第六章 躍進

 アーニャ・マロウスが自分の胸の中で泣き出してから、晴香は王都マロウスの王が自身の手中に収まったことを確信した。


 思わず勝ち誇った笑みを浮かべそうになるのを堪え、晴香はアーニャの金色の頭を優しく撫でる。アーニャは、ますます強く泣きじゃくった。


 晴香はアーニャを撫でつつ、謁見の間を見渡す。


 玉座の近くで控えているマロウス国の要人たちや近衛兵たちは、ワキガの臭いが届いたらしく、魅了された様子でこちらを見つめていた。


 ウプランドを着用している大臣たちは、晴香とアーニャのやり取りを見て感動したのか、半分近くの者が泣いていた。特に、一番地位が高いであろう、謁見の儀の進行を行っていた低身長で禿頭の大臣は、まるで我が事のように大粒の涙を流していた。


 マロウス王のみならず、その側近たちまで懐柔することができたようだ。計画通りとはいえ、随分と呆気ない。


 晴香は、アーニャを撫でながら、堪えきれず、ひっそりと含み笑いを行った。


 その後、泣き終えたアーニャの指示により、晴香は最上級の賓客として迎え入れられた。護衛や従者として、謁見の間の外で待機していた彩音を始め、タイスやロイ、シルヴィアも歓迎を受ける。


 アーニャとの約束通り、晴香は当分の間、マロウス城にある迎賓館にて滞在することになった。高級ホテルのような内装をした、最も豪華な賓客室をあてがわれる。


 彩音たち四人にも、従者用の部屋が用意された。彼らもそこで、しばらくの期間、過ごすことになる。


 宿泊場所の案内が済んだところで、晴香は昼食に招待された。彩音たちを連れ、貴賓室へと向かう。


 貴賓室は、まるで一流レストランのように煌びやかだった。中央に、一クラスほどの人数が座れそうな、重厚な長テーブルが備えられている。


 その長テーブルの真ん中に、ピンクのドレスに身を包んだアーニャが座っていた。背後には、側近やメイドのような服を纏った侍女がずらりと整列している。けっこうな威圧感があった。


 すでに食事は用意されており、芸術品のような食器に乗せられた料理が、所狭しと並んでいた。


 その光景は、テレビで観るような外国の代表同士の会食を想起させた。ただ、晴香が座る場所はなぜか、アーニャと向かい合わせではなく、恋人のように隣同士だ。


 晴香は、アーニャの隣の椅子に腰掛ける。タイスたちは、相手の側近たちと同じように、晴香の背後に控えた。


 やがて、アーニャの側近の大臣であるグスターフが、会食参加の礼を言い、会食が始まった。


 晴香は料理に手を付ける。ローストビーフや白身魚のフライ、ブティングに似たパンを食べていく。


 異世界に転生した後、食事のほとんどはルーラル村でとっていたが、それと比べるとこの城の料理は豪華ではあるものの、味が劣る気がした。同じ国内とはいえ、地域によって食生活に差があるようだ。


