり考えてしまう。初めての経験だ。


 『音楽会』のメンバーであるロジーナとウィルが、どちらが先に晴香をものにするか喧嘩をしていたが、それはレオも同じ気持ちだった。


 連中に、先を越されるわけにはいかない。


 あの時、パジャマに染み付いていた遺香。嗅いだ『ワキガ』の香りは、暗闇を彷徨う者を光へと導く、暗香蓊勃と言えるほど高貴なものだった。


 漆黒の闇を漂った自分にこそ、相応しい香りだと言えた。


 峰崎晴香は必ず俺が手に入れる。手に入れて、飼い犬のごとく手元へ置いておこう。首輪を付け裸にし、好きな時、好きなだけ香りを堪能するのだ。


 そしてだ。『用途』はそれだけではない。他にも重要な役割を果たしてもらうつもりだ。


 「夜明けにはマロウス領の港へ着きますね」


 同じように、空を見上げていたチトが言う。


 「ああ」


 レオは顔を正面へ戻し、彼方を眺めた。暗闇に包まれてはいるが、エルドア大陸は輪郭を見せ始めているはずだ。


 大陸へ近づいたら迂回し、チトが言ったように、マロウス領内の港へ停泊する。それから上陸し、王都マロウスを目指すのだ。


 入国証明証には、部隊補助のためと明記してある。実際、各国が保有する軍隊の補佐として傭兵が加わることは少なくない。動機としては充分である。その上、根回しもしてあった。王都直前までは、難なくスルー可能だろう。


 だが、さすがに王都マロウス内部へ迎え入れられるほど甘くはないはずだ。それなりに優秀な大臣達が揃っていると聞く。おそらく、看破されるだろう。


 となれば、選択肢は一つ。強行突破しかない。こちらは峰崎晴香さえ確保できれば、勝利なのだから。


 現在、黒獅子傭兵団総出で出向いている。誰もが百戦錬磨の猛者。雑兵など容易に蹴散らせるはずだ。ゲオルグといった、マロウス一の実力者がいようと相手ではない。


 特に『落城の黒獅子』である自分なら、一人でも陥落可能だろう。


 確実に峰崎晴香は、我が手に収まるのだ。


 レオは鼻腔一杯に磯の香りを吸い込んだ。もうじき、この香りが晴香の『ワキガ』となる。実に楽しみだ。


 その後レオは、チトと二、三言葉を交わし、自室へ戻った。


 レオはベッドへと入り、晴香を手に入れた後のことを想像しながら、再び眠りへと落ちていった。




 レオ少年が騎士団領ラ・エルへ侵入を果たしてから、一週間が経過していた。


 レオは心底弱りきっていた。


 本来堅牢なはずの騎士団領へ、どうやって自分が入国できたのかはわからない。身分も不明、みずぼらしい獣人の子供を入管が通してくれるとは思えない。だが、不思議なことに、気がついたら、ラ・エルの内部で佇んでいたのだ。


 故郷の農村とは、比べものにならないほど壮麗な街並み。区画整理された道を、華やかに着飾った人々が優雅に歩いている。


 夢にまで見た光景を目の当たりにし、レオの頭からは、なぜ自身が入国できたのかの疑問など簡単に吹き飛んでいた。


 もうこれで、みじめな人生から解放される。


 レオ少年は、光り輝く希望を抱き、美しく彫刻が施されたタイルを蹴って、路上を駆け出していた。


 それから一週間が経過する。レオは身も心も擦り切れていた。一週間ろくに食べ物を口に入れておらず、まともに眠ってもいなかった。


 当然の話である。身寄りもなく、着の身着のままの獣人の少年が、一人で他国へ不法入国し、まともに生活ができるわけがなかった。


 当初から食べ物に不自由をした。寝る場所もだ。レオは、ホームレスのような生活を余儀なくされていた。


 警備隊に助けを求めたこともある。だが、門前払いを受けた。それでもしつこく縋り付くと、今度は石を投げられた。レオ少年は退散する他なかった。


 路地裏の片隅で、膝を抱え、大通りを歩く人々の姿を眺める。高貴に着飾った人々は、みずぼらしい獣人の少年には目もくれなかった。


 無関心に通り過ぎるいくつもの足。まるで、お前はこの世に存在してはいけないとでも言われているような気がした。


 ストリートチルドレンになってから、レオはこの国の実情を知った。表向きは優雅で高潔な騎士団領の街なのだが、目に付かない路地裏に入ると、そこはホームレスやストリートチルドレンが跋扈する薄汚れた世界だった。


