第十一章 後悔と償い

 アンルコ大陸の南方に位置する国、スヴェーア。


 アンルコ大陸の中にある国では広大な領土を誇っており、人口も多い。鉱物資源が豊富で、魔石が多く産出される土地でもある。


 ドルボ海に面しているため、貿易も盛んであり、魔石を主とした取引を行っていた。南にあるエルドア大陸とも交易が多く、特にマロウス国とキロル連邦との貿易が顕著であった。


 スヴェーアの首都は、国の中央近くにあるフォルクだ。近代的な都市であり、国の人口の一割が都市部に集中している。


 そのフォルクにて、史園清茂は生活を営んでいた。異世界へと転生し、定住してからずっとだ。


 現在はもう清茂は生活に不自由していなかった。職を得て、働きもしている。


 清茂の仕事は大工であった。親方に人品骨柄を気に入られ、歓迎を受けた末のことである。今はすでに、親方の期待以上の働きを示し、全幅の信頼を得るに至っていた。


 以前の世界とは勝手は違うものの、すでに異世界に適応している清茂。


 そして、今はスキルすら発現していた。


 だが、滅多なことではスキルを使用することはなかった。可能な限り、この不可思議で強大な力には頼らず、自分の力で生活を送ろうと決めていた。


 もしも使うのであれば、他者を救う時だけであると。




 清茂は仕事帰りに買い物を済ませ、フォルクの西区を家へと急いでいた。買い物袋を手に持ち、足早に路上を歩く。


 太陽が西の山間へ沈みいき、赤い光を投げかけていた。周囲には人影がなく、清茂のみが血のような夕日を一身に受けている。


 西区にあるこの近辺は、とても閑静な場所だ。ただ、高級住宅街のような静けさではなく、ボロ屋が軒を連ねるような、汚れた袋小路を思わせる陰鬱な静けさだけがあった。


 この地区は、あまり治安が良い場所ではない。普段は別ルートを使って家へ帰っていたのだが、今日は仕事が長引いたため遅くなり、清茂は近道をしようと、滅多に通らないこの場所へ足を踏み入れたのだ。


