第七章 北の森の魔女

 晴香たちが王都マロウスで暮らし始め、一週間程が経過した。


 マロウスでの暮らしは、豪華絢爛の一言だった。元々、最上級の賓客として迎え入れられている晴香だったが、王であるアーニャからの好意が凄まじく、その影響で晴香の待遇は王と遜色ないものになっていた。


 そればかりか、晴香のワキガの効果により、城の者の服従心や敬愛心はむしろ王以上のものを集め、晴香はマロウス城において、アーニャ以上の発言力を持つに至っていた。


 そして、晴香のワキガの効果は、マロウス城に留まらなかった。


 マロウスでの生活の際、晴香はときおり城下街へと出掛けていたが、そこでも晴香は民衆を魅了した。コートを脱いで制服のまま歩いただけで、街行く人々にワキガ臭が届き、女王が通ったかのごとく、次々に皆が晴香を崇拝するのだ。


 護衛のため、付き従っていたタイスやロイたちがガードをしなければならないほどの盛況ぶりである。


 もはや、王都マロウスにおいて、晴香に服従しない者はいない状態と言って良かった。


 わずか短期間でこの結果である。この調子なら、またすぐにでも次の村や都市を手中に収めることが可能だろう。


 ワキガの力は、それほどまでに強いことの証だ。まさに異世界人に対し、無敵を誇る『女王の力』と言っても過言ではなかった。


 順風満帆に事が進む日々。そんな中、晴香は執務大臣であるグスターフから、とある噂話を聞いた。




 「魔女?」


 貴賓室に訪れたグスターフから聞いた話の中で、晴香は気になる単語を繰り返した。


 「はい。『魔女』らしいのです」


 グスターフは、畏まりながら答える。


 「晴香ー。魔女って、あの悪いことをする魔女のことー?」


 晴香の脇に顔を埋めていたアーニャが、顔を上げて訊いてくる。


 「ええ。多分その魔女だと思いますよ」


 晴香は、アーニャへ微笑みながら答える。


 それから、顎に手を当てて考えた。


 午前中の仕事をあらかた終え、甘えてくるアーニャに貴賓室でワキガの匂いを嗅がせていた時だった。グスターフが貴賓室を訪れ、とある話を行ったのだ。


 王都マロウスから北へ二十キロ程離れた場所に、ロムニアという小さな街がある。


 ロムニアは、マロウス領内の街や村の中で、抜きん出て犯罪件数が多い街だ。そこで最近、どこからか流れ着いた『魔女』が夜な夜な姿を現し、人をさらっていくという噂が流れているらしかった。