 路地裏の世界にも秩序が存在する。幼く、新参者であるレオを、彼らは歓迎しなかった。食料を得る機会かあっても、レオには回されなかったし、奇跡的に手に入れても、奪われてしまう。寝床すら追われた。


 夢にまで見た楽園は、ゴミの山よりも過酷な野性の世界でもあったのだ。


 弱りきったレオは、汚れた地面へ体を横たえる。昨夜から熱っぽく、体がだるかった。風邪をひいたようだ。昨日雨に打たれたせいかもしれない。なにせ、屋根がある場所すらろくに確保できなかったのだから。


 レオは横たわったまま、相変わらず無関心に通り過ぎる豊かな人々の足を眺めた。自分のいる場所と、彼らのいる場所。そこが光と影のように、くっきりと分け隔てられていることがわかった。


 ――俺もあの騎士達のような立派な生まれだったらなあ。


 今は亡き、父の言葉が脳裏に蘇る。彼は、正しかったのかもしれない。この国に住むことは、大して意味を成さないのだ。大事なのはここで生まれること。それ以外、幸福へ至る道は存在し得ないのだ。


 それは、この国に限らず、いつの時代、どの場所でも同じかもしれなかった。結局のところ、運に過ぎないのだ。


 自分は、その運に恵まれなかっただけの話。ゴミ山で生まれ、ゴミを漁って生活し、父親に殴られ、薄汚れた路地裏で死んでいく。それが運命。誰からも手を差し伸べられないし、誰からも省みられない人生。


 道往く人々の足を見ていたレオ少年の意識が、朦朧となっていく。発熱と空腹による混濁。じきに死んでしまうことが自分でもわかった、


 だが、もうそれでも良かった。こんな人生はすぐにでも終わらせたい。辛くて堪らなかった。


 やがてレオの視界が暗くなる。レオは、迫りくる闇に身を任せようとした。


 その時だった。


 「大丈夫か?」


 頭上から声が聞こえた気がした。




 「投錨!」


 黒獅子団長のレオの声が響き渡る。


 予定通り、マロウス領内にある港街、ハーブンへと到着した黒獅子傭兵団は、無事停泊を果たした。


 入国許可も難なく下り、レオたち傭兵団は、マロウス領へと足を踏み入れる。


 「全部隊前進!」


 黒獅子傭兵団は、馬車と馬からなる隊列を作り、ハーブンの街を進み始めた。レオが乗る重厚な戦闘用馬車は、隊列の中央にある。


 隊列は風車小屋が連なる港周辺を抜け、街の外周部へ向かう。


 馬車の窓からは、物々しい雰囲気により、街の住人たちが道を開ける姿が見えた。


 「簡単にマロウスへ到着できそうね」


 隣に座っていたカットが、窓から顔を離し、話しかけてくる。カットは遊撃隊の隊長で、猫タイプの女獣人だ。


 「ああ。マロウスまではな。まあそれまで他国の遊覧を楽しむとしよう」


 レオは悠然と答え、馬車の椅子へ深く腰掛けた。


 しばらく馬車に揺られ続け、ハーブンを出る頃。馬車へ同乗している、ネズミの獣人のピサマーが口を開く。


 「レオ隊長、我々の目的である峰崎晴香捕縛について質問なのですが……」


 ピサマーは喉に何かがつっかえているような、極めて言い難そうな風情でそう言った。ずっと、胸の内にしまっていたことがあるようだ。


 レオは、顎をしゃくって先を促す。


 ピサマーは質問をした。


 「峰崎晴香捕縛のための作戦概要は理解しました。それに、おそらく上手くいくだろうということも。しかし、お聞かせてください。レオ隊長が求める少女が、一体、どれほど重要な存在なのでしょうか? 『ワキガ』なる香りが、黒獅子傭兵団全部隊を動員するほど価値があるものなのでしょうか」