 面倒事に巻き込まれなければいいが。


 清茂は、ジャガイモや玉ねぎなどの食材が入った袋を握り締めた。


 そこで、ふと誰かの声を聞いたような気がした。


 清茂は立ち止まり、辺りを見回す。だが、目に付く所に人はいない。寂れた街並みと、汚れた路上が広がっているばかりである。


 気のせいかと思った時だ。再び声。清茂は、はっとする。今度ははっきと聞こえた。この通りではなく、路地裏の方からだ。


 清茂は導かれるようにして、路地裏へと足を向けた。




 「やめてください!」


 女の悲痛な叫び声が、路地裏へとこだまする。あばら家ばかりとはいえ、ここは住宅街の真ん中。すぐにでも誰かが声を聞き、外へ飛び出してきてもおかしくなかった。


 しかし、寂として動きはなし。湿っぽい空気が漂うばかりだった。


 スロウスキは、薄笑いを浮かべた。ここは叫び声程度では、誰も助けにくることはない無秩序な場所である。


 叫び声を上げたのは、目の前にいる二十代半ばほどのヒューマンの女だ。自分と同じ種族。今回、我々が標的に選んだ哀れな犠牲者である。


 スロウスキは、手にしたボウガンを構え、女へと突きつけていた。相棒のコンピスは獣人らしい逞しい体格で、女へ迫っている。


 女は壁を背にし、心底怯えていた。反面、こちらは余裕綽々だ。コンピスと共に、薄ら笑いを浮かべている。


 コンピスが口を開く。


 「観念してパンツを下ろしなよ。お嬢さん」


 コンピスは、女へ詰め寄った。そして、震える女のスカートへ太い腕を伸ばす。


 「やめて!」


 女は、コンピスの手を振り払おうとする。だが、逆に掴まれてしまった。


 「大人しくしろよ。抵抗するだけ痛い目みるからな」


 コンピスは、女を羽交い絞めにかかる。


 もうここまでくれば、こちらのものだ。誰も助けにこないし、逃げ出すことも不可能。この女は、男二人に陵辱される運命を受け入れるしかないのだ。


 スロウスキは、この後繰り広げられる痴態にほくそ笑んだ。久しぶりにありつける女だ。思いっきり愉しませてもらおう。


 ついつい、手に持ったボウガンに力がこもってしまう。


 その時だ。路地裏に逞しい声が響き渡った。


 「止めるんだ。お前たち」


 スロウスキは、声の主の方へ顔を向ける。そこには、十代半ばほどのヒューマンの少年がいた。


 その少年は眼鏡を掛けており、頭髪は短く綺麗に切り揃えられている。とても真面目かつ、大人しそうな雰囲気だ。貧弱なガキにしか見えない。


 ただ、手に持った買い物袋だけが、妙な存在感を放っていた。


 スロウスキは、コンピスと顔を見合わせる。しばし硬直した後、お互いに肩をすくめた。


 どうやらこのガキは、正義のヒーロー気取りでここへ駆けつけたらしい。身の程知らずにも程がある。


 女も頼っていいものかどうか、困惑したような表情を浮かべていた。


 「何だ? 坊や。お前も混ざりたいのか?」


 コンピスがニヤニヤした顔で、少年へ歩み寄っていく。少年は微動だにせず、凛とした表情で、コンピスを見つめていた。


 コンピスは、ヒューマンよりも遥かに体格がある獣人だ。詰め寄られただけでも、大抵のヒューマンは恐怖を覚えることだろう。


 それに加え、腕っ節も随一だ。以前フォルクの治安維持隊とやり合った際、拳の力だけで兵士のヘルムを陥没させ、重症を負わせた実績がある。


 少年の眼前まで接近したコンピスは、訊く。


 「もしかして坊や、そんなナリで俺ら二人とやり合えると思ってんの?」


 少年はあっさりと頷いた。


 「その通りだ。だから、君たちに怪我をさせたくない。見逃してやるから、さっさとここを去るんだ。それと、僕の名前は清茂。坊やじゃない」


 清茂と名乗る少年は、真面目な顔付きでそう言った。どうも本気らしい。


 スロウスキは、思わず噴き出した。コンピスも腹を抱えて笑っている。


 「馬鹿かお前。子供は帰ってママのおっぱいでも吸ってろよ」


 コンピスは、揶揄した調子で言葉を吐くと拳を作り、右腕を振りかぶった。


 獣人特有の太い腕が、清茂へと繰り出される。ヘルムさえも陥没させる、右のストレートパンチ。


 清茂の方は尻込みしているのか、一切、怯むことも避けることもしなかった。あれではまともにパンチを受けて昏倒するか、もしくは、死んでしまうだろう。馬鹿な奴だ。


 だが、そこで驚くべきことが起こる。


 清茂少年は、自分へと打たれたストレートパンチを、まるでお手玉をキャッチするかのように、いとも容易く片手で受け止めたのだ。


 コンピスは拳を掴まれたまま、ぎょっとした表情を浮かべる。動揺している様が、ここからでも見て取れた。


 「お、お前……」


 コンピスがそこまで言った時だ。清茂は、掴んでいた拳を離すと、コンピスの肩を軽く押した。それは、突き飛ばすのではなく、友達とじゃれ合う時くらいの、ソフトな力であった。


 だが、コンピスは、跳ね飛ばされたかのように、勢いよく後ろへ吹き飛んだ。そして、壁へ激突し、地面へ崩れ落ちてしまう。それからは、微動だにしなかった。


 コンピスは、気絶したのだ。


 スロウスキは、あんぐりと口を開けた。一体、何が起きた? あの獣人を簡単に昏倒させるなんて。


 スロウスキは、声を震わせながら訊く。


 「お前、何をした?」


 だが清茂は、質問に答えることはなかった。ゆっくりと、こちらへ向かってくる。


 スロウスキはたじろいだ。地面へ倒れているコンピスと、向かってくる清茂を交互に見比べる。得体の知れない恐怖が、足元から這い上がってきた。


 女は目の前の出来事に圧倒されているのか、ただ目を丸くしているだけだった。

 スロウスキは、手に持っているボウガンを清茂へ向けた。


 「動くな!」


 スロウスキは、声を張り上げる。


 しかし、視線の先の少年は歩みを止めなかった。それまでこちらが浮かべていたように、余裕綽々の顔で近づいてくる。


 立ち止まる気配のない相手を見て、スロウスキは決心した。やるしかない。


 今はチンピラ紛いな人生を送っているが、これでも学生時代は弩術で国際大会にエントリーされたことがあるほど、ボウガンの扱いには長けていた。


 そして、その腕前は今でも劣っていない。少し前に治安維持の兵と小競り合いをした際、針の穴を通すような精密な射撃で、兵たちの甲冑の隙間をピンポイントで射抜き、何人もの兵を死に至らしめたのだ。