 その魔女は、黒いドレスのようなものを身に纏い、髪を振り乱して人をさらった後、住処へ連れて行くのだという。


 『魔女』の住処は、ロムニアからさらに北に広がっている『北の森』に構えられており、そこでさらった人間を使い、怪しげな実験を行っているといった内容だ。


 顎に手を当てて考えていた晴香は、グスターフに質問を行った。


 「その魔女の噂は、いつ頃から流れ始めたの?」


 「一ヶ月ほど前からです」


 都市伝説のような、一笑に付すべき噂のように思える。異世界でも、ゴシップ記事同然の話題を好む層がいるのかと、意外に感じた。


 気にするような内容ではないかもしれない。晴香はそう判断した。


 だが、グスターフが最後に付け加えた説明に、晴香は興味を惹かれる。


 「これは非常に曖昧な情報なのですが、その魔女は、奇妙な術や魔法のような技を使うとの話もあります」


 魔法か。もしもそれが事実だとするならば、ありえるかもしれない。時期も一致する。


 下らない噂話。だが、その『魔女』の正体がクラスメイトである可能性は、決して否定できなかった。


 調べてみる価値はありそうだ。


 「グスターフ、命令を下すわ」


 晴香は、グスターフへそう言った。




 「いやだ! 行っちゃ駄目! 晴香はここにいるの!」


 二日後。遠征の準備を整え、護衛隊と共に城門前の広場で待機している晴香に対し、アーニャは駄々をこねた。


 「アーニャ様、私はすぐに帰ってきますよ」


 両膝を付き、同じ目線になって晴香はアーニャを宥める。だが、アーニャは聞き入れなかった。ビスクドールのような綺麗な顔を歪ませ、大きく泣きじゃくる。


 「晴香に行って欲しくない! ずっと『ワキガ』の匂いを嗅がせてくれるって約束したじゃん!」


 アーニャの悲痛な声が、広場に響き渡る。


 晴香は深く息を吐くと、広場に集っている護衛兵たちを見回した。


 護衛兵は全員で三十名余り。そのほとんどが精鋭だ。もちろん、タイスやロイ、彩音も加わっている。


 晴香はアーニャの肩に手を乗せると、絵本を読み聞かせるように、柔らかい言葉で語りかけた。


 「ほんの少し我慢をしていただければ、またワキガを嗅がせてあげます。アーニャ様が望むだけ」


 それでもアーニャは、泣きながらずっと俯いていた。普段よりも拗ね方が強い気がした。


 するとアーニャは、しゃっくりを上げながら話し始める。


 「違うの晴香。私、嫌な夢を見たの。だから晴香のことが心配になって……」


 「夢?」


 晴香は首を傾げ、アーニャの顔を覗き込む。


 「うん。晴香が黒い『魔女』に捕まっちゃう夢。捕まった晴香は、大きな鳥籠みたいな檻に入れられて、ずっと閉じ込められちゃうんだよ」


 アーニャのエメラルドグリーンの瞳が潤んでいる。彼女は真剣だった。夢の内容を本気で信じているのだろう。


 晴香は、アーニャの肩をそっと撫でた。


 「ただの夢ですよ。私は大丈夫」


 「……」


 晴香が諭すが、アーニャは納得しないようだ。依怙地になったように、ずっと下を向いている。


 そこで、近くにいたロイが言葉を発した。面白いことを思いついたかのような、明るくてひょうきんな口調だ。


 「それではこうしてはいかがでしょうか? 姫様、つまり晴香様は、遠征が終わるまで、ずっとお風呂に入らないというのは。そうすれば、ワキガの香りが強くなります。ワキガの香りが強い晴香様に悪さをする人間など、この世界にはおりません。そして無事、晴香様が帰還した暁には、アーニャ王は存分に濃くなったワキガを堪能できます」


 ロイの提案に、タイスを始め、周囲の護衛兵たちが「おお! 素晴らしい」と次々に賛同する。


 アーニャはしばらく硬直したままじっとしていたが、やがて小さくコクンと頷いた。


 「……わかった。必ず帰ってきてね。晴香」


 「ええ。もちろんです」


 晴香は、アーニャのおでこに口づけを行った。




 遠征隊の前にある巨大な城門が、軋む音を立てて開く。


 晴香は、見送りに参列しているグスターフとゲオルグの前に立っていた。


 晴香は、二人へ命令を下す。


 「井谷和枝のことよろしくね。あまり刺激をしないように。いずれにしろ、私が帰ってくる頃には心変わりしているだろうから」


 「かしこまりました」


 グスターフとゲオルグは、同時に頭を下げた。


 その後、同じく見送りにきていたシルヴィアの元へ、晴香は歩み寄った。


 「シルヴィア、後のことは任せたわ」


 シルヴィアは恰幅の良い体を揺らし、快活に笑う。


 「お任せください姫様」


 シルヴィアは、マロウス城における晴香の従者としての待機要員だ。せめて一人くらいは、ルーラル村の人間を残し、状況を把握させておきたかった。


 タイスは優秀な護衛として、彩音は大切な治療役として遠征に必要である。後は、ロイかシルヴィアが待機候補となるのだが、ロイは地理と世界情勢に詳しいため、残るのはシルヴィアとなった。侍女が少しの間いなくても、支障はないだろう。


 晴香はシルヴィアに手を振り、待たせてある馬車へと乗った。王族用の豪華で頑丈な馬車である。


 馬車が動き出す。晴香は、馬車の窓からアーニャへ手を振った。しかし、アーニャは振り返さず、沈んだ顔のまま、じっとこちらを見つめていた。


 そんなアーニャの様子を見ていると、一抹の不安が晴香の胸中へと去来した。




 王都マロウスを出発し、数時間が経った。時折襲ってくるモンスターを討伐しながらの前進なので、思ったよりも進行は遅かった。


 現在は、ロムニアへ至る道の半分といったところらしい。


 晴香は馬車の窓から外を眺める。背の低い草が多い茂る平原が広がり、その中を馬に乗った護衛隊の隊列が、馬車を守るため前後に展開している光景が目に映った。


 晴香は視線を馬車内に戻す。馬車には、ロイとタイス、それから彩音が同乗していた。


 窓を閉めきっているため、馬車の内部は晴香のワキガ臭が充満しており、そのお陰でロイやタイスはとても上機嫌だった。


 「それで、どうして獣人たちが大勢いるの?」


 晴香の質問に、ロイは歌うような口調で答える。


 「東にあるアニトスという国から流れ込んできたんですよ。ロムニアはアニトス領との国境が近い街ですから。マロウス国では、少ないはずの獣人がロムニアに多いのは、そのためです」