 ピサマーは、眉根を寄せていた。心底疑問を感じているようだ。おそらく、拠点で今回の作戦内容を聞いた時から、ずっと疑心を抱えていたのだろう。


 レオは何も言わず、馬車内を見回す。この馬車には、様々な武具が備えられている他、各隊の隊長も複数名同乗していた。


遊撃部隊隊長カットを始め、切り込み部隊隊長である猪の獣人ガルトや、工作部隊隊長、狐の獣人レンバ、そして疑問を投げかけた隠密部隊隊長のピサマーなど、そうそうたる顔ぶれが揃っている。彼ら一個人でも、そこらの国の小隊など優に凌駕する戦闘力を持つ実力者だ。


 その手練たちが、こちらを一斉に注視していた。各々の表情を見ると、全員がピサマーと同様の疑問を抱えていたことは明白だった。


 仕方がないと言えば仕方がない。こいつらは皆、峰崎晴香の『ワキガ』の香りを嗅いでいないのだ。もしも嗅いでいたら、少しも疑問に思うことなく、我先にと晴香を追い求めていただろうが……。


 残念ながら、例の『ワキガ』が染み付いたパジャマの切れ端は、アルチナが持って帰ってしまった。そのため、晴香の『ワキガ』の素晴らしさを証明する手立てがなかった。


 レオは、諭すように言う。


 「俺を信じろ。晴香の『ワキガ』を嗅げばお前らも納得するはず。延頸挙踵して待て」


 しかし、ピサマーは引き下がらなかった。突き出た鼻をひくつかせ、深刻な様相を浮かべる。


 「それが信じられないのです。我々が今からやろうとしていることは、一国への反逆と同義。下手をすると各国を敵に回し、黒獅子傭兵団そのものが瓦解する危険があります。今ならまだ引き返せるのです。どうかお考え直しを」


 ピサマーの説得に対し、レオは瞑目し、腕を組む。相手の言葉を聞き入れないスタンスだ。レオの中では、すでに答えは出ているのだ。峰崎晴香を決して、逃しはしないことを。


 レオの様子を見て困り果てたのか、ピサマーはため息混じりに言葉を吐く。


 それは、決して言ってはならないことだった。


 「元ラ・エル第四騎士団団長であり、現黒獅子傭兵団の首領ともあろう方が浅慮を。たかだか一人の小娘の体臭が一体何だというのです? 『ワキガ』などただの世迷言。お目をお覚ましください」


