第2話 弥勒、降臨

 少年の太刀が、サヤカの首を斬り落とさんと迫ってくる。

 あ、死ぬ――――。確信した、その時だった。


「う"ぅっ!?」


 突然、少年がうめき声をあげ、腕で目を覆い隠した。何が起きたのか考える間もなく、サヤカの視界を光が覆う。


 ――次に目を開けた時には、少年はいなくなっていた。


「あれ……?」


 周りを見渡すと、少年どころか武士集団も忽然と姿を消していた。荒廃し、静寂に包まれた世界だけが広がっている。


(さっきのは夢……? じゃないよね)


 死を免れたことに安堵するも、混乱は増すばかり。


 この世界は何なのか。自分は今、どういう状況なのか。武士たちは本物なのか。先ほどの超常現象は何なのか――すべてが理解不能だった。


「あ~もう! さっさと元の世界に返してよ!」


 黒い空に向かって叫ぶ。その言葉は、誰にも届くことなく消える……と、サヤカは思っていた。


「申し訳ありませんが、それは出来ません」


 清らかな声が空から降ってきた。明らかに、あり得ない方向からの声だ。唖然と天を仰ぐサヤカ。ほどなくして、空に美しい光が出現した。

 光は、サヤカのもとへやってくると、ひときわ眩く輝いた後に収束した。そうして現れたのは、1人の男性だった。華やかな衣装を纏い、冠や瓔珞ようらくを身に着けている。顔立ちはアジア系で、恐ろしいくらいに整っていた。


「え、と……」


 面食らい、うろたえるサヤカ。そんな彼女を安心させるかのように、男は柔和な笑みを浮かべた。


「間に合ってよかった。貴女に死なれては困りますから」


 男はふっ、と笑うと、自身の胸に手を当て、薄い唇を開いた。


「初めまして、仁田沙弥加さん。私の名は弥勒みろく。釈尊の入滅後、世界を救う使命を持つ者です」


 そう言うと、男──弥勒は、サヤカの前に跪いた。


「どうかお願いします。私とともに、この世界を救ってください」


 真剣な声。しかし、あまりに規模の大きすぎる話。情報を処理しきれず、サヤカは一瞬固まった。

 だが、すぐに首と両手を横に振り、否定の意を示す。


「そ、そんな無理ですよ! わたしは普通の大学生です! 世界を救うだなんて、そんな大げさなことできません! 今すぐ帰してください!」


 突然放り込まれた灰色の世界。目に映る全てのものが異常で、恐怖しかなかった。今だって、目の前で起きていることが信じられない。

 それなのに、急に「世界を救え」と言われて、「はい分かりました」と答えられる人間などいるはずもない。至極当然の返答だ。

 弥勒は立ち上がると、難しい顔で首を横に振った。


「なりません。貴女がこの世界を救うという縁は、かの釈迦如来しゃかにょらいが示したものです。あの方の示す因縁は絶対。逃れることは叶いません。ゆえに、私は貴女を元の世界に帰すことが出来ないのです」

「──それ、おかしくないですか?」


 サヤカはすぐに反論した。


「あなたは未来の仏様ですよね? なら、世界を救済するのにわたしなんていらないでしょ?」


 いつだったか、大学で受けた講義の内容を思い出す。弥勒菩薩みろくぼさつは、釈迦の入滅後の56億7千万年後に現れ、衆生を救済するという。

 そのような大役を担う仏様が、一般市民を異世界から呼び出して相方にするなど、馬鹿げているにもほどがある。


「それに、何でお釈迦様の言うことを聞いてるんですか? 釈迦と弥勒が関わるなんて、あり得ないと思うんですけど」


 弥勒の言い分は、誰がどう見ても破綻している。もはや、彼が本当にあの弥勒菩薩なのか疑わしいレベルだ。


「……こちらの都合で貴女を巻き込んでしまったこと、申し訳なく思っております。ですが今は、六道全てに影響を及ぼすほどの異常事態なのです。私とて、本来であれば兜率天とそつてんで修行中の身。娑婆しゃばに降り立つのは、56億年ほど先のことでございますから」


 心苦しそうに目を伏せながら、弥勒は言った。


「釈尊と私が関わるのはあり得ない、と仰いましたね。ですが、既にご覧になったでしょう? 本来あり得るはずのない事象を」


 ──心当たりがありすぎた。

 つい先ほど目の当たりにした、平将門と藤原純友の戦い。本来交わることのない戦の大将たちが、刃を交えている異常な光景。しかも、彼らは超能力のようなものを使っていた。


「ご理解いただけましたね」


 ──あまりに突然に迷い込んだ世界。それは、今より昔の時代ではない。


 出鱈目で滅茶苦茶な、混沌世界だった。




※ざっくり用語説明

 ・瓔珞ようらく……仏教の装飾具

 ・六道……仏教において、生物が輪廻転生する世界。天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄の6つがある。

 ・兜率天とそつてん……天界のいろいろあるうちの1つ。

 ・娑婆しゃば……この世のこと。


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