 「ふうん」


 ロムニアへの道すがら、晴香たちはロイからロムニアについてのちょっとした説明を聞いていた。


 「アニトスは友好国なのよね?」


 ロイは頷く。 


 「ええ。アニトスのみではなく、アニトスから南にあるラビアとリーニアも友好国ですよ」


 マロウス国があるエルドア大陸には、全部で五つの国があり、西はマロウス、東は大国キロル連邦が支配していた。そして、その二つの国を分割するように、縦に三つの小国が並んでおり、それが先ほどロイが言ったアニトスとラビア、リーニアであった。


 「エルドア大陸では、キロル連邦以外は皆仲良しですから」


 「それなのに、友好国から入り込んできた獣人たちが悪さをしているんだ」


 ロイは、肩をすくめる。


 「友好国だろうと統制には限度があります。おそらく、上手くアニトスの治安維持隊から逃れた悪党たちでしょう」


 「そうなんだ」


 「もっとも、ロムニアで跋扈している犯罪者たちは、大半がマロウス国の人間ですが。街や村を追われ、行き場を失ったどうしようもない連中なのです」


 ハーフのように整った顔のロイは、呆れたようにため息をつく。


 「それでは、グスターフ執務大臣が言っていた『魔女』は一体どこから来たんだ?」


 隣で話を聞いていたタイスが、口を挟んでくる。


 ロイは首を振った。


 「それは私にもわかりません。他国から流れ着いたのか、元々マロウス国内にいたのか。あるいは姫様がおっしゃったように、転生人なのか」


 ロイの返答を聞き、タイスは腕を組んだ。丸太のように太い腕が、さらに盛り上がる。


 「噂では『北の森』に住んでいるらしいが、どうしてそんな所に住処を構えている? 他国からの流れ者だろうと、転生した人間だろうと、ロムニアに住むのが普通のはずだ。犯罪者にとって、打って付けの隠れ場所なんだから」


 ロイは手を広げ、口をへの字に曲げた。


 「私もそこまでは。もしかすると『北の森』に住んでいること自体は噂に過ぎず、肝心の『魔女』は、ロムニアに潜んでいる可能性はあります。全て憶測ですが」


 ロイは言葉を継いだ。


 「もちろん『魔女』など、元から存在していない可能性も否定できません」


 ロイとタイスのやり取りを聞いていた晴香が、二人に言う。


 「真相はどうであれ、ロムニアに着いて調査すれば全てわかるわ。いないならそれはそれで仕方ないし。けれど、もしも噂通りの『魔女』がいたら、あなたたちが頼りよ。その時はよろしくね」


 『魔女』が存在し、その者が不可思議な力を保持しているとすれば、ほぼ間違いなく転生した人間、つまり元クラスメイトということになる。だったら、すぐにでも殺して欲しい、という言外の意味が晴香の言葉には込められていた。


 晴香の意図を察したタイスとロイは、ぱっと顔を明るくし「はっ」と、その場で頭を下げた。


 「彩音もね。よろしく頼むわ」


 晴香は、彩音に顔を向ける。


 彩音はずっと無言だったが、晴香からそう問いかけられると「うん」と頷いた。それから、気まずそうに目を逸らす。


 どうしたのかと思い、晴香は彩音の様子をしげしげと窺った。


 現在彩音は、高校の制服ではなく、ディアンドルに似た服を着用していた。胸元にレースがある可愛らしい衣装だ。だが、今の彩音は表情が固く、せっかくの服が台無しだった。


 彩音が、口で呼吸していることから察するに、おそらく、充満している晴香のワキガ臭に辟易しているのだろうと思われた。異世界人の中で暮らしていると忘れがちになるが、転生者である彩音には、ワキガは単に悪臭とだけしか捉えられないのだ。


