第九章 魔女の音楽会

 エルドア大陸よりドルボ海を挟み、北方に広がる広大なアンルコ大陸。


 その大陸の北端に、サーミという国があった。極寒の地であり、一年の大半が雪で覆われている地域だ。


 サーミの南側は、タイガなどの針葉樹林が至る所に群生しているが、さらに北へ行くと、永久凍土やツンドラが広がり始める。


 サーミの北方は、極めて厳しい環境であり、ほとんど人が住むことのない死の大地であった。寒さに適応したモンスターのみが、跋扈する過酷な世界。


 その大地を見下ろす所に、霊峰ディナ・ビィナがあった。サーミの最北端に位置する山脈であり、常に吹雪に閉ざされた人跡未踏の険しい山である。


 ディナ・ビィナの麓に、誰も知られることのない洞穴があった。


 その洞穴の前に、アルチナ・オルランドは降り立っていた。吹雪渦巻く只中にいるにも関わらず、アルチナを包む漆黒のドレスには、一切、雪が付着していなかった。


 アルチナは、巨竜の口を思わせる洞穴の入り口から中へと入り、奥に進んだ。


 しばらく進むと、城門ほどの大きさを持つ赤い門が見えてくる。


 アルチナが門の前まで接近するなり、まるで意思を持っているかのように、赤い扉は耳障りな音を立てて独りでに開いた。


 門の中は、無機質な外の世界とは打って変わって、宮殿のような豪華絢爛なホールとなっていた。天井からはシャンデリアが吊り下げられ、足元は赤い絨毯が敷き詰められている。


