第五章 一人ぼっちの王女

 ルーラル村から北へ六十キロほど離れた所に、その都市はあった。


 王都マロウス。


 ルーラル村や、さらに南に位置するスロプネン村を含めた周辺地域を統括しているマロウス領の首都であり、西の大陸エルドアの中でも有数の都市として君臨していた。


 しかし、マロウスは現在、混迷を極めていた。


 273代国王であったエルガー・マロウスが病気により死去し、国王の座に即位したのが、八歳になる一人娘のアーニャであった。エドガーの妻である王妃アンはアーニャ出産の際、すでに死亡している。


 幼き女王。稀な話ではあるが、前例がないわけではない。しかし、混迷を見せるのは別に理由があった。


 それは、新国王であるアーニャが心を閉ざしている点にあった。


 父エドガー死去後、誰の言葉にも耳を貸さず、王でありながら政を行わない、非常に困った存在に成り果てていたのだ。


 そのため、王都マロウスでは、国の行く末を危惧する声が囁かれ始めていた。




 マロウス城内にある王専用の食堂。舞踏会を開けそうなほど広い部屋の中央に、長テーブルが設えてあった。


 そこに、一人の小さな女の子が座っていた。


 女の子は、三つ編みにされた金色の髪を持ち、瞳は宝石のような緑色である。整った色白の容貌は、煌びやかなドレスと相まって、まるで人形のようだった。


 女の子の目の前には、芸術品を思わせる綺麗な食器に乗せられた様々な種類の料理が並んでいる。


 だが女の子は、料理には一切手を付けていなかった。周囲から隔絶するように、じっと俯いたままである。


 そばに控えていた侍女の一人が、女の子へ気を遣うような口調で問いかけた。


 「アーニャ様、どこか具合でも悪いのですか?」


 アーニャと呼ばれた女の子は、俯いたまま、返事をしなかった。


 しばらく時間が過ぎる。


 テーブルの上にあるポテトスープの湯気が薄れ始めた頃、侍女の隣に立っていた背の低い老人が行動を起こす。執務大臣のグスターフ・ヘンドルだ。


 グスターフは静かな声で、アーニャへ言う。


 「アーニャ様。早く食べないと料理が冷めてしまいますぞ」


 だがアーニャからは、反応がない。


 グスターフは気まずそうに禿頭を手で掻いた後、言葉を続ける。


 「昼もろくに食べていないのですから、少しでも何かお腹に入れないと」


 グスターフは、糸が切れた人形のようにじっとしているアーニャへと歩み寄った。


 「さあ、お食べください。王としての仕事も山積しております。どうか英気を養ってください」


 グスターフがそう言い、アーニャの肩に手を乗せた時だった。


 「触らないで!」


 アーニャは素っ頓狂な声を上げ、身をよじってグスターフの手を振り解いた。


 そして、テーブルの上に乗ってある料理のいくつかを手で払い除ける。


 食器が床へと落ちる耳障りな音が食堂へと響き渡った。中の料理も散乱する。


 「こんな料理、食べたくない! 美味しくないもん!」


 アーニャは叫ぶようにして言うと、テーブルを離れ、食堂の出入り口へ向かって歩いていく。


 「アーニャ様!」


 グスターフが呼び止めるが、アーニャは耳を貸さなかった。そのまま食堂を出て行ってしまう。


 アーニャが消えたドアを見つめながら、グスターフは深いため息をついた。暗澹たる思いが、胸の内に渦巻いている。


 グスターフは心の中で呟く。以前は、あんな女の子ではなかったと。


 父親である前国王のエドガーが存命の頃は、母親がいないにも関わらず、アーニャは父親の言いつけをよく守る、素直で笑顔が絶えない女の子だった。


 世界各国の情勢が混迷し、マロウス国も影響を受ける中、緊張に包まれる城内において、まるで荒廃した台地に咲く、一輪の花のような存在だった。


 だが、エドガーが死去してからは、人が変わったかのように暗くなり、誰の言葉も聞き入れなくなった。先ほどのように粗暴な面を見せることもあった。


 内政や執務などは、かねてよりエドガーへ仕えていた大臣他、側近が執り行っていたが、最終的な決定権は最高権力者である国王が持っている。また、外交における代表者も国王だ。少女といえど、国の長として重要な役割を果たさなければならない面は多々あった。