 しかし、それについて晴香は気にも留めていなかった。彩音には悪いが、不快なら不快で我慢してもらうしかない。ワキガに魅了される人間の方が、この世界では圧倒的多数なのだから。


 晴香は彩音から顔を逸らし、窓の外を眺める。今は順調に進行しているようだ。


 その後、しばらくの間、晴香たちは馬車に揺られ続けた。やがて日が落ち始めた頃、ロムニアへと到着した。




 翌朝、ロムニアの中で一番豪華なホテルの前に、護衛兵やロイたちは集まっていた。ホテルに直接泊まったのは晴香のみで、他の者はホテルの敷地内にて、晴香の護衛を兼ねての駐屯を行い、従者であるロイたちは、隣の安宿に宿泊した。


 晴香は、目の前で整列している皆へ声を張り上げる。


 「まずは、今日と明日の二日間、ロムニアを調査する。そこで『魔女』についての情報が得られなかった場合、さらに『北の森』へ調査に赴く予定よ」


 「了解いたしました」


 晴香の命令に、皆が口を揃えて返答を行った。


 それから各々、予め与えられた役割をこなすため、散っていく。


 本格的に、『魔女』の調査が始まった。


 晴香も調査に出発する。晴香には、ロイたちルーラル村のメンバー他、護衛兵二人が付き従った。本来は、場所が場所なだけに、もっと多くの護衛兵を晴香に付ける予定だったのだが、かえって身動きがならなくなるという晴香の意見により、護衛は最小限に抑えられた。


 最小の人数で、『魔女』について調べる晴香たち。酒場や住居を重点的に狙い、刑事のように話を聞いていく。


 しかし、朝から昼過ぎまで調査を行ったにも関わらず、芳しい成果は得られなかった。代わりに、というべきか、明確にわかったことが一つあった。


 それはやはり、このロムニアという街はすこぶる治安が悪いという点だ。一見すると、絵本の世界のように美しい街並みなのだが、晴香が宿泊したホテルがある街の中心付近や目抜き通りから少しでも離れてしまうと、一気にスラムのような薄汚い場所に様変わりする。


 そこにいる誰もが粗野でマナーもなく、とても柄が悪かった。喧嘩や暴行も挨拶レベルで多発しており、ロムニアに常設してある治安維持隊も、その程度では出動しないようだった。


 「何ともはや……。マロウス城へ帰ったら、グスターフ殿へ内情をお伝えしなければ」


 現状を目の当たりにしたロイが、嘆き声を上げるほどであった。


 ロムニアの治安の悪さは、住民たちの内輪揉めに納まらず、晴香たちの身にも及んだ。調査の際、絡まれたり喧嘩を売られることも多々あった。しかし、晴香のワキガ臭を嗅ぐと、その誰もが矛を収め、去勢された犬のように大人しくなった。中には晴香に心酔し、護衛に加わろうとした者すらいた。


 治安の悪い危険地帯だろうと、晴香のワキガは効果を発揮するのだ。もはや、護衛すら必要ないほどに。


 だが、肝心の『魔女』についての情報は、出てこなかった。


 一応、それらしき話はあった。夜になると、誰それがさらわれたのだの、黒い影を纏った奇妙な人間を見たのだの、グスターフから聞いた『噂』に似た内容。


 しかし、それが元から存在していた犯罪者の仕業なのか、本当に『魔女』の仕業なのか判別がつかなかった。ロイの説明通り、ここは獣人が多い。『魔女』の外観に対する誤解も生まれそうだと思った。


 午前の調査が終わり、晴香は昼食をホテルのレストランでとった。その際、別に動いていた護衛兵たちからの情報を集めたが、晴香のチームと同様、ほとんど収穫はないと言ってよかった。


 午後も、晴香たちは調査を行う。住民たちから話を聞いて回り、怪しい者がいないか人物チェックをした。


 だが、午後丸々調査をしても、有益な情報は得られなかった。他の護衛兵たちはいざ知らず、晴香にはワキガという武器がある。晴香が質問すれば、相手が異世界人である以上、嘘をつくことは不可能だった。