 ピサマーが、そこまで言った時だ。レオは、かっと目を開いた。心の底から、怒りが込み上げてくる。レオの身を、眥裂髪指の炎が包む。


 風圧が生じ、トマトを潰したかのように、ピサマーの頭部が弾けた。脳漿や頭蓋骨の破片が飛び散り、馬車の天井や壁を赤く彩る。


 椅子へ残されたままのピサマーの体は、少しばかり震え、そして、首の断面から血を噴水のごとく噴出させた。まるで巨大な彼岸花が咲いたかのようだった。


 たちまち血の海に染まった馬車内は、一気に温度が低下したかのように、シンと静まり返る。ピサマーの血を全身に浴びた各隊長たちは、一様に口を噤んでいた。


 レオは立ち上がり、彼らに対し、咆哮にも似た叫びを発した。


 「貴様らも俺を疑うな! 俺が峰崎晴香を手に入れると言ったら手に入れるんだ! 口を閉じ、黙って従え!」


 レオの喑噁叱咤に、隊長たちは顔を青ざめさせ、皆同時に頷いた。


 椅子へ座り直し、レオは思う。


 俺の悲願を阻むものは許せない。必ず峰崎晴香を手に入れる。手に入れて、そして……。


 レオは窓の外へ目を向けた。


 すでに馬車はハーブンの街を後にし、草原へと進出していた。二日もあればマロウスへと到着するだろう。


 もう少しだ。もう少しで俺は、悲願を成就させられるのだ。


 陽光に照らされた草原は、自身を歓迎するかのように、光り輝いているようだった。




 レオ少年はふと目を開けた。


 綺麗に装飾された天井が目に入る。見たことないほど豪華な照明もだ。どうやら、自分は仰向けで寝ているらしい。


 レオは、ゆっくりと体を起こした。少しだけ眩暈がする。体を見下ろすと、ベッドに寝かされていることに気づく。これまで、この面積を、兄妹全員で寝ていたくらいの大きさを持つベッドだ。