 アルチナが、絨毯へ足踏み入れると同時に、背後の扉が閉じられた。


 そのまま、ホールの中央まで進入したアルチナの前に、ひとつの人影が出迎える。


 その者は、慇懃に頭を下げた。


 「お持ちしておりました。アルチナ様。皆様お揃いでございます」


 アルチナを出迎えたのは、レオナールだ。黒い山羊の頭部を持ち、タキシードに包まれた肉体は、若い男のように筋骨隆々、背中から、蝙蝠のような大きな翼が生えている。


 レオナールは、従者として『仲間』が造り上げた生物だ。


 「こちらでございます」


 レオナールは、アルチナを奥へと案内する。


 ホールを直進し、階段を上ると、視線の先に大きなマホガニー調の扉があった。


 レオナールは、その扉を開ける。


 途端に音楽が耳を貫く。戯曲だ。不気味だが、どこかコミカルな旋律。


 扉の先は、貴族向けの奏楽堂のような広い部屋となっていた。ステージが設けられており、音楽の出所は、そのステージで演奏している手が楽器と化した合成生物だ。


 ステージを背景に、長テーブルが部屋の中央に置かれてある。


 それを囲むように、何人かの人間が座っていた。


 「アルチナおっそーい! 待ちくたびれたじゃん」


 演奏をかき消すような声で、ロジーナ・フンパーディンクが叫ぶ。


 アルチナが部屋の中へ入り、レオナールが扉を閉めた。アルチナは、テーブルへと近づいていく。


 「あら。定刻どおりよ。それより、遅刻魔のあなたにしては珍しく早いわね」


 アルチナの返答に、ロジーナは肩まで伸びた栗毛の髪をかき上げ、鼻を鳴らした。髪の隙間から、エルフ特有の長い耳が見える。


 「アルチナが召集をかけるなんて珍しいから、気になっちゃってね。それより、フンパーディンク家当主である私を待たせたことに対して謝罪をしなさいよ。発起人のくせに」


 エルフの少女であるロジーナは、不機嫌だった。膨れ面をしているが、それでもロジーナの可愛らしい容貌は崩れない。


 今日彼女は、白黒のドレスを着用していた。


 アルチナはロジーナの難癖を無視し、席へとつく。


 さらに文句を言おうと口を開きかけたロジーナを、レオ・ミリギィが制し、質問を行った。


 「今日の集まりのメンバーはこれだけか?」


 レオは漆黒の毛を持つ、獅子のような獣人だ。低い声がよく響く。


 「ええ。他にも『英雄』を誘ったけど、断られたわ」


 「ふん。困った奴だな。閑居しているくせに」


 レオは腕を組んだ。黒い毛に覆われた、太い腕が際立つ。


 「そういうわけだから、今日はこの五人での集会になるわ」


 アルチナは両手を広げ、そう言った。


 「ちょっと、話を逸らさないで。私への謝罪は?」


 ロジーナは、なおも食い下がる。相変わらず、傲慢な娘だ。


 「うるさいな。黙っていろよ」


 けだるそうな、ボーイ・ソプラノの声が響く。


言葉を発したのは、ウィル・マクダートだ。唇の隙間から、真珠のような鋭い八重歯が覗いている。


ウィルは、銀髪で、真っ白い肌を持つ少年だ。


 ウィルは端整な顔をニヒルに歪め、挑発するように、ロジーナへ非難を続けた。


「ロジーナ、不満ならさ、お家に帰れよ。没落貴族のフンパーディンク家にね」


 ウィルは、燕尾服に包まれている華奢な体を椅子に深く沈め、手を振る。


 ロジーナは栗毛を振り乱し、目を吊り上げた。


 「てめー! もう一度言ってみろよ!」


 ロジーナは、飛びかかろうと身を乗り出す。目の前のテーブルの上に置かれてある食べかけのケーキが、ひっくり返った。


 にわかに、部屋が騒々しくなり始める。


 その時だ。穏やかな声が、響き渡った。


 「静かに。いい音楽が台無しだよ」


 それまで、テーブルの上座でステージに体を向けていた人物が、ゆっくりと皆の方へ振り返った。


 黒髪をオールバックに纏め、ワインレッドのスーツを着用した紳士然としたヒューマンの人間。サファイヤのような青い瞳に、顎髭の生えた苦味走る容貌の男だ。


 男の言葉に、ロジーナとウィルは静かになる。


 アルチナは、上座の男へ声をかけた。


 「フェリック・メンデル卿。久しぶりね。わざわざ集会の場を提供してくれて有難う」


 フェリックは、両手の上に顎を乗せた。


 「『音楽会』の仲間からの依頼だ。お安い御用さ」


 「ところで、今日の音楽は一体何かしら? 随分と印象的に感じるわ」


 アルチナは、ステージの上で演奏している合成生物たちを、顎でしゃくった。


 フェリックは答える。


 「『山の魔王の宮殿にて』という名前の戯曲だよ。我が家に代々伝わる音楽だ」


 「そう。素敵ね」


 二人が話している間に、レオナールがアルチナの前に紅茶を運んできた。


 アルチナが紅茶を一口飲むと、フェリックが質問をしてくる。 


 「さて、アルチナ。本題だが、今日の召集の目的を教えてくれるかな?」


 アルチナは、ティーカップをソーサーに置き、自らの懐に手を伸ばす。


 「百聞は一見に如かず。この場合は、一嗅と言うべきかしらね」


 アルチナは、懐から密封処理が施された半透明の袋を取り出す。薄っすらと、布のような物が透けていた。


 それを見るなり、鷹のように鋭いフェリックの目が細まった。


 「なあに? それ」


 ロジーナが怪訝そうに呟く。


 アルチナは、四人の視線が集まる中、袋を開いた。


 そして、中に入っている布の切れ端を引っ張り出す。峰崎晴香から剥ぎ取った、パジャマの一部だ。保存状態は良好。


 アルチナは宝を見せ付けるかのごとく、裂かれたパジャマを掲げた。


 フェリックを除く全員が、不思議そうな表情を浮かべる。


 「ただの布の切れ端じゃん。それがどうしたって……」


 ロジーナが、そこまで言った時だった。彼女の顔色が変わった。ロジーナだけではない。それまで、不思議そうにパジャマの切れ端を見ていた他の『音楽会』のメンバーも、表情を一変させた。


