第9話 パパ、逃げる


 静寂に包み込まれた世界に響く、小さな命の音。



 この音だけが、この世界で唯一の道標。



 誰かが言った。幸せとは「大切な人に降りかかる雨に、傘をさせること」だと。



 もしも、降りかかるのが逃れられない悪意だとしても変わらずにいれるだろうか。



 俺はこの子の傘になれるだろうか。





「シロウさん、聞こえますか」



 ドア越しに聞こえたのは、デルさんの声ではない。村人の誰かの声だろう。その声色からは焦っているという雰囲気は感じられなかった。だが、誰かに聞かれては不味いという意志が汲み取れるほどの小さな声だ。ジュノンが寝ているから気を遣ったというわけではないだろう。



「はい……聞こえています」



「よかった。魔族がデルさんの制止を押し切って村の探索を始めています。ここに来るのも時間の問題でしょう。ひとまず世が明けるまで安全な場所に身を隠してください」



「安全な場所……? それはどこですか?」



「南の森であればあるいは……すみません。こういった事態は初めての出来事なので村の中に隠れられる場所は……ありません」



 デルさんの様子からも、いつもの出来事という感じはしていなかった。魔族という存在については知っているようだったからこの世界の常識の一つなのかもしれないが、魔族が来るということは稀なことなのだろう。



 大丈夫。逃げて身を隠せば魔族も諦めてどこかへ去るはずだ。村の人達に危害を加えないかが心配ではあるが、平和条約というものもあるらしいので問題ない……はずだよな?



 まだ眠っているジュノンを抱き上げ、自分にセットしていた抱っこ紐に乗せる。その上から薄いタオルケットをかけて出発の準備は整った。手荷物は要らない。邪魔になるし、必要な物は森羅マーケットでいつでも入手可能だ。逃げるならば両手が空いている方がいいだろうしな。



「準備、出来ました」



「わかりました。私はこのまま去りますので、少し時間をおいてから家を出て森の方へ行ってください。魔族が去った後に探しに行きます」



「ありがとうございます」



「いえ、私も三歳になる息子がいるので居ても立っても居られなくなっただけです。どうか……ご無事で。またお会いしましょう」



 三歳になる子が……この人がクルドさんか? 村長から聞いた話に出て来たはずだ。そっか。同じパパ同士、仲良くしましょう。



 返事を返そうとしたが、その言葉を最後に小走りで去っていく足音が聞こえた。クルドさんはデルさんの元へ戻ったのだろうか。



 自分の家族も心配だろうに……本当にありがとうございます。







 それから待つこと数分、家のドアを少し開けて周辺の様子を伺う。



 家の周囲に人の気配は……無い気がする。残念ながら気配察知のような超人的な能力は備わっていないらしい。そもそも魔族は人なのか? 怪獣だったらどうしよう。



 そうだ! 気配察知は無くとも、俺にはナルビィさんという神様がついているじゃないか!



 ナルビィさん!!



『お呼びでしょうか?』



 この状況を打開する案をください!!



『……ご購入出来るものは森羅マーケットにて検索可能です』



 ……融通が効かないな。外に誰かいるかくらい教えてくれてもいいのに……



『何か?』



 いえ、何でもないです。



 くそぅっ!! 何を弱気になっている! とにかくここから逃げて身を隠すんだ!!



 ゆっくりとドアを開き、ジュノンが起きないように気を遣いながら顔だけ出して周囲を見渡す。よし、まだ誰もいないようだ。



 確か南の森と言っていたな。俺とジュノンが来たのはゴロ村からすると北にあるクルティガの森だ。南の森はなんというのだろうか?



 そんなことを思いながら以前購入した方位磁石で南を調べる。南は家の裏側……って森、どこだ?



 家の裏側に回って南を向くが、目に見える範囲に森は見えない。まさか……地平線の先じゃないよね? 何キロあるんだよ!



 だが、そんな文句を垂れている場合じゃない。



 家のすぐ側にある整地された道に出て歩き出す。道の両端には麦畑が広がっている。



 走った方がいいか? でもジュノンが起きてしまう。いや、命には変えられないか? 魔族はどこまで来る? ここまで来るのか? 村を調べたら帰るなんてことはないだろうか。いや、最悪のケースを考えて行動した方がいい。


 というかこんな開けた場所で見つかったら隠れようもないじゃないか……それでも家にいるよりはマシか。


 ゴロ村の人達は無事だよな? 俺とジュノンを匿って危険な目に合ってないよな? あんなに優しい人達なんだ。この恩は絶対何かで返そう。


 それにしても何で魔族がジュノンを? もしかして、ジュノンの親も魔族に追われていたのだろうか。そうだとしたら……こんな小さい子を一人にするしかなかったのか……?




 色々な思考がぐちゃぐちゃになり、何も整理が出来ない。考えなければいけないことが多いけど、考えても答えが出ないことばかりだ。



 でも、不思議と「何故、自分がこんな目に?」とは思わなかった。すっかりジュノンのパパになったんだなと実感する。



 そうだ。きっとどうにかなる。全てがうまくいく。



 俺が好きだったアーティストだって、そういう歌でみんなを励ましていただろ? だからきっと——













「よう、人間。探したぜぇ?」










 どれだけ歩いたのか、どのくらい進んだのかもわからない。思考が体内時計を狂わせてきた頃、その声は突然背後から聞こえた。



 声のする方へ振り返る。



 何度か振り返って確かめていた。背後を尾けて来る人なんて絶対にいなかったはずだ。



 だから、そいつは突然現れたとしか言いようがなかった。



 目の前には人と容姿はほとんど変わらないが、決して人ではない人が立っている。黒い翼が生えた人が。いや、自己紹介なんてされなくてもわかる。





 こいつが——魔族。





 心臓の鼓動が高鳴る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る