 だが、この体たらくでは、それもままならない。日に日に増え続ける、署名待ちの書類達。日程が差し迫る諸外国との外交。


 ましてや、現在、エルドア大陸の東に位置するキロル連邦との貿易摩擦があり、一触即発の状態であった。


 王であるアーニャがこのままでは、下手をすると、国家存亡の危機に繋がる可能性も出てきているのだ。


 アーニャが散らかした料理を片付ける侍女たちを見ながら、グスターフは思う。


 あの子が心を閉ざしてしまったのは、大人からの愛情を信じられなくなったせいだ。つまるところ、今アーニャ王に必要なのは、愛情を寄せることができる人物である。


 アーニャは八歳の少女。母親も生まれた時からいないのであれば、愛情を求めるのは当然の話であった。


 これまでは、父であるエドガーがそれを担っていた。だが父亡き今、そこが空白になっているのだ。


 空白を埋める人物さえいれば……。


 しかし今現在、そのような人物は現れていない。赤ん坊の時から仕えていた侍女でも、オムツを替えたことすらある自分でも無理だったのだ。様々な人物が入れ替わり立ち代りアーニャと接したが、あの子は誰にも心を開かなかった。


 このままでは――。だが、一体どうすれば。


 グスターフは憂いを帯びた顔で、天井を仰いだ。




 自室へ戻ったアーニャは、大きな音を立ててドアを閉じると、大人が何人でも眠れるほどの広いベットへ飛び込んだ。


 そして、毛布へと顔を沈める。こうしなければ、今にも泣いてしまいそうだったからだ。


 アーニャは、顔を沈めたまま、先ほどの食堂での光景を思い出す。


 執務大臣のグスターフは、アーニャを気遣うような言動を取った。侍女もそうだ。昼食を拒否し、朝から何も食べていない状態のアーニャの体調を心配したのだ――。


 アーニャは歯噛みする。違う。そうではない。


 あの人たちの心の奥底にあるのは、この国を憂う気持ちだけなのだ。自分の身を案じたのはそれが目的で、本当にアーニャのことを慮って出た言葉ではない。


 『王』の身を案じたのだ。


 父が亡くなり、悲観に暮れる中、涙が乾くよりも前に、自分が王の座に就いていた。専属の教師から教わった『青天の霹靂』という言葉を、そこで初めて経験した。


 その時からすでに、自分へ注がれる周りの視線は『アーニャ』ではなく『王』を見ていることにアーニャは気がついた。


 父が生きていた頃は、城の皆はアーニャを我が子のように可愛がってくれた。愛情も沢山注いでくれた。それがとても嬉しかった。だから、自分も精一杯皆へ愛情を返した。


 しかし、アーニャが王へ即位してから皆の変わりようを目にすると、これまで受けてきた愛情が嘘ではないかという気がしてきた。


 城の皆は、生まれた時から自分を『王』の候補としてしか見ておらず、与えられてきた愛情はまやかし、虚構なのだと。


 生まれた時から母がいない自分へ本当の愛情を与えてくれるのは、父のみだったのではないか。そして、父が死んだ今、この城――いや、この世界――において、自分へ愛情を向けてくれる人間など、一人もいないのではないか。


 その疑惑に、アーニャはとらわれたのだ。


 そうなってしまっては、もう誰にも心を開けなかった。自分へ接してくる人間全員が、ニコニコ顔の仮面を被った詐欺師に見えた。自分は糸に繋がれ、好き放題操られるマリオネット。


 アーニャは、毛布から顔を上げ、枕元に置いてあった熊の人形を抱き寄せた。


 この人形は、父が生前、アーニャへプレゼントしてくれた物だ。名前をジェリーといい、女の子である。


 アーニャはジェリーを抱き、仰向けに寝転がった。しばらくの間、天井を見つめる。


 気がつくと、涙が止め処もなく溢れてきた。


 寂しかった。誰かそばにいて欲しかった。


 だが、相応しい人間がこの城にはいないのだ。皆が敵。四面楚歌である。


 アーニャは、ジェリーを強く抱き締め、横向きになる。涙が鼻梁を伝って、流れ落ちていく。


 アーニャはすすり泣いた。これから先、ずっと一人ぼっちで生きていくのだろうか。誰からも愛されず、愛情がこもった抱擁すらも受けられないまま、老いて死ぬまでずっと。


 そんな人生は嫌だった。心から信頼できる人間から抱き締められたかった。安心できる人間がそばにいて欲しかった。閉ざされた心を開け、飛びつきたくなるような気持ちにさせてくれる誰かが現れて欲しかった。