 それでも晴香は、料理を称賛する言葉をグスターフにかけ、食事を続ける。


 会食が始まり、しばらく経った頃。隣に座っているアーニャが、ソワソワしながらこちらに視線を送っていることに晴香は気づく。


 晴香は訊いた。


 「アーニャ王、いかがなさいましたか?」


 アーニャはエメラルドのような綺麗な瞳を瞬かせ、楽しそうに言う。


 「晴香の『ワキガ』が良い匂いだから、料理がとても美味しく感じるの」


 「それは大変喜ばしいことですわ。私としても光栄です」


 晴香は、ニッコリとした表情で答えた。そして、ふと思い当たる。


 晴香は、アーニャに質問した。


 「もしかして私たちが向かい合わせではなく、隣同士で座っているのはそのためですか?」


 アーニャは悪戯がばれた時のように、恥ずかしそうな様子でコクリと頷いた。三つ編みが小さく跳ねる。


 「うん。そうだよ。だってどうしても『ワキガ』の匂いを嗅ぎながら食事をしたかったんだもん。ここの料理、美味しくないから」


 そう言うと、アーニャは赤くなって俯いた。長い睫毛が美しい。西洋人形のような素敵な少女だと、改めて思う。


 晴香は、少しだけアーニャのほうへ椅子をずらした。


 「それならもっと近くに寄ります。そうすれば、さらに食事が美味しく感じられるはずですから」


 アーニャは顔を上げると、エメラルドグリーンの目を輝かせた。


 「ありがとう!」


 アーニャは、美味しそうに料理を口に運んだ。


 その後、食事を続けながら、アーニャから色々な話を聞いた。母が出産の際、亡くなったこと。父が病死したこと。王という立場が辛かったこと。そのため、城の皆が信じられなくなったこと。人形のジェニーだけが味方だったこと。


