新しい従業員
増田朋美
新しい従業員
その日は、11月というのに暑い日で、なんだか本当に秋であるのかわからないくらいの暑い日であった。その日、杉ちゃんとジョチさんは、新しい長襦袢を買うために、増田カールさんが経営している、増田呉服店に行った。増田呉服店は、ちょっと駅から離れているところにあり、徒歩で行くのは難しかった。いわば路地裏にあるといえば良いのか。駅からだと分かりにくくて、ちょっと客が入るのは難しかった。
「こんにちは。今日はちょっと長襦袢を見せてもらおうと思って来たんだけど?」
杉ちゃんとジョチさんがそう言って、店の中に入ると、
「ああ杉ちゃん。悪いけど、今日は11時で店を閉めさせてもらってもいいかな?今日は、新しい従業員が面接に来る予定でね。」
カールさんは、杉ちゃんに言った。
「新しい従業員がついにやってきたか。どんな子なんだろ。」
「確かにずっと従業員募集を出し続けても、全然応募が無いと言って、困っていましたよね。」
杉ちゃんとジョチさんは、そう言い合った。
「そうなんだよ。ずっと一人でやってきたから、腰が痛くて大変なんだよ。だから、着物屋に若い人の力は必要だ。それでついでに着物のことについて学んで貰わなきゃ。」
カールさんがそういうということは、着物のことをあまり知らない女性なのだろうか?
「そうなんだね。最近の若い女の子は、着物を知らなすぎて困ることが多いけど。よし、僕も面接手伝っちゃおうかな。どんな女の子が来るのか、楽しみだし。」
杉ちゃんがいきなりそう言ったので、カールさんもジョチさんもびっくりした。
「そうですが、杉ちゃん、これは退散したほうが良いですよ。カールさんのじゃまになったりしたら困るでしょ。」
ジョチさんはそう言うが、
「いや、だって僕、和裁屋だもん。どんな子が着物屋に来てくれるか興味ある。従業員になるところを見させてもらおう。せめて、正絹と化繊の違いくらいが分かる子であってほしいなあ。」
「それはどうかなあ。」
カールさんは、半ばあきらめているように言った。確かに今の世の中、正絹と化繊の区別をつけられる若い女性は、極めて少ないと思う。お年寄りでさえもあまりいないのだから当然のことかもしれないが、でも、着物を販売する上では、重大なことでもある。
すると、店の入口につけてあったザフィアチャイムが、コロンカランと鳴った。
「すみません。遅くなりました。昨日メールでお願いしました、南小夜子です。富士駅からこの店へ来る方法が分からなくて、随分迷ってしまったのですが、どうにかこさせていただきました。」
そう言いながらはいってきたのは、一人の若い女性であった。まだ二十代から三十代前半と思われる女性で、洋服を着ていることからも、着物に対してはあまり知らなそうな女性であった。
「せめて、着物を着てこっちへ来てくれると良かったんですがね。」
杉ちゃんがそう言うと、
「着物の着付けはできますか?」
とカールさんが言った。
「いえ、それが、何もできないんです。着物は全く触れたことがなくて。ただ美しいものが好きなので、それで来てしまったんです。」
と、南小夜子さんは答えた。
「それなのによく、着物屋の従業員募集に応募してきたものだな。なんで応募しようと思った?」
杉ちゃんは彼女に言った。
「まさか単に仕事が楽そうで、とりあえず働けそうだからとか、そんな理由で来たんじゃないんだろうね?」
「杉ちゃんそんな言い方をしたら可哀想ですよ。杉ちゃんの言い方は、ヤクザの親分みたいです。だから怖がってしまうんじゃないですか。そんな言い方ではなくてもっと優しく発言できないものですかね?」
ジョチさんは杉ちゃんに注意したのであるが、
「まあ誰でも変なやつというものはいるもんでさあ。本当にお前さんは着物について何も知らないのか?例えば正絹ってわかるかな?」
と、杉ちゃんは言った。
「ええと、全て絹でできている着物のことですよね?」
と小夜子さんは答える。
「じゃあ紬ってわかるかな?」
杉ちゃんが聞くと、
「ええ、紬糸を利用したお百姓さんの着物ですよね。絹の着物を着ることを禁止されたお百姓さんたちは、それでも絹を着るために、遠目から見れば木綿に見えるようなきものを作って、それで誤魔化した。それが紬ですよね。」
小夜子さんは答えた。
「ほう、答えを知っているということは、どこかで勉強したんですか?」
とカールさんが聞くと、
「いえ、ここに来るまでに電車で調べていたんです。」
小夜子さんは種明かしをした。