 にも関わらず、『魔女』の情報が得られないのであれば、やはり『魔女』の話は噂に過ぎない可能性が高かった。


 つまり、ロムニアには、二年一組の生徒などいないのだ。


 晴香は沈みいく夕日を眺めながら、その結論に達しようとしていた。




 夜が訪れ、晴香はホテルで夕食をとった。その後、部屋に戻り、ベッドへ仰向けに寝転がる。


 どっと、疲れが押し寄せてきた。一日中歩き回ったのだ。疲労が蓄積するのも無理はない。


 今日は早めに寝よう。明日も調査はあるし。


 晴香はのっそりと体を起こすと、制服を脱ぎパジャマに着替えた。


 できれば体を洗いたかったが、ロイの提案に従い、晴香は風呂に入らないようにしていた。昨日も同じだ。そのため、ワキガの臭いは一段と濃くなっている。


 連続で着用しているパジャマにも、ワキガの臭いがひどく染み込んでいた。これでは、洗っても一度では臭いは取れないだろう。


 パジャマを着終えた晴香は、ベッドへ入る前に窓から外を確認した。


 二階から見えるホテルの前庭には、晴香の護衛兵たちが兵営をしている光景が広がっている。キャンプ場のように、点在している明かりが目に付く。


 彼らは兵営のためだけではなく、晴香の護衛も兼ねて前庭に駐留していた。そのため、ホテル周囲と内部も警戒されており、晴香が宿泊している部屋の前にも護衛兵が立哨中だ。


 いくら治安の悪い街だろうと、ここまで警護が行き届いていれば、不安は感じられなかった。もっとも、ワキガの力が晴香にある限り、異世界人相手なら自力で対処可能だが。


 晴香は窓から離れ、ベッドへと入った。溜まった疲労により、たちまちまどろみが訪れる。


 晴香はすぐに眠りへと落ちた。




 コトリと、物音が聞こえた。夢の中にいた晴香は水面に浮かび上がるように、少しずつ覚醒していく。


 晴香は、ゆっくりと目を開けた。常夜灯モードの魔石がオレンジ色の明かりを放ち、おぼろげな輪郭を見せる天井が目に入る。


 晴香は深呼吸を行い、体を起こした。部屋を見回す。薄明かりの中、浮かび上がっているインテリアや晴香の荷物類は、寝る前と何も変わっていないように見えた。


 さっきの音は何だったのだろう。気のせいだったか。


 眠気がまだあるので、晴香は寝直そうと毛布を被りかけた。その時だ。また物音が聞こえた。どさりと、米袋を地面へ落下させたような音。


 部屋の外からだ。一気に眠気が吹き飛ぶ。


 晴香は、ベットから出ると、部屋のドアへ近づいた。手を伸ばし、そっとドアを開ける。


 光量を下げた薄暗い廊下が、目に映る。廊下には、誰もいなかった。


 立哨しているはずの兵士の姿も見えない。


 不思議に思い、晴香は廊下へと出た。周りを見回しながら、ゆっくりと歩く。足元は絨毯なので、足音はしなかった。


 やがて、晴香はロビーへ繋がる階段へ差し掛かった。そこから下を覗き込むが、人の姿は確認できなかった。


 護衛兵たちはどこへ行ったのだろう。それに、さっきの物音は。


 晴香は階段を下り、ロビーへ足を踏み入れた。


 シンと静まり返った薄暗い空間が、晴香を出迎えた。フロントや待合所のソファにも当然、人はいない。


 押し寄せる暗闇に、晴香は僅かばかり背筋を震わせた。まるで肝試しだ。何だが自分が、とてつもなく危険な行為に及んでいるような気がする。部屋を出る時、伝達の魔石で誰かに声をかければよかったと後悔した。


 いや、と晴香は思い直す。これはもう非常事態かもしれない。本来いるべき人間がいないのだ。今すぐにでも部屋に戻って、伝達の魔石で人を呼ぶべきだった。


 そう判断した晴香は、踵を返しかける。そこで、晴香は玄関に目が止まった。玄関の外は前庭だ。護衛兵たちが兵営している場所。部屋に戻るよりも、前庭の兵士に頼った方が早いかもしれない。