 正確には、アーニャがそう話すように、こちらが誘導していたが、彼女は一切警戒することなく、全てを晴香へ明かしてくれた。


 ある程度、話を聞き出した後、晴香は国政について言及する。これまで同様、二人の会話が、アーニャの後ろに控えている側近たちの耳に入っていることを意識しながら。


 「先ほど、王という立場が辛かったとおっしゃいましたが、現在、国政はどのようになさっているのですか?」


 晴香の問いに、アーニャは暗い表情を見せた。


 「城の皆がほとんどやってくれているけど、王としての仕事は、私、全然やってないの」


 「それは私に話してくれたように、誰も信じることができなかったせいですか?」


 「うん」


 アーニャは寂しげに頷いた。


 晴香は、アーニャを見つめながら訊く。


 「なら、今はどうですか? まだ誰も信じられない?」


 アーニャは、大きくかぶりを振った。


 「違う。今は晴香だけが信じられる。晴香だけがあたしに愛情をくれるから」


 アーニャの必死の言葉に、晴香は頬を緩めた。


 「だったら、王の仕事はいかがしますか?」


 「頑張る! ちゃんと王として役目を果たすから!」


 アーニャは晴香のほうへ身を乗り出し、力強くそう言った。


 そして、その後、プレゼントを要求する子供のように、体をモジモジと揺らしながら口を開く。


 「だから、晴香、あたしに『ワキガ』の匂いを沢山嗅がせて欲しいの」


 晴香は明るく同意した。


 「ええ。もちろん。私の言うことを聞きながら王としての務めをこなしたら、好きな時に好きなだけ嗅がせてあげますよ」


 「ほ、本当!? 約束だからね」


 「ええ」


 晴香は頷いた。


 アーニャは晴香の返事を聞くなり、勢いよく席を立ち、晴香の胸に飛び込んだ。弾みで、テーブルの上の食器が音を立てる。


 「ありがとう! 晴香大好き!」


 晴香は食器を手で押さえた後、アーニャの頭を撫でた。


 「こらこら。食事中ですよ」


 晴香は静かに笑いながら、あやすような声をアーニャにかける。


 背後に控えていた側近たちも、アーニャの行動を見て、安堵した笑い声を上げた。


 貴賓室は一気に、明るい雰囲気へと染まった。




 会食の後、晴香は別室にてグスターフから礼を言われた。


 「晴香様のお心遣いのお陰で、アーニャ様が王としての責務に目覚めてくれたようです。これにより、我が国の憂患は解消されるでしょう。本当に感謝いたします」


 グスターフは、慇懃に頭を下げ、魔石の明かりを反射する禿頭を晴香に見せつけた後、頭を上げる。


 グスターフの顔は、憑き物が落ちたかのように、実に晴れ晴れとしていた。


 「礼には及びません。私は大したことをしていませんので」


 晴香は、首を振って答えた。


 「ご謙遜を。晴香様の『ワキガ』のえも言われぬ素晴らしい香り、そのお陰でアーニャ様が改心なされたのです。それのみならず、城の者たちも活気たっておりますぞ」


 誉めそやすグスターフの表情筋も緩んでおり、魅惑されたように目を細めている。


 晴香はグスターフの反応に満足すると、自身も頭を下げた。


 「そうおっしゃっていただき、至極光栄でございます」


 グスターフは恭しく言う。


 「晴香様がアーニャ様へ提言された通り、私たちも晴香様の命に従います。何なりとお申し付けください」


 「ええ。わかりました」


 晴香の頭の中に、階段を登る足音が響く。目的達成のための階段を、ゆっくりと登る自分の足音が。


 地盤は整った。後は、晴香の『目的』を伝えれば、自ずと前へ進むだろう。


 晴香が、グスターフに再度話しかけようとした時だった。


 ちょうど部屋のドアが開き、アーニャが中へと入ってきた。今まで食事後の装いを整えていたのだろう。衣装が赤いドレスに変わっている。


 アーニャは二人の様子を見るなり、頬を膨らませた。


 「あーグスターフ、私の晴香を取らないでよ」


 アーニャは駄々をこねながら、晴香に駆け寄り、腰にしがみ付いた。


 顔を埋め、匂いを嗅ぐ。


 「えへへ。本当に良い香り」


 無邪気なアーニャの姿を見て、グスターフは感極まったように何度も頷いた。


 晴香はアーニャを抱きかかえると、グスターフへ言う。


 「とりあえず、後ほど私の側近たちを交え、会議を行いましょう。そこで今後の方針を話します」


 晴香の言葉を聞き、グスターフは深く頭を垂れた。


 「仰せのままに」


 「私も晴香の言うことなら何でも聞く!」


 抱っこされたまま、アーニャは大きな声でそう言うと、晴香の首の後ろに手を回し、力一杯抱擁した。




 元二年一組の生徒である井谷和枝は、マロウス城下街に存在する一軒の酒場にいた。


 その酒場は、どこにでもあるような、国から酒類の販売の許可を得ている真っ当な店舗の一つであった。


 和枝は、店内の片隅に置かれてある小さなテーブルに一人座り、食事を取っている最中だった。


 和枝は黒いローブを全身からすっぽりと被っており、その相貌は見えない。体型も隠れているため、これでは種族も判別不可能だろう。


 どう見ても不審人物だが、客や店員は、誰も和枝に視線を向けようとはしていなかった。それは和枝の全身から放たれる、どんよりとした黒いオーラのようなものが原因かもしれない。


 和枝は広い酒場で喧騒に包まれながら、煮たインゲン豆をフォークで口へと運んだ。


 和枝の心の中は、茫漠とした不安で一杯だった。


 修学旅行の最中、クラスメイトたちと共に事故死した後、この異世界へと転生させられた。


 和枝は当初、エルドア大陸の中にあるロムニアという小さな街の近くに降り立った。王都マロウスの北に位置する場所だ。


 和枝は、見知らぬ土地で、混乱と恐怖を抱えたまま、ロムニアへ辿り着いた。


 和枝はロムニアに身を寄せ、安全を確保しようとした。しかし、ロムニアは治安が悪かった。一見すると、ファンタジー世界のような綺麗な街並なのだが、強盗や殺人が頻発する危険地帯だった。おまけに暮らしている住人たちは、ドワーフや獣人などこれまでの人生で見たことのない生物ばかりであり、容易に助けを求めることもできなかった。


 行く当てもないまま、見知らぬ場所で彷徨う和枝。


 そこで和枝は追い剥ぎにあった。相手は全身に毛が生えた野獣のような生き物、獣人だった。


 獣人は恐ろしかった。信じられない腕力を持っており、たちまち制服は破られ、ブレザーと持ち物(ハンカチと財布以外は何も持っていなかったが)を奪われた。


 あっさりと、和枝は地面へ倒れ伏す。


 だが相手は、追い剥ぎだけでは済まそうとはしなかった。獣人の男は、和枝が女だと知ると、レイプしようとしたのだ。


 幸い、和枝が必死に抵抗したお陰か、間一髪で逃れることができた。相手はしつこく追いかけてきたものの、すぐに和枝を見失ってしまった。


 持ち物を奪われ、高校の制服もボロボロ。体は傷だらけ。その状態で、和枝はロムニアを後にした。


 広い平原へ足を踏み入れた和枝は、王都マロウスを目指そうと思った。ロムニアを彷徨っていた時、南方にマロウスという大きな都市があり、そこは治安が良いとの情報を聞いたためだ。


