12月8日【かそけきものの雲】


 今日は朝から、みーちゃんがご機嫌です。

「みーちゃんは、みーちゃん。みーちゃんの名前は、みーちゃん」

 歌いながら、あっちへころころ、こっちへころころ、転げ回っています。みーちゃんは、みーちゃんという名前をもらったことが、嬉しくてたまらないようです。


「名前があったんなら、教えてくれれば良かったのに」

 ゆみこさんが言いますと、男の子はぷいとそっぽを向きました。朝ごはんの席でのことです。


 実のところゆみこさんは、子供たちに名前をつけてあげようと思いもしたのです。何というふうに呼べば良いのか、分からないままというのも困りますから。

 だけど、ゆみこさんは、お手紙たちを預かっている身です。迷子の子でも、逃げ出してきた子でも、自分のことを忘れてしまった子でも、その子自身の名前があるはずなのです。ですから、勝手に名前をつけてはいけないのじゃないかしら。そんなふうに、思っていたのでした。


「みーちゃん、みーちゃん。はーい、みーちゃんでーす」

 だけど、リビング中を駆け回って喜んでいるみーちゃんを見ていますと、やっぱり、ちゃんと名前があった方が良いとも思います。

 そりゃあ誰だって、ねえ。とか、あなた。とかいうふうに呼ばれるよりも、自分だけの名前で呼ばれる方が、ずっと嬉しいでしょう。


「ねえ、あなたまだお名前、教えてくれないの」

 ゆみこさんがお願いしても、男の子は知らんぷり。まったく、とんだ強情っ張りがいたものです。



 さて、お昼を過ぎたころ、キンコーン。今日も、玄関のチャイムが鳴りました。ゆみこさんがドアを開けますと、玄関ポーチに真っ白な封筒が、置いてあります。

 拾い上げますと、封筒はどことなくひんやりしているようでした。もしかして、雪や霜のお手紙かしら。そんなことを考えながら、ゆみこさんは封筒を持ち帰ります。


 真っ白な封筒は本当に真っ白で、きらきらもざらざらもしておらず、封蝋までが真っ白なのです。

「なんだと思う?」

「わかんないね」

 男の子とみーちゃんに見守られながら、ゆみこさんは、封筒を開きました。



 すると、ぽわん。湯気が立ち上ります。いいえ、湯気というには冷たすぎるようです。これは、雲です。

 雲はゆみこさんの頭より少しだけ高い位置に留まって、ほわほわ円を描くように動いたあとで、床に向かって降りていきました。そして降りながら集まって固まって、ウインナーコーヒーの上に乗っている、よく泡立てたホイップクリームのような見た目になりました。


「こんにちは。あのう、迷子になったらここに行けば良いって、北風郵便局のひとに言われて来たんですけれど」

「ええ、その通りですよ。いらっしゃいませ、北風ゆうびん休憩所へ」

 白いホイップクリームさんに、ゆみこさんはリビングの椅子を勧めました。ホイップクリームさんは、ゆみこさんの手のひらに収まってしまうほど小さいので、テーブルの高さに合わせるために、椅子にたくさんクッションを積みました。


「お飲み物は、何にします?」

 昨日、長江商店のヨシオさんが、品物をたくさん届けてくれましたので、ゆみこさんのお家にはお湯と紅茶以外の飲み物もあるのです。たとえば、牛乳やコーヒー、緑茶やほうじ茶、ホットレモネードだって作れます。


 どんなリクエストが来ても、応えられるます。ゆみこさんはわくわくしていたのですが、ホイップクリームさんは、じっと考えて、「では、お湯をくださいませんか」と言いました。

 お湯でいいの。と、なんだか拍子抜けしましたが、遠慮をしているというわけでもないようですし、ゆみこさんはお湯をお出しすることにしました。



 ゆみこさんのお気に入りの、白いマグカップ。ちょうどいい温度のお湯を、保温ポットからとくとく注ぎます。

「どうぞ」

 と、テーブルに起きますと、ホイップクリームさんは「ありがとう」と言って、真っ白でふわふわの体から、真っ白でふわふわの手を伸ばしました。そして、マグカップを持って、お湯を飲みました。

「ああ、おいしい」

 ホイップクリームさんは、三度に分けて、お湯を飲みました。こころなしか、ふわふわの体が大きく膨らんだような気がします。


「クッキーは、いかが?」

 ゆみこさんが、クッキーの乗った丸皿を差し出します。ホイップクリームさんは、にこりと笑い(ホイップクリームに顔はありませんが、笑ったように思えるのです)、「とても美味しそうですが、遠慮させていただきます」と言いました。