 長年の経験で、自分には矢の軌跡が見えるようになっていた。しかも、一本ではなく、予測しうる分だけの複数の軌跡が。


 いくら得体の知れないガキが相手だろうと、ボウガンで急所を射られたら死ぬはずだ。そして、それをこなすことは、自分にとって造作もないことである。


 スロウスキは、清茂の腹に狙いを定めた。だが、もう一つ、軌道が眉間へと伸びている。急所へと導く死の軌跡。


 スロウスキは、ボウガンの矢を放った。だが、放つ寸前、矢の先を相手の眉間へと方向修正をした。フェイントである。


 狙いは正確だった。矢はまっすぐ、清茂の眉間へと一直線に向かって飛んでいく。清茂は反応できていない。確実に仕留められるはずだ。


 だが、スロウスキは目を疑った。矢は眉間に到達する寸前、清茂の手によって、軽く掴まれたのだ。コンピスの時と同様、遅いボールをキャッチするかのように。


 「は……」


 スロウスキは、目を見開き、絶句する。ありえなかった。狙いを見切るだけではなく、放たれたボウガンの矢を空中で掴むだと?


 それに、妙な点をスロウスキは発見していた。こちらは軌道が見える。放たれた矢が、相手の眉間へ接近した際、向かい風を受けたかのように、ガクンとスピードを落としたのだ。


 「何なんだお前は!」


 スロウスキは怒鳴った。


 清茂は矢を捨て、買い物袋を手にしたままこちらへと迫る。


 スロウスキは、ボウガンに矢を再装填しようとした。次は足を狙うしかない。足ならな、受け止めることは不可能だ。


 その時、頭部に衝撃が走った。そしてスロウスキの意識が暗くなる。


 投石を受けたのだと思った。だが、崩れ落ちる寸前、周りに散った残骸を見て、考えを変える。


 これはじゃがいも……?