 晴香は玄関へ向かい、取っ手に手をかけた。鍵は掛かっておらず、するりと開く。


 生暖かい夜風と共に、異様な光景が目に飛び込んできた。


 前庭の至る所で、甲冑を身に纏った何人もの護衛兵が倒れていた。合戦の後のような状態だ。


 晴香は、慌てて一番近くに倒れている護衛兵の元へ駆け寄った。膝をつき、容態を確かめる。


 すぐに、目の前の護衛兵が事切れていることがわかった。他の兵も同じだった。皆、死んでいるのだ。


 晴香は絶句した。何が起きているのだろう。


 そこで晴香は妙な点を発見する。倒れている兵士たちが身に纏っている甲冑は、どれもが部分的に大きく陥没し、大砲でも受けたように潰れているのだ。頭部や腹部が重点的であり、潰れた影響で胴体や頭まで損壊し、それが死因に繋がったらしい。


 晴香は唖然としながら、周囲を見渡した。動いている者はおらず、静けさに包まれている。まるで、街中全ての人間が死んでしまったかのようだ。


 何者かの襲撃にあったのは、明白である。しかし、悲鳴すら上げさせず、王都の精鋭をこれほどまでに容易く殺すとは、襲撃者は一体何者だろう。死因から察するに、よほどの怪力と思われるが……。そしてなぜ。


 ロイたちの元へ避難しようと、晴香が考えた時だった。うめき声が聞こえた。晴香は、はっとし、そちらへ顔を向ける。


 少し離れた所で倒れていた兵士が、腕をこちらに向けて伸ばしていた。まだ息のある者がいたのだ。


 晴香は急いでその兵士のそばまで行き、腕に触れた。兵士の甲冑も大きく潰れているが、僅かばかり急所を外れていたお陰で、一命を取り留めたようだ。


 彩音に治療させれば、命は助かるかもしれない。


 そう晴香が思った時だ。瀕死の兵士が、声を掠れさせながら言葉を発した。


 「お逃げください、晴香様」


 背後に気配を感じた。とっさに晴香は振り返る。


 そして、晴香は体を硬直させた。


 背後にいたのは、黒いドレスのようなものを身に纏ったヒューマンの女性だった。スラリとした長身で、妖艶な雰囲気を放つ妙齢の美女。腰まで伸びた漆黒の髪が、印象的だった。


 全身、黒ずくめの女。まるで『魔女』のような――。


 女は口を開いた。氷のような、透き通った声だ。


 「どうしてあなたのような女の子がこんな場所にいるのか、不思議に思っていたのだけれど……」


 そこまで言った女は、うっとりとした表情を浮かべ、婀娜っぽい吐息を漏らした。


 「あなた、とても良い匂いを放っているわね。惚れちゃったわ」


 晴香は、女を見上げながら思う。目の前の人物が、噂の『魔女』なのだろうか。


 そしてどうやら、この女にもワキガの効果はあるらしい。つまりこの女も、ワキガに魅了される異世界人ということだ。


 「あ、あなたが魔女なの?」


 晴香は訊く。そこで、自身の声が震えていることに気がついた。


 私は、この女を恐れているんだ。


 黒ずくめの女は、からかうような仕草で人差し指を自身の唇に当てると、言った。


 「うふふ、内緒」


 ワキガの臭いが届いているはずなのに、女は晴香の質問に答えなかった。


 晴香は、再び質問を行う。


 「兵士たちを殺したのもあなた?」


 「それも内緒。と言いたいけれど、そこは答えてあげる。そうよ。私が殺したの。この街で仕事をするのに邪魔だったからね」


 女は、次はちゃんと質問に答えてくれた。だが、他の異世界人と比べれば、明らかに態度が違っている。


 「し、仕事って何?」


 「それをあなたが知る必要ないわ。そんなことより……」


 女は、こちらに手をかざした。正確には晴香ではなく、隣で倒れている兵士に。


 晴香は、女の行動の意味するところはわからなかったが、意図ははっきりと理解できた。


 「やめて!」


 晴香は叫んだ。その直後、瀕死の兵士の甲冑が全身、まるで水圧に押し潰されたかのごとく、大きくひしゃげた。たちまち地面に血が広がり、それまで晴香が握っていた兵士の手から力が抜ける。