「わたくし、透明のものか白いものしか、口にしないことにしているんです」

「そうでしたか。しかし、それはまた、どうして?」

「わたくしの、この雲の体を維持するためです。かそけきものたちの声を運ぶには、この体が必要ですから」


 ホイップクリームさんが、彼(もしくは彼女)のお話をしてくれるというので、みんなテーブルに集合しました。ゆみこさんは熱々の紅茶、男の子はホットレモネード、みーちゃんははちみつを溶かしたホットミルクを手に、ホイップクリームさんの話に耳を傾けます。



「みなさん、お名前を呼ばれると、お返事をするでしょう。それは、言葉を持たないものたちや、実体を持たないものたちも同じです。名前を呼ばれれば、お返事をします。かそけきものたちも、そうなのです」

「かそけきものって、何ですか?」

 ゆみこさんの問いに、ホイップクリームさんは、ふるんと体をふるわせました。

「かそけきものたちは、実体を持つはずだったものたちです。そして、実体としての名前すら与えられたものたちです。それでいて、実体を持つことができなかったものたちです」


 ホイップクリームさんの言葉は難しく、男の子とみーちゃんは、さっそく理解できていないようです。難しい、と主張するように眉間にしわを寄せています。

 それから、どうやら自分たちの手に余る話題らしいと勘付きますと、さっさと「ごちそうさま」をして、窓際の方へ遊びに行ってしまいました。


 ゆみこさんはといいますと、ゆっくりと、ホイップクリームさんの言ったことを反芻します。実体を持つはずだったもの。実体としての名前を与えられながらも、実体を持つことができなかったもの。


「かそけきものたちのお返事は、それはそれはささやかな声で、実体を持つものたちの、実体のある耳では、とても聞き取れません。それどころか、世界が活動するあらゆる音の中に、すぐにかき消されてしまいます。ですからわたくしは、彼らの声を雪雲の中に包み込み、お手紙となって、実体を持つものの耳元まで届けてやるのです」


 ホイップクリームさんは、穏やかな手つきで、ふわふわのお腹を撫でました。

「毎年、雪と共に地上に舞い降りて、実体のあるものたちの耳元にお届けするはずなんですが……ほら、今年はこの通り、暖冬でしょう。なかなかお届けの機会がなくって、そのうち声たちも、どこに行くんだったっけ? 誰が名前を呼んでくれたんだっけ? なんて言い出しちゃって……」

 なるほど、それで、迷子なのです。


「そういうことでしたら、いくらでも、この休憩所で休んでいってくださいな。そのための、休憩所なんですから」

 迷子というのは良くないことですが、迷子だけど休む場所があるというのは、たぶん、良いことです。ホイップクリームさんは、「ありがとう、そうします」と言って、お辞儀をしました。そして、窓際の子供たちに視線を向けました。


 男の子とみーちゃんは、窓から熱心に空を見上げています。雪が降るのを、待っているのかもしれません。ホイップクリームさんは、すうっと大きく息を吸い込みました。すると、ホイップクリームのようだった体が膨らんで、真っ白な色が薄くなって、たちまち、雲になりました。雪雲です。


「おちびちゃんたち、雪が待ち遠しいのでしょう」

 雪雲は、あっという間にリビングの天井を覆いつくします。そして、リビングは充分に暖かいというのに、ひらひら、綿のような雪が降り始めたのです。

「休ませてもらうお礼といってはなんだけど、おちびちゃんたちの上にだけ、雪を降らせてあげようね」

 みーちゃんが、わあっと歓声を上げて、雪を掴まえようとジャンプしました。男の子は、おちびちゃんと呼ばれたことが不服なようで、ふてくされていましたが、間もなく雪の魔法に完敗し、はしゃぎ始めます。



 かそけきもののための雪雲は、かそけき雪を降らせます。積もることなく、溶けることもありません。肌に触れると、ほのかに光ってほどけて消える、まぼろしの雪なのです。

「あると思えば、ある。ないと思うから、ない。積もらなくっても、雪が降ったことは、確かな真実」

 雪雲が、歌うように言いました。あるいは、話すように歌いました。


「積もらなくっても、雪が降ったことは、確かな真実……」

 ゆみこさんが、繰り返します。窓の外は穏やかな晴天で、雪はまだ、降りそうにありません。



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