 買い物袋の中に入っていたじゃがいもの投擲を受け、ヒューマンの暴漢はその場に倒れ伏した。


 打って変わって、静けさに包まれる路地裏。太陽も随分と傾いたらしく、暗闇に覆われつつあった。


 清茂は、壁際で慄いている女性の元へ歩み寄る。


 「ご無事ですか?」


 清茂が声をかけると、女性はひっと怯えた表情をみせた。一部始終を目撃したせいで、こちらに対しても恐怖を覚えているようだ。


 清茂は穏やかに微笑み、女性へ言う。


 「もう大丈夫ですよ。暴漢はしばらく起きてこないですから」


 女性は清茂の柔らかい表情を受け、少しばかり心を開いたようだ。声をかすれさせながら訊く。


 「あ、あなたは……」


 清茂は、自分がここに辿り着いた経緯を手短に話した。


 話を聞き終わった女性は、頭を下げる。


 「そうだったんですね。助けてくれてありがとうございました」


 女性の顔色は随分とマシになっていた。警戒心も随分と薄れたのだろう、清茂を見る目には、もう恐怖の色は宿っていなかった。


 「家までお送りしましょう」


 清茂は倒れている男二人をその場に残したまま、女性をエスコートして路地裏を離れた。


 帰路の最中、彼女は不思議そうに質問を行う。


 「さっきの男の人たちなんだけど、あなた何をしたの?」


 清茂は少しだけ考えた後、答える。


 「格闘術というやつですよ」


 「ふーん。じゃがいもを使って倒したのも?」


 「はい」


 清茂は首肯した。


 「格闘術ってすごいのね」


 女性は清茂の誤魔化しを信じたようで、勝手に納得してしまう。


 そして、彼女は再び質問をした。


 「どうやってそんな技術を身に付けたの?」


 清茂は片頬を上げ、静かに答える。


 「運命により与えられたんです」




 その後、清茂は無事女性を住居へ送り届け、その足で自らの帰路へと着いた。


 自分の住む地区に清茂が戻った時には、すでに日は沈み、暗闇に覆われていた。


 清茂は、自らの住居である長屋の一角へと辿り着き、家の中に入る。


 家の中は、前の世界で言うところの1Kほどの間取りだ。


 清茂は、買ってきた食材を台所に置き、調理を開始する。今日は少し疲れたので、簡単なじゃがいもとたまねぎのスープと、肉団子だけで済ませようと思う。


 料理は完成し、清茂は木製のテーブルで食事を開始した。


 スープを口に運びながら、清茂はこの世界のことを考える。


 表面的な文明の尺度は、前の世界の中世時代ほど。しかし、魔石の存在と、モンスターの素材を利用することにより、その尺度は底上げされていた。


 当初思ったよりも遥かに暮らしやすく、不便さはさほど感じなかった。


 とはいえ、もちろん以前暮らしていた日本の文明に比べれば、不自由な点は山ほどあるが。


 清茂は肉団子を口の中へ放り込み、咀嚼する。ジューシーな肉汁が溢れ、香ばしさが口内に広がった。


 文明自体はこれでいい。しかし、問題は治安だ。モンスターという凶暴な生物が跋扈している環境もさることながら、国に住む人間達も脅威と言えた。


 先ほどのように、暴漢が悪事を働いている場面を目撃することもしばしばだ。そればかりか、盗賊やら暗殺集団なども暗躍しているらしく、物騒さは拭えない。そして戦争もある。


 前の世界よりも遥かに危険な世界であることは、紛れもない事実なのだ。


 清茂の頭に、クラスメイトたちのことがよぎった。


 皆は無事だろうか。百鬼夜行の世界に転生し、果たして全員が生き延びていられるのだろうか。いまだ自分は、クラスメイトの誰とも再会していない。友人である滝誠司と、西脇光弘たちともだ。


 会えれば、自分の手で守ることも可能なのだが……。


 それから、両親のことを思い出す。


 修学旅行の最中に事故に遭い、死んだ自分。親よりも早く子供が逝くのは、親不孝だと聞く。向こうに残した二人に申し訳がなかった。さぞや、悲しみに暮れていることだろう。


 清茂はもう二度と会えない両親と、これから会えるかもしれないクラスメイトたちのことを考えながら、食事を続けた。




 翌朝。清茂は日の出と共に起き、日課である長屋周辺の清掃を始めた。


 清掃の最中、起床した他の住人たちが外へと出てくる。


 彼らは清茂を見ると、朗らかに声をかけてきた。


 「おはよう清ちゃん」


 「今日も早いね」


 「この前はどうもありがとう」


 清茂はそれに対し、明るく応対していく。


 清掃が終わる頃、清茂が住む長屋の大家が側に寄ってきた。ちょび髭が特徴的なヒューゴという老人だ。


 ヒューゴは、布が被さった盆のようなものを手に持っていた。


 「おはよう清茂君」


 「おはよございます大家さん」


 「掃除いつもありがとうね」


 清茂は笑顔を作った。


 「住まわせて頂いているので、これくらい当然ですよ」


 ヒューゴは頷くと、手に持った物をこちらへ差し出した。


 「朝食まだだよね? これ家内が作った朝食の余りなんだけど、食べてくれないか」


 清茂は、首を振って応じる。


 「そんな、この前も頂いたのに。もう貰えません」


 ヒューゴは微笑んで言う。


 「君は私の孫の命を救ってくれたんだ。これくらいはしたいんだよ」


 以前、ヒューゴの孫娘であるマリーが川で溺れていたところを、通りかかった清茂が救ったことがある。その時からヒューゴは、清茂に対し非常に親身になっていた。


 「はあ、あのくらいは当然なので……」


 「私の孫娘の件だけじゃない。強盗を退治したり、暴漢の魔の手から女性を助けたり、大勢の人が君のお陰で救われている。これはその感謝の気持ちだよ。受け取るのもまた礼儀だ」