 レオは周りを見回した。とても広い部屋だ。名前すらわからないほど美しい美術品や、豪勢な家具も置かれてある。


 ここは、一体どこだろう。自分は路上で死んだはずでは……。


 もしかすると天国かもしれない。レオ少年はそう思った。この美麗さは、前に聞いたことのある天上の風景に似ている気がした。


 そこまで考えた時だ。部屋の扉が開いた。身なりの良い獣人の男が、部屋に入ってくる。背後には、二人のヒューマンの女性が続いていた。


 獣人の男は、ベッドのそばまでやってくると、レオへ訊く。


 「どうだい少年。具合のほどは」


 レオは状況が飲み込めず、体を起こしたままきょとんとしていた。そのレオの体を、男の後ろにいた女性二人が触り始める。


 触診されていることがわかったレオは、二人に身を任せた。同時に、左腕に細い管のようなものが刺さっていることにも気づく。


 レオの様子を観察していた獣人の男は、柔らかい物腰で言った。


 「どうやら随分と体調が戻ったようだな。一安心だ」


 獣人の男は、ひとしきり頷いた。


 女性に脈を測られながら、レオは男にかすれた声で質問する。


 「あの、あなたは?」


 レオの質問に、男は姿勢を正すと、自身の胸に手を当てた。


 「私の名前はシュキ・ベンハイム。ラ・エル第五騎士団団長を務めている者だ」


 シュキは、そう自己紹介を行った。目にした誰もが心を許すような、柔和な笑顔で。


 レオにとって、人から笑顔を向けられるのは、初めての経験だった。


 レオは自身の心の中に、微かな温かみが生まれたことを自覚した。


 侍女の検診後、シュキは、レオを救った経緯を話してくれた。


 騎士団の会合を終え、帰路を急いでいた時、路上の片隅で倒れているレオを発見したそうだ。声をかけても返事はなし。顔に触れると、高熱を持っている。


 シュキは慌ててレオを抱えると、自宅へと運び入れ、治療と点滴を施したらしい。それからレオは、二日間ほど眠り続けたようだ。


 続いてレオは、なぜ自分を助けてくれたのか理由を尋ねた。


シュキは、当然のように答える。


 「死にかけの人間を放っておけるわけがないだろう」


どうやらシュキは、ラ・エル騎士団の中でも特異な人間らしい。 


 話を聞き終えたレオは、たどたどしい口調で、命の恩人へ礼を述べた。シュキは、笑顔で優しくレオの頭を撫でてくれた。


 とても暖かく、まるで父親のようだ、と思った。


 気がつくと、レオは泣いていた。そのレオをシュキは、力強く抱きしめてくれた。


 その後、すっかり体調が戻ったレオは、ベンハイム家にて世話になることになった。


 読み書きが出来なかったレオへ、シュキは専属の教師をつけ、教育を施してくれた。必要な礼儀作法も教えられた。また、剣術や格闘術全般も叩き込まれた。


 ラ・エルにレオがやってきてからわずか数年で、レオは立派な一人の獣人の男となった。


 その頃には、レオは自身の姓をベンハイムと名乗っていた。公的な書類上もベンハイムである。方法はわからないが、シュキが手を回し、公的な情報を操作したようだ。


 そのため、名実と共に、レオはれっきとした騎士の息子を名乗っていた。


 ゴミの山で生き、夢にまで見た聖地で希望を打ち砕かれ、死を目前とした少年は、今や誰もが羨む名家の生まれとなったのだ。


 父であった男の言葉を、今でも思い出す。


 ――俺もあの騎士達のような立派な生まれだったらなあ。


 自分は、あの男の願望を実現したのだ。


 俺はあのクズとは違う。運命に打ち勝ち、奇跡を手にしたのだから。


 それから数年後、レオは成人を迎え、無事騎士団入りを果たした。配属されたのは、騎士団第四部隊だったが、隊の皆は拍手と共にレオを歓迎してくれた。


 元より騎士団は、由緒正しい家柄の者しか入隊できない。八部隊からなる騎士団の隊長の子息が入隊であるならば、腹の中がどうであれ、快く迎え入れないわけがなかった。


 騎士団入隊後のレオは、すぐに頭角を現した。昇り竜のごとく、出世をしていった。周りは親の七光りで育ってきた連中。地獄の底を彷徨った自分とは、下地そのものが違うのだ。


 やがてレオは、隊長の座へと就いた。隊の皆は祝福してくれたし、シュキも諸手を挙げて喜んでくれた。


 これで、シュキの期待に応えることができた。ベンハイム家の名声も、さらに高まることだろう。


 レオは、ようやくシュキへ恩返しができたことを誇りに思った。


 順風満帆の人生。これまで自分の半生からでは考えられないほどの、充実した日々。ゴミ山の頂から、さらにその上にある天上へと登ったことをレオは確信した。


 だがしかし、人の人生は、思わぬところから瓦解する。そのことをレオは知った。まるで、登っていたゴミ山の足元が突然崩落し、転落するかのように。


 今でも覚えている。ある晩、レオの元へ書簡が届いた光景を。


 その書簡には、シュキが殉死した旨が記載されていた。


 遠征に赴いた際、盗賊集団との小競り合いが発生し、流れ矢に当たった末、死亡したそうだ。


 屋敷へと帰ったシュキの遺体を前に、レオは泣き続けた。実の父が死んだ時には一滴も流れなかった涙が、留め止めもなく溢れた。


 しかしレオは、それでも心折れなかった。自分がベンハイム家の名を継ぎ、さらに邁進することこそが、シュキの無念を晴らすことに繋がるのだと信じたからだ。


 だが、それすらも打ち崩される出来事が発生した。


 シュキの葬儀が終わった頃、レオは査問会へと呼び出されたのだ。


 査問会の老人たちは、その場でレオに対し、騎士団の除名処分と、家名の徴収、それから国外追放の命を告げた。


 狼狽するレオが理由を尋ねると、老人たちは理由を話した。それは、一部の人間しか知らないはずの、一つの真実であった。


 彼らはなぜか、レオがシュキの実子ではないことを知っていた。そればかりか、貧困国であるジャナ出身であること、不法入国者であることまで突き止めていた。


 おそらく、シュキ死亡後、身辺整理を行っていた騎士の誰かが、僅かに残された痕跡を発見したのだろう。


 レオは必死に弁解を行ったが、慈悲はなかった。三日間の猶予を与えられ、その間に国外へ出なければ、投獄するとの達しだった。


 突如、窮地に立たされるレオ。彼を味方する者は誰もいなかった。それまで英雄のようにレオを讃えていた部下や同僚たちも、事実を知ると、まるで汚物であるかのようにレオに接した。