 マロウスへと向かう道中は、心底震え上がった。怪獣映画に出てくるような、奇妙な生物が闊歩していたからだ。


 運良く、異形の怪物たちは、和枝を襲うことはなかったが、やはり街の外が危険だということは認識させられた。


 歩き続け、夜が過ぎた頃。和枝は疲労困憊しながら、王都マロウスへと辿り着いた。


 広大な都市と、中央にそびえ立つ巨大な城を見て、和枝の心は躍った。私は助かったかもしれない。


 しかし、マロウスの近くまで行き、詳細がわかると和枝は不安を覚えた。


 マロウスは、周囲を高い壁で囲まれている。内部に入るには、四方にある門を通らなければならなかった。


 その門では、甲冑に身を包んだ兵士らしき者が検問を行っていた。門の横には検問所があり、何名かの人間が兵士に拘束されている。


 和枝は自身の身なりを確認した。ボロボロの制服に、薄汚れた体。体臭もある。これでは、検問を抜けるのは難しい気がした。下手をすると、捕縛されてしまうかもしれない。


 かといって、今から別の街や村へ向かうのは自殺行為に等しかった。異世界に転生してから、ろくに食べ物を口にしておらず、すでに体力は限界に近い。その状態でまた野外を彷徨えば、今度こそ野垂れ死んでしまうか、モンスターの餌になってしまうだろう。


 和枝は王都を前にしたまま、絶望に包まれた。前門の虎、後門の狼という現代国語で習った言葉を思い出す。まさに今の状態だ。


 和枝はそれでも、ふらふらと夢遊病患者のような足取りで、マロウスへ向かった。


 異変に気がついたのは、南の門に接近した時だ。


 南の門から外へ延びる街道上に、大勢の人間が検問のために並んでいるのだが、その誰もが、近くにいるボロボロの姿の和枝へ目を向けなかった。中には、和枝が見えないかのように、馬車を走らせている者もいた。そのせいで、和枝は轢き殺されそうになった。


 決定的だったのは、勇気を出して検問待ちの人間に声をかけた時だ。検問待ちの人々はエルフやドワーフ、獣人など様々な種族の者が大勢いたが、皆和枝が声をかけても、和枝が存在していないかのような態度で無視をした。