 清茂は少しだけ思案した後、首肯した。


 「そういうことなら、お言葉に甘えて……」


 清茂は、ヒューゴの手から布が被さった皿を受け取った。


 布越しに、香ばしい匂いが漂ってくる。


 「良い匂いですね」


 布を上げて、中身を見てみる。料理は、じゃがいもや、牛肉をサイコロ状に小さく切った炒め物だった。この国の伝統料理らしい。


 「家内の得意料理だ。悪くないと思うよ」


 「ありがとうございます。美味しく頂きます」


 清茂は頭を下げた。同時に、お腹がぐうとなってしまう。まだ朝食を食べていない状態で、料理の香ばしい匂いを嗅いだため、胃袋が反応したようだ。


 ヒューゴに腹の音を聞かれたと思い、清茂は照れ隠しにしみじみと呟く。


 「いやーだけど本当に良い匂いですね。涎が出そう」


 清茂の言葉を聞いたヒューゴは、そこでふと何かを思い出したような顔をみせた。


 「匂いと言えば、この間家内から面白い話を聞いたんだ」


 「面白い話ですか?」


 ヒューゴは頷き、答える。


 「非常に良い香りを放つ少女の話さ」


 「少女? 良い香り?」


 一瞬、清茂の頭に、以前の世界で耳にしたとある都市伝説の話が思い起こされた。


 昔、中国では、幼い頃から桃しか食べさせずに育てた『桃娘』という名称の少女がいたらしい。体臭は桃のそれであり、生きた芳香剤として人気だったという。だが、桃しか食べさせてもらえなかったため、到底長生きできる体ではなく、大半が十代で亡くなっていたようだ。


 ヒューゴの話は、その都市伝説に少しだけ似ていた。


 「南にあるエルドア大陸の中に、マロウスという国があるんだが、そこに住む少女から発せられる香りが、この世のものではないほど素晴らしいという噂だよ。嗅ぐと誰もが虜になるのだとか」


 「何なんですかそれ」


 『桃娘』の亜種みたいな話だ。前の世界と同じく、人々は下らない噂を好むらしい。


 清茂が一笑に付した時、ヒューゴの次の言葉に清茂ははっとした。


 「その香りの名称が『ワキガ』だとか何とか……」


 清茂は訊く。


 「その少女の名前はわかりますか?」


 ヒューゴは腕を組み、天を仰ぐ仕草を取った。


 「えーっと、確か『ハルカ』やら『アヤカ』とかそんな名前だったと思うよ」


 ヒューゴの口から出た名前を聞いた途端、かつての情景が清茂の脳内へ展開された。


 春風が流れ込む教室。制服を着た瑞々しい少年少女たち。明るく騒々しいが、とても活気がある青春の一幕だ。


 隅の方に、一人の女子生徒が席に座っている。そこだけが、妙にくすぶって見えた。


 峰崎晴香。ワキガの少女。


 席に座っている彼女の体に、紙つぶてが投げられる。紙つぶては晴香の頭に当たり、床へ転がった。


 紙つぶてを投げたのは、岡崎大樹だ。率先して、彼女をいじめていた主犯格。


 小塩雅秀や二村晴康も取り巻きのようにして、近くにいる。恋人である阿南瑠奈もだ。


 彼女をいじめているのは、彼らだけではない。


 サッカー部の杉沢亮が、離れた位置から晴香に向かって、害虫か何かのように、手に持った防臭スプレーを吹きかけていた。わざわざ家から持ってきたものだろう。それを、同じサッカー部である気弱で小柄な高野陽一郎へ手渡し、吹きかけるように促す。


 陽一郎は、おどろどしながらも、楽しそうにスプレーを吹きかけた。


 晴香は己に降りかかる仕打ちに、椅子に座ったまま、ただ黙ってじっとしていた。

 それを、クラスメイトたちが見世物のように面白げに眺めている――。


 峰崎晴香は、クラスのほとんどの者からいじめを受けていた。一度も加担したことのないクラスメイトは、自分と棚瀬彩音、同じように、いじめを受けていた井谷和枝くらいだろう。担任教師ですら、彼女をからかっていたのだから。


 その晴香は、修学旅行よりも前に自殺を決行し、亡くなっている。遺書はなく、動機は不明。だが、二年一組のクラスメイトたちは、すぐに悟っただろう。自分たちのいじめが原因だと。