 例の匂いが漂い出したからだ。


 最初に声を上げたのは、レオだった。


 「香気芬々なこの香りは一体……」


 レオは立ち上がり、茫然自失となる。さすが獣人というべきか、匂いには敏感のようだ。


 次々に、他の者も反応を示す。ロジーナは、名家の現当主にあるまじき間の抜けたような、締まりのない顔をみせた。


 「なんて素敵な匂いなの。まるで天使が作ったお菓子みたい。こんな匂いがこの世界にあるなんて」


 ロジーナの対面に座っているウィルも、心を奪われているようだ。奇跡を目の当たりにしたかのごとく、目頭を押さえ、感動の涙に耐える仕草を取る。


 「神々しい様とはまさにこのことじゃないか。何なんだ。この香りは」


 『音楽会』のメンバーは、一気に血気盛んになる。皆口々に、パジャマから発せられる香りの正体について、疑問を投げかけてきた。


 収集が付かなくなり始めた頃。それまで無言だったフェリックが、総括してアルチナへ質問を行った。


 「アルチナ・オルランド。『音楽会』を代表して質問しよう。この香りの正体はなんだ?」


 アルチナは皆を見渡す。全員が、こちらを注視していた。


 アルチナは答える。


 「この匂いは『ワキガ』というわ」




 アルチナから匂いの名前を聞いたメンバーは、次々に感想を述べた。


 「匂いだけじゃなく、名前も美しいじゃない」


 「芳烈とはまさにこのこと。ワキガは鼻翼を支配する女王のような存在か」


 「この世界で、一番素敵な香りじゃないか」


 ざわめくメンバーたち。そこで、レオが訊いてくる。


 「そのワキガの香はどのようにして手に入れたのだ? アルチナ」


 アルチナは、ロムニアでの一件について、皆へ話した。峰崎春香という少女に会ったこと、そして、ワキガは体臭の一種で、その少女が匂いの発生元であることなど。


 話を聞き終わると、ウィルは切れ長の整った目を丸くした。


 「まさかヒューマンの少女がワキガの元とはね」


 「パジャマに匂いが染み付いていたのは、体臭だったからか」


 レオが、納得したように何度か頷く。


 「その少女は何歳くらいなの?」


 ロジーナの問いに、アルチナは答えた。


 「ちょうどロジーナ、あなたくらいの歳の子よ。十代半ばくらいかしら」


 へえ、とロジーナはお菓子を前にした子供のように、ぺろりと唇を舐めた。


 「私が頂いちゃってもいいよね。我がフンパーディンク家の宝に相応しいわ」


 ロジーナは、チャーミングに笑う。


 「最高だろうなー。こんな素敵な香りを放つ人を我が物にできたら。ずっとそばに置いて匂いを楽しめるわ。逃げないように、手足をちょん切って飾ってもいいかも」


 晴香を手中に収めた時のことを想像しているのだろう。ロジーナは、彫像のような綺麗な顔をうっとりとほころばせた。


 ウィルが、すかさず横槍を入れる。


 「晴香は僕が手に入れる。お前ごときに抜け駆けはさせないよ」


 ウィルは、ロジーナを見下すポーズを取り、続けた。


 「ワキガが体臭の一種なら、条件次第で匂いが濃くなるはずだ。一生彼女に体を洗わせず過ごさせたら、さらにワキガを堪能できるだろうね。お前みたいに手足を切って、飾るような下品な真似なんて、野蛮過ぎて僕にはできないよ」