 まるで、透明人間になった気分だった。


 そこで和枝ははっとし、ステータス画面を開いた。


 当初は空白だったスキル欄に、新しい文章が追加されていることに気づく。


 『インビジブル(小)』


 和枝は、停車している馬車に近寄り、窓ガラスを確認した。


 鏡のように対象を反射しているガラスには、和枝は映っていなかった。背後の景色を映すばかりである。


 次に和枝は、自分の体を見下ろした。ちゃんと姿は見えている。自分の目で直視するならば、自身の身体は視認できるらしい。


 和枝は南の大門に目を向けた。兵士による検問をクリアした入城者たちが、吸い込まれるようにして、城下街へと入っていく姿が目に映る。


 もしかしたら、いけるかもしれない。


 和枝は唾を飲み込むと、大門へと向かって足を踏み出した。




 騒々しい店内で食事を終えた和枝は、周囲を見渡した。


 エールやワインに似た酒を飲んでいる酔客たちや、和枝のように食事が目当ての客など、沢山の人間がいる。


 現在は『インビジブル』を発動させていないので、彼らには自分の姿ははっきりと見えているはずだ。


 しかし、全身を覆うロープのお陰で、こちらの容姿までは確認できていないだろう。


 困るのだ。自分の容姿を記憶されたら。


 和枝が女神から与えられた『インビジブル』は、自身を透明化できるスキルだった。発動させれば、姿はおろか、声や足音すらも周囲の生き物に認識されなくなる。


 ロムニアでの追い剥ぎから簡単に逃走できたことや、平原でモンスターが和枝に見向きもしなかったのは、和枝が無意識にスキルを発動していたお陰だった。


 マロウスに侵入してからは、和枝は生活の全てを、『インビジブル』を使っての窃盗に依存していた。


 現在着用しているロープや、中に着ているブーナッドのような服も、全て同様の方法で手に入れた物だ。


 住む場所こそは、普通に借りた方が便利なので、盗んだお金を使い、街の外れにある小さな集合住宅の一室を借りた。


 レストランや、酒場での食事も同じだった。『インビジブル』を使えば無銭飲食も可能だが、リスクと得られるメリットを天秤にかければ、お金を払った方が無難であった。


 これまで、幾多の窃盗を繰り返してきたのだ。捕まれば、牢屋行きは免れない。リスクは極力排除しなければならなかった。


 和枝は、水を飲みながら、自分の未来について考える。ずっと雨の日のような薄暗い不安が、胸中を漂っていた。


 これからどうすればいいのだろう。この先ずっと、犯罪で生計を立てていく人生。それは幸せなのか。いや、ありえない。


 かといって、他に生きる術も思いつかなかった。異世界に単身、放り込まれ、頼る人間もおらず、スキル以外何の取り得もない自分が、以前の世界よりも遥かに過酷な環境で生活していけるわけがなかった。


 『インビジブル』を使っての犯罪行為で糊口を凌ぐことは、当然の成り行きなのだ。


 せめて誰か味方がいれば、展開も違っただろうが。


 和枝はクラスメイトたちのことを思い出す。皆もこの異世界に転生し、途方に暮れているはずだ。クラスの誰かと合流し、力を合わせれば状況を打破できる可能性があった。


 しかし、二ヶ月近くマロウスで生活しても、転生者らしき者の情報が得られなかった。そのことから、マロウスには自分以外、元二年一組の生徒はいないのだと考えられた。


 自分がやるべきことは、他のクラスメイトを探すことかもしれない。和枝はそう思った。絶望的なこの環境を解消するには、それしかないと。


 ただ、会いたくないクラスメイトたちもいる。修学旅行における女子の第一班の人間がそうだ。阿南瑠奈をはじめ、豊川樹里や桑島麻衣ら二年一組のカースト上位の連中。和枝のような器量の悪い人間を、人とすら思っていない下劣な人種。


 そんな人間と関わったら、いいように利用された挙句、簡単に殺されてしまうだろう。彼女たちもスキルを持っているはずだから。


 男子の第一班に対しても、同じことが言える。皆やんちゃだ。彼らもスキルを手に入れたら、躊躇うことなく、他者へと牙を向けるに違いない。


 可能なら、同じ第三班のメンバーと合流したかった。彼女たちとなら同格なので、共闘関係が結べるはずだ。特に、棚瀬彩音に至っては、従属すらしてくれるかもしれない。


 和枝は水を一気に飲み干すと、立ち上がった。


 とりあえず、仲間との合流については住処に戻って考えよう。


 和枝はポケットから銅貨を二枚取り出し、テーブルに置いた。それから、酒場の出入り口へ向かって足を踏み出す。


 その時だった。突如として、酒場の出入り口が騒がしくなった。どよめきと、床を踏み鳴らすような物音。


 乱闘でも起きたのかと思って、和枝はそちらを見た。


 そこで眉をひそめる。乱闘ではなかった。甲冑に身を包んだ複数の人間が、酒場へとなだれ込んできたのだ。花柄の紋章が肩に刻印されていることから、おそらくマロウス城の憲兵隊の兵士だと思われた。


 どうして、憲兵隊がこんなところに現れるのだろう。


 甲冑に身を包んだ兵士たちは、全員和枝の方に視線を向けていた。


 和枝の心臓がドクンと波打つ。たちまち自分の顔が青ざめていくのがわかった。


 和枝は悟る。目の前の兵士達の標的が、自分なのだと。


 和枝は『インビジブル』を使い、この場から逃亡しようとした。だが、遅かった。まるで和枝の動きを把握しているかのごとく、兵士達は剣を抜き、たちまち和枝を取り囲んだのだ。


 剣の切っ先は、全てこちらに突きつけられている。この状態に陥ると、ただ消えるだけの『インビジブル』は役立たずになる。


 和枝は愕然とした。兵士たちの動きを見れば、彼らが『インビジブル』の性質を知っていることは明白だった。つまり、とっくの前から、和枝の存在は憲兵隊に看過され、監視されていたということになる。