 「ゴミ捨て国の出身者め」


 「下等生物が」


 別部隊の隊長たちの口から発せられた言葉だ。


 ジャナのゴミの大半は、この騎士団領から送られている。彼らにとって、ゴミ捨て場から生まれた人間など、ネズミや野良犬とそう変わらないのだろう。


 やがてレオは、国外追放となった。


 それまで築き上げたものを全て失い、再び地の底へと落ちた元騎士団団長は、残酷な世界へと放り出されたのだ。




 王都マロウスを望む草原に、黒獅子傭兵団は陣形を展開していた。


 今頃マロウス城内では、この出来事に大騒ぎしていることだろう。何せ、突如として大勢の兵隊が攻め入ろうとしているのだから。


 すでにマロウス内へと通じる門は、危機を感じた検問の兵士により下ろされている。


 しかし、それは無駄な抵抗であった。通常なら、破城槌でも用いなければ突破は難しいだろうが、レオの『力』ならば、障害にすらなっていなかった。


 その『力』があるからこそ、戦闘が始まるというのに、現在レオは軽装であった。武器も簡略的なものしか身に付けていない。これで充分だからだ。


 陣形の先頭へ立っているレオは、号令をかける。


 「全部隊、前進!」


 号令を合図に、黒獅子傭兵団は、前へとゆっくり進み始めた。


 レオの後ろには、ガルト率いる切り込み部隊が展開し、さらにその後ろに騎兵部隊、歩兵部隊と続き、最後に制圧部隊が配置されている。


 左翼には猫の獣人カットを隊長とする遊撃部隊が、それから、隊長死亡のため、新しい隊長へと変更された工作部隊が縦に並んでいる。右翼には、レンバ率いる隠密部隊と、補助部隊が続いていた。


 門を突破した後は、切り込み部隊が先陣を切り、活路を開く。それから、騎兵部隊と歩兵部隊が進行し、制圧部隊がその場で拠点を作る。


 遊撃部隊は、工作部隊と組み、先行して部隊の進行ルートを確保。隠密部隊は方々に散って、各々の役割を果たす。


 奇襲とも言えるこの状況下だ。マロウス側は、迎え撃つ部隊の編成もままならないだろう。黒獅子騎士団の突破力ならば、城まではこちらの損害を出すことなく進めるはずだ。


 ――おそらく、城に彼女はいる。『ワキガ』の少女、峰崎晴香が。


 晴香を発見し次第、捕縛し、確保する。その後は速やかに全軍撤退だ。


 晴香さえ手に入れてしまえば、マロウスにはもう用はない。ただの攻城戦より、スムーズに完遂できる算段だ。


 彼女の『ワキガ』の匂いを嗅げば、部隊の誰もが今回の作戦を納得してくれるだろう。そして、黒獅子傭兵団で晴香を飼育する。薬物でも魔石でも使い、徹底的に晴香を服従させるのだ。


 晴香が従順になった暁には、『本当』の目的を達成するための道具として、存分に活躍してもらうつもりであった。


 騎士共に――驕り昂ぶり、生まれの威光だけが武器の、腐ったクズ共に報復するための道具として。


 前進を続ける黒獅子傭兵団は、マロウスへと接近した。


 レオの眼前に、門が迫った。




 国外追放を受けたレオは、その後、各地を放浪した。名前はかつての姓、ミリギィを名乗っていた。


 家名を没収されはしたが、ラ・エルを出たのだから、ベンハイムの姓を名乗ることはできる。しかし、シュキを冒涜しているようで、その気は起こらなかった。


再びベンハイムを名乗る時は、正式に家名を取り戻してから。そう決めていた。


 放浪して一年ほど経った頃。レオはとある一つの傭兵団に入団した。


 食い詰め者ばかりがいるような傭兵団であったが、レオはそこでも目覚しい活躍をみせた。落ちぶれたとはいえ、元騎士団の団長である。駆け上がることは難しくなかった。


 やがて短期間でレオは、傭兵団の頭領の座へと就いた。


 その時に、傭兵団の名前を『黒獅子傭兵団』と改めた。


 レオが頭領となってからというものの、着実に『黒獅子傭兵団』は、巨大な組織となっていった。


 そしてちょうどその頃に、レオは自身がとある『力』を持っていることを知った。物語の中でしか存在し得ないような、不可思議な異能。それが我が内にあったのだ。


 レオは『力』を行使し、障害を排除していった。単独で一国の城を陥落させ、『落城の黒獅子』と呼ばれるようになったのも、この頃からである。


 ほどなくして、フェリックと名乗る紳士から『音楽会』なる組織への加入を打診された。怪しげな組織だったが、既存メンバーや組織の概要を知ると、この先、利用価値があると判断し、レオは加入を決めた。