 ウィルは、呆れたように首を振る。ロジーナはそれに、鼻で笑って応じた。


 「どうせ我慢できずにあなたはすぐ血を吸い尽くして殺しちゃうでしょ。あるだけ餌を食べる犬みたいにね」


 ウィルは、ロジーナを睨みつける。


 「変態サディストが何を偉そうに」


 「薄汚い血族の人間は口を噤んでなさい」


 ロジーナとウィルの言い争いが、再び始まった。アルチナは静観、レオは腕を組んだまま瞑目し、じっとしている。


 手を叩く音が、部屋にこだました。フェリックだった。


 彼は柔和な表情のまま、二人に向けて注意を促す。


 「同じ『音楽会』同士、仲良くしようか」


 フェリックのサファイヤブルーの瞳に射抜かれ、二人は口を閉じた。いまだお互い含む所がある様子だったが、二人共素直に椅子へ座り直す。


 しばらく、沈黙が訪れた。『山の魔王の宮殿にて』の戯曲のみが、部屋に響き渡っている。


 沈黙を破ったのは、レオだ。瞑目した状態からゆっくりと目を開き、低い声を発する。


 「その少女は一体、何者なんだ? そのような香りを放つ者など、これまで会ったことがないぞ」


 「わからないわ。これまでどこにいたのかも」


 無言だったウィルが、長い八重歯を覗かせながら訊く。


 「その少女はマロウスの要人なんだろ?」


 一瞬間を置き、アルチナは答える。


 「そうね。姫と呼ばれていたわ」


 「じゃあマロウスで秘匿され、育った人間じゃないか? この世のものとは思えないくらい良い匂いを放つ少女なんだ。独占したくなるのは当然だろう」


 「なんとも言えないわ。ならどうして、今更外に出てきたのか」


 ロジーナが口を挟む。


 「あいつ……『英雄』ならその辺りのこと詳しいんじゃない? 今どこにいるかわからないけど」


 そう言った後、ロジーナは小振りな胸を張り、付け加える。


 「まあ、いずれにしろ晴香を手に入れるのは私なんだけどね」


 ウィルはロジーナを相手しようとはせず、質問を行う。


 「僕は新参者だから、その『英雄』と面識がないんだけど、わかるものなのか?」


 アルチナは首肯した。


 「多分ね」


 レオが、獅子に似た容貌を険しくしながら言う。


 「しかし、どうやって晴香を我が物にする? 王と同じほどに手厚く保護されているのだろう? 警護も厳重である可能性が高い。手に入れるにしても困難かもしれないぞ」


 アルチナは、ロムニアの光景を思い出しながら、薄く笑う。


 「ここにいるメンバーなら問題ないわ。少なくとも私が対峙した限り、峰崎晴香個人は我々にとって、脅威ではない相手なのは確かよ」


 アルチナは肩をすくめ、レオを見つめた。


 「特にレオ、元騎士団団長であり、『落城の黒獅子』の二つ名を持つあなたなら、恐るるに足らずよ」


 「……ふむ」


 レオは、自身の立派な鬣を右手で弄り、思案に耽る。自らが率いる傭兵団を動かし、晴香を物にしようと考えているのかもしれない。


 会話が一段落したところで、フェリックが口を開いた。


 「アルチナ。一ついいか」


 「何?」


 フェリックは、こちらを見つめる。


 そして質問を行った。


 「なぜ我々に話した?」


 アルチナは、怪訝な顔になる。


 「どういう意味かしら?」


 フェリックの目が鋭くなった。


 「峰崎晴香のことを先に知ったお前が、わざわざ召集をかけてまで『音楽会』のメンバーにそれを伝えた理由が気になってね」


 アルチナはお淑やかに笑った。


 「あら、その言い分は心外ですわ。メンデル卿。私はただ晴香――ひいてはワキガの素晴らしい香りを知り、盟友である『音楽会』の皆にも体験して欲しくて教えたまでよ」


 フェリックは、まっすぐアルチナを見据えた。だが、やがてふと口角を上げると、納得したとでも言うように、両手を広げる。


 「そうだな。つまらない質問をして悪かった」


 フェリックは、『音楽会』のメンバーの顔を見渡した。


 「それでは今回の召集の結論を伝えよう。我々はワキガという素晴らしい香りの存在を知った。それが、峰崎晴香という少女から発せられていることも。そして、その少女を我々は手中に収めることにした。それについては、早い者勝ち、すなわち手に入れた者が好きに愉しむ。それでいいかな?」


 メンバー全員が首肯する。


 フェリックが、締めくくるように言った。


 「それでは今回の集会はここで解散だ。諸君の健闘を祈る」


 フェリックがそう言い終わると同時に、『山の魔王の宮殿にて』の戯曲が終わり迎え、静寂が訪れた。

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