 一体なぜ、と思う。充分に警戒していたはずなのに。それに、憲兵隊が出張ってくるのも理解しかねた。窃盗犯などの逮捕は通常、治安維持隊が行うべき仕事である。憲兵隊が動くのであれば、よほどの重罪犯に対してのみなのだ。


 もしかすると、相次ぐ窃盗により増えた治安維持隊の兵士などが偶然『インビジブル』を使う和枝を目撃したのかもしれない。そしてその不可思議な力を警戒して、憲兵隊に報告、憲兵隊が動く展開になったのだろう。


 和枝は、憲兵隊が自分に目星を付けた理由を、そう予想した。


 しかし、和枝のその予想は、兵士の次の言葉で誤りだと判明した。


 「井谷和枝だな? 我々についてきてもらおう」


 リーダーなのだろう。他の兵士よりも派手な甲冑を纏っている男が、ヘルム越しのくぐもった声でそう言った。


 和枝は息を飲む。たちまち混乱が訪れた。一体どうして、自分の名前をこの兵士は知っているのか。


 相次ぐ窃盗事件の犯人を突き止めたことまではわかる。監視していれば、『インビジブル』の性質も把握できるだろう。


 しかし、決して誰にも漏らさなかった自身の本名を、彼らが知っているはずはないのだ。


 ただ一つの理由を除いて。


 憲兵隊の一人が、手錠を持ち、和枝の背後に回る。和枝は観念し、身を任せた。


 和枝は、憲兵隊に後ろ手に拘束されながら、自分の願いがすぐにでも叶うのだということを予想した。




 「井谷和枝の収監が完了いたしました。指示通り、地下の牢屋を使っております」


 憲兵隊隊長であるゲオルグ・ウェバーが、敬礼をしながら報告を行う。


 「ありがとう」


 執務室でアーニャの隣に座っている晴香は、ゲオルグへ礼を言った。


 マロウス城内の憲兵隊の本部施設には、取調べの際に被疑者を収監する牢屋がある。一つは取調室と同じ建物内の地上に。そしても一つは地下に。


 地下に収監される被疑者は、とりわけ危険な人物が多く、凶暴な人間や獣人などがよく該当していた。


 スキルを獲得した井谷和枝にも、同様の措置を取った。彼女は非力とはいえ、姿を消せる能力がある。いくつものドアを通らなければ辿り着けない地下の牢屋は、極めて不利な環境に値するだろう。


 「それじゃあ、今から井谷和枝と話をするわ」


 晴香は立ち上がった。するとそれまで真面目に書類へ筆を走らせていたアーニャが、晴香のスカートを掴む。


 アーニャは、唇を尖らせていた。


 「行かないで晴香。まだ書類が終わってないの。終わるまでずっと『ワキガ』の匂いを嗅がせて」


 晴香は、アーニャの金色の髪を撫でる。


 「すぐに戻ってきますから、少し我慢しててください」


 アーニャは、泣きそうな顔になる。


 「いやだ私も付いていく!」


 駄々をこねるアーニャを見て、そばにいたゲオルグはヘルムを取った。下から格闘家のような、精悍で逞しい顔が現れる。額にある縦三本の白い傷跡が、非常に目立っていた。


 ゲオルグは、圧力のある顔に笑顔を浮かべ、アーニャを諌める。


 「アーニャ様、申し訳ありませんが、ちょっとの間、晴香様をお借りしますね」


 二人に説得され、アーニャは渋々納得したようだ。不満気な態度を取りながらも、書類作業へと戻った。


 晴香はアーニャを執務室へ残し、ゲオルグの後について廊下へと出た。


 廊下を進み、一旦中庭に出ると、別館を抜け、大きく区画されている広場に足を踏み入れる。そして、奥にある憲兵隊の本部施設へ入った。


 そこから地下へ続く階段を下り、いくつかのドアを抜けた後、二人は最深部にある部屋へと進入した。


 そこが地下牢だった。


 地下牢には、その名の通り、牢屋がいくつかあり、カンテラ式の光の魔石が弱々しい明かりを放っている。部屋全体が薄暗く、幽霊でも出そうなくらい陰鬱な雰囲気が漂っていた。