「そうなんですね。でも、着物について、全く知らないで、のこのこ来てしまったという人とは少し違うようですね。インターネットの引用であっても、着物の事を調べてくるんですから。ネットとはいえ、そういう事をちゃんと言える人は、なかなかいないですよ。それは評価しても良いところですね。」
ジョチさんが小夜子さんに言った。
「お願いします。私、何でもしますから、こちらで働かせてください。もう年が年なので、前の仕事には戻れないし。」
その言い方がなにか訳ありであるような気がした。
「前の仕事というのはどういうものですかね?」
ジョチさんがそう言うと、
「例えば、お前さん、売春でもしていたのか?」
杉ちゃんがそう言うと、彼女は黙って頷いた。
「そうなんですね。たしかにそうなると同じ仕事を繰り返すのは難しいでしょうし、それならうちで働いてもらったほうが良いでしょう。それなら、うちの店を手伝ってください。」
「ありがとうございます。」
小夜子さんは頭を下げた。
「どんなことでも使ってください。よろしくお願いします。」
「わかりました。じゃあ、それでは、まず初めに正絹と化繊の違いを覚えてもらおうかな。それはもう着物を販売するには、基本のきの字だぜ。」
と、杉ちゃんは、二枚の小紋の着物を見せた。
「これがどっちが正絹で、どっちが化繊か、わかるかな?」
「わかりません。」
小夜子さんは正直に答える。
「じゃあ、手触りで覚えてもらおうか。正絹のほうがサラッとしていて、化繊はザラッとして光沢が無い。そして化繊は着ると長襦袢で摩擦が生じて、静電気が発生する。その違いをちゃんと覚えてもらおう。この、右側のピンクが正絹で、左側のグリーンは化繊。いいか、よっく頭に叩き込んでおけ。」
と、杉ちゃんが言った。
「このピンクが正絹で、グリーンは化繊ですね。他にも、どう違うんでしょうか?」
小夜子さんはそう聞いた。
「正絹の着物は、礼装とか外出着とかに使えるんだけど、化繊のお着物は、普段着とか、気軽な外出着にとどめておくのが大事。悪天候なときなどに洗える着物として使う例もあるが、基本的に化繊はカジュアル着物として使用するんだ。」
「わかりました。化繊は、普段着で、正絹は外出用なんですね。確かに、雨が降っているときは、洗える着物というのは便利かもしれませんね。汚れがついて洗えたら、また使えるんですから。」
小夜子さんは急いで化繊の着物の特徴とメモを書いて、化繊はザラッとしていて光沢が無いと書いた。
「そうそう。お前さんは覚えがいいな。それだってお客さんに説明するんだぞ。ちゃんと覚えておけよ。お客さんの中には、伝統文化に携わったりする人もいるんだから。そういう人たちが、着物を買いに来たとき、お前さんが、応対できなかったら困るからね。あと、着物の種類もちゃんと覚えておくんだぞ。訪問着と付下げが同じものだってそんな馬鹿ゼリフをほざいていたら、着物屋として失格だぜ。」
「わかりました。それも全部覚えます。もしかしたら、まとめノートを作っておいたほうが良いかもしれませんね。着物の事は何も知らないのですから。」
小夜子さんは、真剣な顔をしていった。
「リサイクル着物屋ということで、なかなか着物の種類までこだわって買う人はあまりいないけど、でも、着物を伝承していく立場として、ちゃんと着物の種類は覚えておいてください。」
カールさんが急いで段ボール箱からきものを出しながら言った。
「これは、全て着物ですが、全て種類が違います。まず初めに、全体に柄がついているのが、小紋。胸と袖と下半身に大きな柄がついていて、おくみと前身頃で繋がっているのが訪問着。そして、上半身は訪問着と同じですが、おくみと前身頃で柄が切れているのが付下げ。この3つを覚えてください。」
カールさんはそう言って、着物を売り台においた。
「小紋は、普段着や気軽な外出着。訪問着はリクルートスーツのような気持ちで、講習会やコンサートに。付下げは、訪問着ほど改まらず、街着と程砕けない着物で、気軽な外出に使います。」
カールさんは、にこやかに笑って、それらの着物を指さした。
「まず初心者の人には、訪問着をおすすめします。何よりも、見分けが着きやすいし、着物として着用範囲も広いし、あわせられる帯の数も多いですから。あなたも明日からここで働いてもらうのだから、着物を着て来てもらわなければね。その時には訪問着で接客してもらいたいな。」
「そうですか。わかりました。じゃあ訪問着を買っていきます。」