 アーニャは、ずっとずっと夜遅くまで泣き続けた。




 翌日の朝食の時間。アーニャは、今朝も食事をほとんど取らなかった。スープをわずかばかり啜ったのみである。


 グスターフや侍女が心配げに体調を尋ねてくるが、アーニャは無視をした。


 この後は一日中、部屋に引きこもって過ごそう。そう考え、アーニャは席を立つ。

 そこで、グスターフが嘆願を行った。


 今日は朝から謁見の儀があり、王として参加して欲しいとの願いだった。


 アーニャはそれにも聞く耳を持たず、部屋へ戻ろうとした。だが、ふと思い止まる。謁見の儀は、執務や外交などのあからさまな国政とは違い、マロウス領内に住む一般領民からの陳情を聞く場だ。滅多に城外の人間と接することのないアーニャにとっては、新鮮な体験ができる催事なのである。


 少し考えた末、アーニャは謁見の儀を受けることにした。




 一時間後。玉座に座っているアーニャは、謁見の儀へ参加したことを後悔していた。


 なにせ、アーニャはただ玉座に座り、話を聞くだけだったからだ。発言は許されておらず、進行や指示はグスターフや他の大臣たちが行っている。そのため、とても暇だった。人形のジェリーでもできる仕事だ。


 しかも、領民の話す内容は税金がどうとか、土地がどうとか難しい話ばかりで、アーニャにはちんぷんかんぷんだった。


 これでは、普段接しない者と顔を合わせても、まるで意味がなかった。そもそも、アーニャがここに座っている必要性すらないように思われた。


 アーニャはうんざりして、謁見の儀の途中でもこの場から去ろうと思った。自分の部屋へ戻り、ジェリーと一緒に本を読もう。


 ちょうど、四人目の謁見が終わったところだった。アーニャは玉座から立ち上がろうとする。同時に進行役のグスターフが、次の謁見者である領民の名を呼んだ。


 「峰崎晴香」


 そこで動きを止めた。グスターフが呼んだ次の領民の名前が、少し聞き慣れないものだったからだ。


 アーニャは、謁見の間にある大扉に目を向けた。一人のヒューマンの女性が、中へと入ってくる。


 大扉が仰々しい音を立てて、閉じられた。女性はゆっくりと、こちらへ歩を進める。


 女性は、フード付きの黒いコートを着ていた。しかし、今はフードは外されており、後頭部の方へ垂れている。そのため、顔は露出されていた。


 けっこう若い。十代半ばくらいだろうか。謁見の儀に若い女が臨場するのは、珍しいことである。


 若い女は謁見の定位置までくると、片膝をついた。間に短い階段があるため、アーニャは見下ろす形になる。


 グスターフからの指示が飛び、若い女は形式的な挨拶を行う。下々のために謁見の場を設けてくれて感謝するといった、下らない内容だ。


 女の深謝の言葉を聞きながら、アーニャは自身の気持ちが冷めていっていることを自覚した。所詮名前が珍しく、若いというだけが特徴のようだ。


 例の如く、陳情の内容がつまらなかったら、すぐにでもこの場から逃げよう。


 やがて挨拶が終わり、本題に移る。女は片膝をついたまま、こう言った。


 「まずはアーニャ王にお見せしたい物がございます」


 女は立ち上がり、コートを脱ぐと、そのまま床へ落下させた。


 コートの下から現れたのは、礼服に似た服装だ。紺の上着に、中はおそらくブラウス。首元に赤いリボンが結わえてられており、下半身は緑と黒のチェック柄のスカート。そして白い靴下に革靴。


 それだけだ。他には何も身に付けていなかった。


 アーニャは首を傾げる。見て欲しい物とは一体、なんだろう。


 手には何も持っていなかった。当然である。そもそも、謁見の儀は、物品の直接持ち込みは許可されておらず、何か紹介したい物があったら、近衛兵による検品の後、そのままここに運ばれる手筈だ。