 しかし、彼女の死について悔悛した者は一人もいなかった。まるで始めからいなかったように、すぐに平穏な日常へと戻っていったのだ。


 彼女が、峰崎晴香がこの世界にいる――。


 「清茂君、大丈夫かね?」


 ぼんやりと、思考の海に沈んでいた清茂の顔を、ヒューゴが心配そうに覗き込んでいた。


 我に返った清茂は、大きく首を横に振る。


 「いえ、すみません。ちょっと凄い人かなって思って」


 ヒューゴは、自身のシンボルであるちょび髭に触れると、不思議そうに首を傾げた。


 「ふむ。まあただの噂だから、真偽の程は定かではないよ」


 ヒューゴはそう言い残し、その場を離れていった。


 しばらくの間、清茂は料理が載った皿を手に佇んでいたが、やがて自分の家へ戻ることにした。




 ヒューゴの妻お手製の料理を食べた後、清茂は片付けを行う。


 借りた皿を丁寧に洗っている最中、再び峰崎晴香の姿が脳裏へ蘇った。


 彼女は一体、どんな気持ちで日々、登校をしていたのだろう。自分を忌み嫌い、いじめ抜く者たちがいる空間へ、どんな気持ちで毎日学校へ通っていたのだろう。


 日常的に行われる、教室内での彼女に対する仕打ち。筆舌しがたい苦痛を味わい、彼女は自殺を選択した。


 そして、自分はその彼女を助けることができなかった。いや、しなかった。なぜなら、岡崎たちが恐ろしかったからだ。


 もしも身を挺し、彼女を守ったならば、確実に彼らは清茂をも標的にしてくるだろう。それが怖かった。


 修学旅行の班決めの際の擁護、あれが清茂の限界だったのだ。


 だが、今は違う。今の自分には『力』がある。人を守れるだけの、強い『力』が。


 修学旅行よりも前に死んだ彼女がなぜ、自分たちと同じ世界に転生したのかはわからない。だが、ヒューゴが聞いたという噂話は、確実に晴香のことを指していた。


 彼女はいるのだ。この異世界に。


 そして、晴香は今も苦しんでいると思われた。ヒューゴが言及した『素敵な香りを放つ少女』。あれは、彼女のワキガの悪臭が、歪曲されて伝わったものだと考えられるからだ。


 短期間だが異世界で暮らした結果、種族の多様さはあれど、異世界人も本質的な体質は我々転生人と変わらないことがわかった。そのため、『ワキガ』に対しても、前の世界の人々同様、嫌悪感を持ってもおかしくはないのだ。


 遠い国にまで噂になるほどであるならば、晴香は相当な迫害を受けているに違いない。かつて教室であったように、今も彼女は泣いているのだ。


 今度こそ助けなければ。


 清茂は、水道を止めると、皿を布で拭き、テーブルの上へ置いた。それからクローゼットへ行き、服を着替える。


 これは出勤のための服ではない。遠出のための服だ。


 この後職場へ行き、長期休暇を申請しよう。親方ならば、事情を聞かずとも了承してくれるはずだ。


 準備を終えた清茂は、荷物と皿を持って家を出た。


 しっかりと鍵を掛け、大家さんの所へ行く。


 扉をノックすると、ヒューゴが顔を出した。清茂は、ヒューゴへ皿を返す。


 ヒューゴはちょび髭を弄りながら、怪訝な顔をした。


 「すぐに返さなくても良かったのに……。あれ、清茂君、出張かい?」


 清茂は頷いた。


 「はい。その通りです。……ヒューゴさん、しばらくの間留守にしますので、後のことはよろしくお願いします」


 清茂はヒューゴへ一礼し、踵を返した。


 「行き先はどこだい? 送っていこうか?」


 ヒューゴが困惑したように背後から問いかけるが、清茂は振り返らなかった。


 この『旅』はもう二度と戻らない死出の『旅』になるかもしれない。


 だが、それは構わなかった。これは償いなのだから。彼女を守れなかったことに対する贖罪――。


 清茂は、地面を強く踏みしめながら歩く。


 必ず晴香を救ってみせる。命に代えても。そのために、自分はこの世界へ転生したのかもしれないのだから。

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