 現在、ここで使われている牢屋は一つだけだった。晴香はゲオルグと共に、その牢屋の前に立つ。


 牢屋の中には誰もいなかった。簡易的なベットと、隅にある小さな便器のみが、魔石の薄明かりの中浮かび上がっていた。


 「井谷和枝!」


 ゲオルグの低い声が、地下室に響き渡る。だが、何の反応もなかった。


 ゲオルグはため息を一つつくと、壁に掛けてあるホースを手に取り、鉄格子の間から牢屋の中へ放水した。


 たちまち水浸しになる牢屋。だが、ある場所だけ、何もないにも関わらず、柱にでも当たったかのように水しぶきが上がった。


 やがて、その場所から空中へと描き出すかのように、女の姿が出現した。


 井谷和枝だ。全身びしょ濡れで、のっぺりとした顔が、苦渋に歪んでいる。


 和枝は制服ではなく、ノルウェーの民族衣装であるブーナッドのような服を身に纏っていた。


 「やめて。もう姿は消さないから」


 和枝は、悲痛な声でそう言った。


 ホースを床に置いたゲオルグは、号令のように声を張り上げる。


 「峰崎晴香様の面会だ。かしこまれ!」


 和枝はそこで初めて、ゲオルグの隣に人がいると気がついたようだ。目を見開く。


 「峰崎さん!? どうしてあなたがここに!?」


 和枝は鉄格子を手で掴み、そう叫んだ。まるで幽霊でも見たような様子だ。もっとも、その感覚は間違ってはいないが。


 「久しぶりね。井谷さん。修学旅行の班決めの時以来かな?」


 和枝は血相を変えながら、なおも質問する。


 「峰崎さん、あなたは死んだはずでしょ? 屋上から飛び降りて。なぜここにいるの?」


 死んだのは、あなたも同じじゃない。そう思ったが、いちいち突っ込まず、和枝の質問に答えてあげることにした。


 「なぜかはわからないけど、私もあなたたちと同じ世界に転生したみたいなの。正確には、私の方が先に死んでここにきたから、あなたたちが私のいる世界に転生した、って言った方がいいかもだけど」