彼女、小夜子さんはにこやかに言った。
「わかりました。じゃあ一式揃えてもらいましょうかね。必要なのは長襦袢と、着物、そして着付けに必要な腰紐3本、腰紐を支える伊達締め。あとは足袋と草履。あとは帯結びに苦労することであれば、作り帯も必要ですね。大丈夫です。一万円あれば一式揃えられます。」
カールさんは、小夜子さんに言って、必要なものを売り台から出した。
「あとは着付けができるかが問題ですね。」
とジョチさんが言うと、
「それは僕に任しておけ!おはしょりを縫って、紐をつけてあげるから。そうすればガウンみたいに着られるよ。」
と杉ちゃんがカラカラと笑った。
「それでは、この狭い店舗内では、寸法を図るのに狭すぎますね。」
カールさんが言うと、
「わかりました。着物を一式持って製鉄所に行きましょう。そこなら広い場所がありますし、すぐに採寸できると思いますよ。」
と、ジョチさんが言った。
「すぐに小薗さんに、車を持ってこさせます。そうしたら、製鉄所に行って、採寸しましょう。」
「製鉄所?鉄を作るんですか?」
小夜子さんが不思議そうに言うと、
「いえいえ、ただの福祉施設なんですけどね。なぜか、製鉄所と呼ばれているんです。まあ鉄を作るところではなくて、公民館みたいに部屋を貸し出している福祉施設ですよ。そこなら広い場所がありますし、すぐに採寸できます。」
ジョチさんは、すぐに言って、スマートフォンで話し始めた。数分後に小薗さんが車でやってきたので、小夜子さんはジョチさんに促されて、車に乗った。杉ちゃんもカールさんに手伝ってもらって乗り込んだ。
カールさんの店から製鉄所は、ほんの数分で行くことができた。駅からは遠いのに、製鉄所から近いというのは、カールさんの店は相当田舎にあったようである。三人は製鉄所の正面玄関の前で降りると、段差のない正門をくぐり、玄関の引き戸を開けて中に入った。
「随分和風の建物なんですね。なんか私が経験した建物とは、全然違いますね。」
小夜子さんは、和風の作りである製鉄所の建物が面白そうである。
「そんなに、面白いのですか?」
ジョチさんが聞くと、
「ええ。私の家族は、こういう昔ながらの建物を、不自由だと言って嫌っていたんです。」
小夜子さんはそう答えた。
「それって、誰か障害のあるやつでもいたの、家族に。」
杉ちゃんがすぐ聞いた。
「僕は答えが得られるまで、何でも聞いてしまうぞ。」
「そうなんですね。ええと、実は、私の弟が車椅子だったんです。同じように。」
小夜子さんは恥ずかしそうに言った。
「そんなこと恥ずかしがる必要もないよ。弟さんは弟さんだし、お前さんはおまえさんだよ。」
杉ちゃんがそう言うと、小夜子さんは彼を、今まで見せたことのない顔で見た。
「なんでそんなに驚いた顔してんだ?」
杉ちゃんが言うと、
「だってそんな事、言われたことなかったですもの。」
小夜子さんは言うのである。
「当たり前のこと言っただけだけど。とりあえず、寸法図るから、縁側に来てくれ。」
杉ちゃんは、縁側に彼女を案内した。
「じゃあ、それでは着物を着てみてくれ。ちょっとお前さんの体を触るけど、何もしないからね。」
小夜子さんが着物を羽織ると、失礼しますと言ってジョチさんが、小夜子さんの体に腰紐をつけた。そして、杉ちゃんがおはしょりをだして、それを持っていた安全ピンで止めた。
「よしよし。これでいいや。割りとたくさんおはしょりが取れるタイプだな。最も着物は色々サイズがあるので、おはしょりが全くできないものもあればダブダブなものだってあるんだよ。それが、着物だからね。」
杉ちゃんは安全ピンをつけながら言った。
「ありがとうございます。私じゃないみたい。本当にこんな事していいのかな?私、なんかやってはいけないような気がしてしまいました。」
と、小夜子さんは涙をこぼして泣き出してしまった。
「ごめんなさい。せっかく増田呉服店で働かせてもらおうと思ったけど、私、やっぱり、着物を着る自信がありません。だから、」
「ああーダメダメ。リサイクル着物は、基本的に返品できないよ。」
小夜子さんがそう言うと、杉ちゃんはさらりといった。
「私、何をしていたんでしょう。やっぱり、ピンサロに戻ったほうがいいですよね。こんな高級な着物を着て、増田呉服店で働くなんて、そんな事私がしていいものでしょうか。すみません。着物はどこかに記念品として寄付することにして、私はやっぱり、ピンサロに、、、。」
