第7話 襲撃の数時間前、病室、不自由な身体からの解放
西暦二〇三〇年のある日、不治の病に侵され死を待つばかりだった俺は、いつもどおり絶望を胸に抱いたまま眠りについた。死んでいるのと代わりない朝が訪れるのだと、絶望を抱えながら。
朝と言っても、だ。身体の全部位が不自由な俺にとり、単に意識の覚醒を意味するに過ぎないのだけれど。
ともかく、朝だ。ただ、不思議と随分長く眠っていたような気がした。
動かない瞼越しに、鈍い明かりが俺に新しい一日を告げ――、
「んん?」
なかった。俺の知る朝ではなかった。二、三メートル程先に、目が潰れんばかりに明るく光る細長い何かあった。輝きが視界いっぱいに広がっている。俺はこれほどの明るさをしばらく味わっていない。目を瞬かせる。
「ああ? なんだこりゃ」
なんだもこりゃもない。どう考えても電灯だぜ。
ベッドに横になった者が朝最初に見るのはたいてい天井に決まっているし、天井で輝く物があればそれはたいてい電灯だ。この目に像を結ぶのは随分と久しぶりだが――、
なるほど夢か。ありえないことだ。俺の瞼を動かす筋肉は数年前に自己都合退職をなさっている。よし、もう一度寝よう。
「命じておいてなんだが、気味が悪いな……」
ふと、聞き覚えのない声がした。男の声だった。俺はベッドに寝そべったままその方向に顔を向ける。頭が動く? 困惑したまま、声の主を視界に入れた。
黒の短髪。顔は、イケメンと言うか美男子と言うか、どんな表情を浮かべていても様になる造形だった。人を従えるのが当然といった感じ。いかめしいデザインの黒い服がよく似合っている。
こんなイケメンは俺の知り合いにいない。日本人には思えない。黒髪ではあるが、目鼻立ちがくっきりし過ぎている。俺の知り合いは両親と病院の皆さんだけだ。アイドル活動をしている方が相応しい顔の持ち主は、その中にいなかったぜ。
「ジギスムント・ザウエル・レイルである。よろしく頼む」
耳がはっきりと男の声を拾った。聞こえ過ぎた。俺の聴力は、補聴器の力を借りてなお大分怪しい性能だった筈だが……。
ああそうか、わかった。やはり夢か。
もう一度納得する。
なんだよ。どうせ夢なら、もう少し楽しいのを見させてくれよ。俺の楽しみは夢くらいなんだぞ。それもあれこれ薬漬けのせいでめったに見られないってのに……。それにしても、ジギス……、何? やはり外国人? しかもこの服、軍服かな。俺の病室にいるにしては違和感がありすぎる。そういや今は十月だった。ハロウィンの仮装か?
夢は深層心理の現れというが、この男が俺の内に秘めた葛藤なのだろうか。
「驚くのも無理はない。が、挨拶は大事だ。なんでもいいから返事をしろ。この俺がよろしくと言っているのだ。ありがたみを感じたまえ」
いや、絶対に違うな。
こんな偉そうな奴を具現化する心のゆとりは俺にはない。
「喜びのあまり死んでもおかしくはない事態なのだぞ。わかれ」
そして、右肩に軽い衝撃。ジギスムントとやらに叩かれたのだ。は? 楽しくないぞ。夢でまでこんな真似に遭いたくない。いきなり出てきたふてぶてしいイケメンに、いきなり上から目線の台詞を吐かれたくない。俺は答える。
「……返事をしてもいいが」
まず謝罪しろよ。人を小突くな。俺の夢は俺の思いどおりであれ。
イケメン氏を睨む。見ず知らずの男に対して、久方ぶりの怒りを感じていた。絶望以外の感情が残っているとは知らなかった。それに、夢でもはっきりと怒れるんだな。
「おいおい、その顔で睨むなよ。ハッ!」
俺の深層心理が生み出したらしい謎のイケメンは笑った。
どうして笑う。不愉快だぜ。
「直ぐに詳細は説明してやるが、病を治してやったことだけは忘れるな。いわば恩人だ。命の恩人。これだけは絶対に覚えておけ」
「……はぁ、そうかい。病を治したとあんたは言うが、所詮は夢だしなぁ。あと、その格好は何だ。今日はハロウィンか? 夢にもハロウィンがあるんだな」
「夢? ハロ……? あー、そうか。なるほど。なかなか楽しい催しだったようだな。だが、俺の格好は普段着だ。皇族はすなわち軍人であるからして、これは通常運転だ。面白いことなど何もないぞ。それより、もっと面白いことが起きているのではないかな」
「何だよ。もったいつけるな。妄想の産物のくせに偉そうだぞ」
「妄想、妄想ね……。わからないか。今、貴様は何をしている?」
「夢の中でキレている。夢は好きだが、これだけワケがわからないと考えものだ」
イケメンは考え込むような素振りを見せ、
「……ふむ、そういうことか! 良かろう!!」
と、大声で吠えて立ち上がる。
いよいよまったく理解できないぜ。
「何をする気――、」
腕を掴まれた。直ぐに浮遊感。衝撃、鈍痛。ずるりと滑って、気づけば俺は床とキスしている。つまり、壁に叩きつけられたということ。
危篤の重病人に何をしやがる。夢でもやって良いことと悪いことがあるぞ。突然の暴力に俺は激怒した。
「馬鹿野郎! 死んだらどうする!!!」
即座に立ち上がり、男に詰め寄った。胸ぐらを掴み殴る。自称皇子は勢いよく倒れた。右拳に僅かな痛みが残る。
ジギスムントはしかし、倒れたままにやにやと笑っている。
なんだその余裕は。なんだその態度は。返って怒りを掻き立てられる。夢でも許せない。いや、夢だからこそか。どうでもいい。もう一度殴ろうとして――、
軍服のイケメンは笑い続けている。拳を止める。
殴られるというのに、何故そんな顔ができる。
「おまえ一体……」
「死ぬ寸前の男が、そんなに腰の入ったパンチを打てるものか」
あれ?
「よく思い返せ。夢ってのはそもそも、結構いい加減なものの筈だ。貴様の目と耳と肉は、なんと言っている? 今、貴様は何をしている?」
ジギスムントの発言を聞き、俺は動きを止めた。確かに俺はパンチをした。生まれて初めてのパンチだ。夢でもしたことないな。多分。
イケメンは軽々と立ち上がる。整った顔が同じ高さにある。同じ目線に人の顔? そして、俺の身体が動いて、拳が痛くて……。
「一応言い訳をしておくと、俺は弱い者いじめが好きではない。が、今や貴様の五体は健康だから――、」
ジギスムントは右拳を顔の側でぷらぷらと振った。
直後、左頬に衝撃。身体がまた浮いて、今度はベッドに叩き込まされる。
「これは、正当な仕返しということになる」
滅茶苦茶痛ぇ。こいつの動きがまったく目に見えなかった。何かの格闘技の達人かよ。そういえば、さっきも簡単に吹っ飛ばされた。いやそれよりも、これは、この状況は……。
「あぇ……?」
倒れ込んだまま、自分の手を眺める。間違いなく見えている。握る。開く。動く。すべての指が、なめらかに。自分の息遣い、そして、目の前の男が鼻で笑う微かな音が聞こえる。痛みがある。特に右頬が滅茶苦茶痛い。
これは、まさか……。まさかまさかまさか!!
マジに思っていいのか……!?! 夢じゃないってのか……?!
だとすれば、こんな男のことなんてどうでもいい!!
「ひゃっほう!!!!」
体が動くぜ!!!
俺は拳を振り上げながらジャンプした。
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