 「……」


 和枝は複雑な表情を浮かべた。


 「どうしたの?」


 「その……峰崎さんの態度が、前と違う感じだからちょっと驚いて」


 それから和枝は、鼻を指で擦った。やはり、ワキガの臭いが気になるらしい。


 晴香は鉄格子に近づき、答える。


 「私もこの世界に転生して、色々変わったのよ。あなたの方は随分と落ちぶれているみたいだけど」


 和枝は、上目使いにこちらを睨んだ。目の隈が濃いため、ひどく陰険に感じる。


 「私の情報を流したのは峰崎さん?」


 「ええ。そうね」


 「どうして私がこの都市にいるってわかったの? それからスキルまで」


 晴香は首を振った。


 「少し違うわね。私は最初からあなたがマロウスにいるとは知らなかったわ。ただ、元二年一組のクラスの誰かは必ず一人、居住しているだろうと思っただけ」


 和枝は、理解しかねるといった感じで眉根を寄せた。


 「どういうこと?」


 「そのままの意味よ。まず私は城の兵士や憲兵兵、諜報員たちを使って、私のような東洋人風の人間を捜索させた。年齢も同じくらいだと指定してね」


 晴香は目の前の鉄格子を握った。


 「それでもなかなか発見できなかったから、今度は犯罪が多発している近辺を重点的に探させたの。転生し、スキルを貰った人間は、ほぼ確実に犯罪に使うと踏んで」


 晴香は鉄格子越しに、ぐっと和枝へ自分の顔を近づけた。


 「そこで網に掛かったのがあなたってわけ。運悪く、あなた以外のクラスメイトはマロウスにはいなかったようだけどね」


 和枝は、不愉快そうに顔を歪める。より強く感じるワキガの臭いに、閉口しているようだ。それだけではなく、心情的にも気分を害したらしい。


 晴香は付け加える。


 「つまり、順序が逆で、何か根拠があってあなたを探していたわけじゃなく、二年一組のクラスメイトを探していたら、偶然あなたが該当しただけの話」


 和枝は地味な顔に、神妙な表情を浮かべた。


 「どうしてそこまでして、皆を探しているの? 探してどうするつもり?」


 「それは元クラスメイトのあなたなら、何となくわかるんじゃない?」


 晴香は、冷たい口調でそう言った。和枝は口を噤む。


 しばらく、地下室に静けさが訪れた。


 和枝は、口を開く。おずおずといった感じだ。


 「峰崎さん、さっき、城の者を使ってクラスメイトを探させたって言ってたけど、どうしてあなたにそんな権限があるの? その人も峰崎さんを様付けで呼んでいるし、一体何があったの?」


 和枝は、ゲオルグを見ながら言った。だが、ゲオルグから一睨みされ、たちまち身をすくめる。


 晴香は、にこやかな顔で答えた。


 「内緒。機会があったら教えてあげる。少なくともこの都市での全権は、私が持っていると思った方がいいわ」


 困惑する和枝を尻目に、晴香は立ち上がった。そして、ゲオルグの真横に戻る。


 「さて、井谷さん、本題に入るね。犯罪者であり、私の元クラスメイトであるあなたへの処遇についてだけど」


 和枝が、息を飲んだことがわかった。ずっと気になっていたことなのだろう。


 晴香は言う。


 「私の下僕になりなさい」


 「し、下僕?」


 和枝は珍妙な声で聞き返す。


 「ええ。女王に絶対の忠誠を誓う騎士のように、私に全てを捧げるの。これから先の人生、私の命令に従って生きてもらうわ。もちろん、最初は信用できないから、逃亡防止の魔石を体に付けさせるけど」


 和枝は、慌てたように反論する。


 「そんなことできるわけないじゃない。どうしてあなたなんかに」


 和枝がそう言い終わると同時に、怒声が響き渡った。ゲオルグだ。


 「貴様! 晴香様に向かってなんて口を! 恥を知れ!」


 ゲオルグは激しく鉄格子を蹴った。あまりの脚力に、牢屋全体が揺れる。


 和枝は小さく悲鳴を上げ、小動物のように身を屈めた。


 晴香は、丸まって震える和枝の前まで行くと、膝を下ろし、声をかける。


 「井谷さん。今すぐに決めなくてもいいわ。少し時間をあげる。ただし、これだけは忘れないで。あなたが私の提案を受け入れないのなら、監獄行きだから。少なくともあなたは罪人だし」


 晴香は立ち上がると、なおも床で震える和枝を残したまま、牢屋を後にした。背後からゲオルグもついてくる。


 洞窟のように薄暗い階段を登りながら、ゲオルグが質問を行った。


 「晴香様。あの程度で宜しいのですか? 必要ならば、拷問でも与えて服従させた方が」


 晴香は肩をすくめる。


 「大丈夫よ。彼女は確実に私の提案を受け入れるわ」


 晴香は確信を持っていた。元クラスメイトである。あの女の性格は、知っているつもりだった。強い者には、必ず屈服する人間なのだ。


 これで、井谷和枝も彩音と同様、隷属化に成功するだろう。彼女の透明化になれるスキルは、非常に便利だ。利用しない手はない。


 地上への階段を登りながら、晴香はほくそ笑んだ。


 二つの村を手中に収め、憎きクラスメイトも一人葬った。そして、一国の首都の長も篭絡済み。スキル持ちの人間も隷属化し、もう一人も時間の問題。


 自分でも信じられないほど、順調に事が進んでいた。


 このままいけば、着実に復讐を達成していくことができるだろう。


 晴香はそう予感した。


 階段を登りきり、憲兵隊の本部施設のホールへ出る。そして、晴香に敬礼する憲兵たちの側を通り、外へ通じるドアを開けた。


 その途端、明るい光が晴香を包む。光は神々しく、まるで自分の未来を祝福しているようだと、晴香は思った。

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