 ようするに、目の前の峰崎晴香が言う「見て欲しい物」は、現在彼女が着ている服に他ならなかった。


 しかし、それがどうしたのか。確かに、変わった服ではあるが、特筆するほどではない。彼女の村特有の礼服なのだろう。


 そこふと、アーニャは鼻をひくつかせた。何か匂いを感じたのだ。無意識に鼻から大きく空気を吸った。


 その途端である。頭の頂点から、足先まで稲妻のようなものが走った。アーニャの体は、自身の意思を無視して、ガクガクと小さな痙攣を起こす。


 頭の中が痺れ、目の前が真っ白になった。やがて、胸の中に蛍火のような暖かな明かりが生まれた。


 その明かりは、少しづつ大きくなり、やがて天空から差す神の威光のように、巨大なものとなった。


 荒廃し、不毛の台地となっていたアーニャの心は、たちまち緑豊かな草原へと変貌した。一気に、春が訪れたかのような心情だった。


 アーニャは、ゆっくりと、玉座から立ち上がった。恍惚とした、だらしない表情に顔が緩み、頭はぼんやりとしている。あの女――いや、あのお方――から放たれる香りに、脳が蕩けるほど魅了されているのだ。


 アーニャは、呆然と呟く。


 「この香りは……。この女神のような素敵な香りは一体、なんなの?」


 峰崎晴香は自分の胸に手を当てると、恭しくお辞儀をし、答える。


 「『ワキガ』でございます」


 「『ワキガ』……」


 アーニャは、ぼんやりと繰り返した。


 かつて、一度も嗅いだことがない類稀なる素晴らしい香り。天国に存在しているかのような、神秘的な芳醇。この香りを嗅ぐと、この者が女神のような神聖な存在に見えてくる。


 玉座の側で控えている大臣たちや、護衛兵たちも一様に魅了されているらしく、魂を奪われたかのように、惚けた様子で峰崎晴香を凝視していた。


 『ワキガ』の香りを嗅いでいるうちに、アーニャはいつの間にか自身が泣いていることに気がついた。堰を切ったかのように、涙が溢れてくる。


 昨夜から泣いてばかりだが、この涙はその時とは質が違うものだ。悲観や疑念といった、暗い感情ではない。愛情だ。絶対的に信頼できる愛情。それを感じさせる香り。


 峰崎晴香の『ワキガ』は、愛情に満ち満ちた奇跡の香りなのだ。


 気がつくと、アーニャは玉座から離れ、峰崎晴香の方へ向かって歩いていた。足が勝手に動いているのだ。大臣たちや、護衛兵たちは止めようとはしなかった。


 峰崎晴香に近づくにつれ、『ワキガ』の香りが強くなってくる。それに合わせるかのように、自身の心が満たされていくのを感じた。


 峰崎晴香の前まで辿り着くと、アーニャは立ち止まる。涙を拭い、しばし困惑した。ここまで来たはいいが、どうしよう。この人に無礼なことはできない。


 あたしは、なにをしたいんだろう。


 アーニャが所在無げにもじもじしていると、峰崎晴香は、落ち着いた動作で両膝をついた。


 高尚な香りを放つ者は、高尚な精神を持つ。アーニャは、峰崎晴香が取った次の行動で、それを理解する。


 彼女は、両手を大きく広げたのだ。全てを受け入れるような、慈悲溢れるオーラを放ちながら。


 峰崎晴香の顔は、聖母を思わせる美しい微笑をたたえていた。


 アーニャは、自身の衝動を止められなかった。思いっきり、峰崎晴香の胸へと飛び込んだ。それから、力一杯抱き締める。


 彼女もそれに応じた。母親のように、優しくアーニャを両腕で包み込む。


 峰崎晴香とアーニャは、母娘のように抱き合った。


 ゆっくりと、だが確実に、アーニャの閉ざされていた心が開いていく。


 抱き合った状態で、アーニャは峰崎晴香の胸に顔を埋め、鼻から大きく息を吸い込んだ。


 鼻腔の奥へとなだれ込んでくる『ワキガ』の濃い匂い。目も眩むような幸福感。そして、強い愛情。


 ああ、この愛情こそがあたしが求めたものだ。このお方は、それを与えてくれる素晴らしい人だ。峰崎晴香こそが、あたしに必要な人なんだ。


 アーニャは顔を上げると、晴香へ向かってこう言った。


 「ずっと私のそばにいて」


 アーニャの言葉を聞いた晴香は、穏やかな顔でゆっくりと首肯した。


 開きかけだったアーニャの心の扉は、やがて派手な音を響かせ、完全に開いた。


 アーニャは、峰崎晴香の胸に再び顔を埋め、大きな声を立てて泣いた。

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