小夜子さんは一気に涙をこぼして泣き出す。一体どうしたんだと杉ちゃんもジョチさんも困った顔をしたが、彼女は急いで腰紐を解いて、着物を脱ごうとしてしまった。
「ごめんなさい!私、帰ります!」
そう言って、彼女は製鉄所から出ようとするが、鶯張りの廊下がけたたましい音を立てたため、それまで鳴っていたピアノの音が止まった。そしてふすまが開いた音がして、
「一体どうしたんです?」
と、水穂さんが、顔を出した。
「いやあ、こいつがな、カールさんの店で働こうとしたんだがな、着物を着たら、また売春業に戻りたいっていい出して。全く、カールさんも浮かばれないねえ。せっかく従業員募集したのにさ。こんな形でやめるなんて。」
と、杉ちゃんがでかい声で言った。
「お前さん。もうちょっと話してくれたっていいだろう。帰っちまったら、カールさんも可哀想だよ。せっかく、ピンサロから足を洗って、こっちへ戻ってこようと考えたんだろ。それなら、そのまま続けちゃえばいいじゃないか。なんでお前さんはそんなに自分に自信が無いんだ?」
杉ちゃんに言われて、小夜子さんは廊下のど真ん中でワッと泣き出してしまった。水穂さんはそれで状況を理解してくれたようで、
「そうですか。でも一生懸命売春をしていたんだったらいいのではありませんか。」
と、静かに言った。小夜子さんは、水穂さんにそう言われてしまったのが辛かったようで、
「私、やっぱり新しい世界に踏み込もうと思っても、きっと過去のことが邪魔してできなくなってしまうと思います。私は、ずっとピンサロで働いてきて、随分汚いことも平気でやりました。だからそんな人間が、着物を着て、接客なんてする資格なんて無いじゃないですか。それに、この訪問着もきっと私みたいな職業の人が着るものではなかったでしょう?私は、それも汚してしまう汚い人間なんですよ。」
と、おいおい泣き出してしまったのであった。水穂さんは彼女のもとへそっと近づいて、
「仕方ないじゃないですか。生活がままならなくて、そういう汚い仕事をしている人はいっぱいいると思いますよ。だから、あなたが心配しなくていいです。それに今日は、着物を着て、売春はやめると誓いを立てたかったのではありませんか?」
と優しく言った。
「ですけど、この着物はとてもきれいなので、私が着る資格ありません!どうして、私みたいな汚い仕事の人に、着物が渡らなければならなかったのでしょう。私は、着物にも申し訳ないし、他の皆さんにも申し訳ないのです!」
そう泣き続ける小夜子さんに、
「うーんそうだねえ。でもさ、世の中には売春を汚い職業と思わないで平気でやっちゃうやつもいるんだよな。それに比べたら、お前さんはいいほうじゃないか。それに、そういう意識があるんだったら、売春業では成功しないよ。吉原炎上の主人公も結構図太い神経をしていたからね。」
杉ちゃんはでかい声で言った。
「杉ちゃんよく吉原炎上を知ってますね。とにかくですね。あなたは売春には向きませんね。それより、自分の気持ちにもっと正直に鳴ったらいかがですか?本当は、着物を着たいという意識があったのでは?それだからこそ、売春をやめようと思ったんでしょう?それをもっと大事にしてくださいよ。」
ジョチさんに言われて、彼女は小さい声で、
「ご、ごめんなさい。」
と、言った。
「ごめんなさいじゃないよ。じゃあ、今度こそ、寸法図るから、こっちへ来てくれるか?そうしたらお前さんは、着物を着て、カールさんの店で働くようになるんだ。」
杉ちゃんに言われて、彼女は一生懸命泣くのをやめようとしていたが、それでもまだ涙が止まらないような様子であった。水穂さんが杉ちゃんに、
「少し泣くのを許してやってくれませんか?」
と言ったので、みんなはそうさせてやることにした。
「まあ確かに、新しいものを打つときは、ちょっと副反応が出ることがあるな。」
杉ちゃんがカラカラと笑うと、
「笑わないで、そっとしておいてあげよう。泣き止んだら、着物を着せてあげましょう。」
水穂さんが静かに言った。こういうときに待っててあげられるのが水穂さんだった。彼女はハンカチで涙を拭くのを忘れて、泣き続けたのであった。確かに、気候も変だし、今日は変な日なのかもしれないが、彼女にとっては、大事な一歩を踏み出す日に間違いなかった。杉ちゃんたちは、小夜子さんが泣き止むまで待っててやろうと思いながら、三人で苦笑いを浮かべた。
新しい従業員 増田朋美 @masubuchi4996
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