 兵士が絶命したことが、はっきりと伝わってきた。


 晴香が息を飲んでいると、女は晴香へ近づく。


 「本当にあなた、良い匂いがするわ。家に連れ帰って、裸にして飾って置きたいくらいに。どう? 私の元に」


 「跪きなさい!」


 晴香は怒鳴った。ワキガの臭いが届いているのなら、この女もこちらの命令に従うはずだ。これまで例外はなかった。相手が異世界人である以上は。


 だが、先ほどと同様、女は晴香の命令に従わなかった。この女には、ワキガによる従属化が通用しないのだ。


 女は、艶麗な顔に微笑をたたえた。


 「錯乱しちゃって、よほど怖いのね。でも安心して。私はあなたを殺さないから。こんな素敵な香りを放つ女の子を、手に掛けるなんてもったいないわ」


 女は、こちらに手を伸ばす。晴香は恐怖を覚えた。腰が抜けて、身動きがならなくなる。ワキガが通じない相手に、自分は無力だ。しかも、こいつは……。


 「この街での仕事も後少しで終わるし、あなたを連れて帰ることにするわ。芳香用のペットとして、一生飼ってあげる」


 黒ずくめの女の手が、晴香の腕を掴む。晴香は「ひっ」と、小さく悲鳴を漏らした。


 その時だった。風を切る音と共に、隼のように何かが高速で飛んできた。そしてそれは、女の顔の前で透明な壁に当たったかのように弾かれ、地面へと落下した。


 地面へ落ちた物体を見ると、ナイフだった。見覚えがある。ロイが愛用している、大振りのナイフ。


 「姫様!」


 こちらへと、駆けつけてくるロイの姿が見えた。背後にはタイスと、おそらく外周部を警戒していため被害を免れたであろう、護衛兵も数名続いていた。


 黒ずくめの女は、ロイたちを見るなり目を細め、晴香の腕を放した。


 それから、晴香に問いかける。


 「ひとつ質問があるわ。あなたのその素敵な香りの名前、何と言うのかしら?」


 女の、刃物のような鋭い視線に射抜かれ、晴香は無意識に口を開いていた。


 「……ワキガ」


 「ワキガ――。なんて素敵な響き……」


 女は自分の頬に手を当て、感極まったように呟いた。


 「今日のところは見逃してあげる。だけど覚えておいて。必ず私はあなたを手に入れるから」


 女は漆黒の髪をかき上げると、言葉を続けた。


 「私の名前はアルチナ・オルランド。あなたの名前は?」


 晴香は操られるように、言葉を発する。


 「……峰崎晴香」


 アルチナと名乗った女は、満足気に頷いた。


 「晴香。また会いましょう。だけどその前に」


 アルチナは晴香へ手を伸ばし、晴香が着ているパジャマを、まるで紙のように引き裂いた。物凄い腕力、というよりかは、まるでパジャマが勝手に引き裂かれているような、奇妙な感覚だった。


 たちまち上半身が下着だけになった晴香は、胸元を隠し、身を縮こまらせた。


 アルチナは勝ち誇った笑みを浮かべ、引き裂かれたパジャマを掲げる。


 「これは戦利品として貰うわね。『音楽会』の連中にも紹介したいし」


 アルチナは、晴香のワキガ臭が染み込んだパジャマに鼻を押し付け、臭いを嗅ぐ。酩酊したように、恍惚とした顔になった。


 「んふふ。良い匂い。それじゃあね。晴香」


 「待て!」


 寸前まで迫ったロイたちの中から、タイスが叫ぶ。だが、アルチナは耳を貸さなかった。


 ふわりとその場で浮かび上がったと思ったら、風に乗ったかのように、急激に上昇していく。そして、ホテルの頂点ほどまで上ると、屋根の向こうに姿を消した。


 「姫様、ご無事ですか?」


 晴香の元へ到達したロイが、声をかける。晴香は胸元を隠したまま、無言で頷いた。


 「姫様これを」


 タイスが上着を被せる。晴香は、上着ごと体をかき抱いた。


 「負傷者の手当てを! 彩音を呼べ!」


 事態の収拾に取り掛かったロイたちが忙しく動き出す中、晴香は捕食者から逃げおおおせた小動物のように、小さく震えていた。


 あの女――アルチナ・オルランドは一体、何者なのか。紛れもなく、彼女は『スキル』を使っていた。しかも強力な。


 転生人、なのだろうか。晴香やクラスメイトたちのような。だが、アルチナが示したワキガに対する執着心。あれは、異世界人特有のものだった。


 意味がわからない。晴香にとって、アルチナはまさに本物の『魔女』のような、不可思議な存在だった。


 騒々しくなったホテルの前庭を眺めながら、晴香は思う。唯一言えることは、アルチナは脅威となり得る相手であることだ。


 晴香は、ずっとずっとその場で震え続けていた。

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