 やがて『黒獅子傭兵団』は、一国の軍隊ほどの戦力を誇る傭兵団となった。


 レオは再び、別の形で確固たる地位を築いたのだ。


 だが、レオの目指すべき場所はそこではなかった。


 騎士へと返り咲き、ベンハイム家の名前を再び手にする。そして、騎士団領のトップへ君臨する――。


 これこそが、レオの悲願であった。


 アルチナから峰崎晴香の『ワキガ』を紹介された時、その芳香に酔いしれ、手中に収めたいと欲する傍ら、これほどの香りならば、あの騎士共も篭絡できるのではとの考えが頭をよぎった。


 少なくとも、大きなイニシアチブになることは間違いないだろう。取引材料にもできるはずだ。


 『黒獅子傭兵団』と自身の『力』。そして、晴香の『ワキガ』の芳気を以ってすれば、レオの悲願は、決して難しいことではなかった。


 レオが騎士団領の頂点に立ったその時には、必ず変えてやるつもりだった。出自で全てが決まる腐りきった風潮を。


 決して認めるわけにはいかなかった。隣の貧しい国へゴミを押し付け、贅を貪る気取った貴族たちを。その貧しい国の出身者をネズミのごとく扱う騎士共を。


 シュキのように、死にかけの弱者へ手を差し伸べる者こそが『騎士』なのだ。




 「全部隊停止!」


 迫った門を前に、レオは停止命令をかけた。


 黒獅子傭兵団は、ぴたりと進行を止める。王都マロウス前の草原は、静けさに包まれた。


 レオは、わずかの間、目の前にそびえ立つ巨大な門を見上げていたが、やがてゆっくりと両手を大きく広げた。


 まるで愛する人を、胸の中に抱き止めるかのような仕草――。以前、カットからこのアクションに対し、そのような感想を言われたことがある。レオは一笑に付したが、今にして、なるほどと思う。間違った表現ではないだろう。


 両手を広げたままのレオを、配下の傭兵たちが背後から見つめる中、それは起きた。


傭兵団を囲む草原の地面が、かすかに振動を始めた。地震と言うよりかは、モンスターの群れが突き進むかのような、断続的な地響きだった。


それが、次第に大きくなっていく。


そして、地響きの正体となる物が、大量にレオの方へ向かってきた。


 それは岩だった。草原の至る所にある、何の変哲のない鉱物。大小入り混じる岩石が、引き寄せられるようにして、あちこちからレオの方へ転がってきているのだ。


 岩だけではない。打ち捨てられた甲冑や武器、落下し放置されていたであろう、馬や馬車の錆びた装具なども集まってくる。次々と、途方もない量が。


 それらの物体は、広げられたレオの両手へ纏わり始めた。磁石に集まる砂鉄のごとく。


 やがて、レオの両腕に集まった物体は、巨人のような大きな『腕』となった。門を超えるほどの長さと、馬車以上の太さを持つ、がらくたが寄り集まった怪物の腕。


 レオは、気合の言葉を入れると、その腕を目の前の門へ叩き付けた。


 外界と城下町を隔てる大きな門は、いともたやすく粉砕され、残骸が吹き飛んだ。門の内側で待機していたであろう、兵士たちの悲鳴が聞こえてくる。


 「全軍侵入! 各自任務を果たせ!」


 レオの号令で、黒獅子傭兵団は、次々に開通した門へとなだれ込んだ。


 その光景を眺めながら、レオは心に誓う。


 変えてみせる。必ず。決してあってはならないのだ。幼い子供たちが日々、ゴミを漁り、隣の豊かな国を見つめる世界など。


 あの時、ゴミ山から目にした煌びやかな街並みに対する羨望は、今もなお、レオの心を焦がしているのだから。

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