第39話

『待っていて。必ずぼくが助けに行くから』


 待って。あなたは、あなたは誰なの? ねぇっ!!


「はっ!?」


 がばりと跳ね起きたところを、たぬきの女将さんに抱き止められた。普段のマチ子さんの匂いと、薔薇の花の匂いがない混ぜになっていた。この旅館でも薔薇が咲いているから、それも変じゃないのかもしれない。


「大丈夫ですか? ユイカさん。随分うなされていらっしゃいましたけど?」


 女将さんには随分と迷惑をかけちゃったんだな。申し訳ない。


「大丈夫です。ちょっと疲れていたみたいで。あの、女将さんはずっとあたしの側にいてくれたのですか?」

「はい。山田様からも頼まれましたし」


 うん? マチ子さんはどこ?


「なにやら急用があるとのことで、慌てて出かけましたよ」

「……ふぅ〜ん?」


 おかしい。マチ子さんが伝言も残さずに居なくなるなんて、あり得ない。


 だとしたら、どこかになにかを隠してある可能性もある?


「ぴ」


 ふいに女将さんがあたしの額に体温計を向けた。


「熱もだいぶ下がりましたね。内藤さんにお願いすれば、お粥を作っていただけると思うのですけど、どうしますか?」

「うーん? 今はいいかな。ひょっとしてあたし、ベンチで休んでいる間にここまで運ばれちゃったんですか?」

「ええ。それはそれはお顔の色も悪く、高熱にうなされて、苦しそうに息をしておいででしたから、うちのお得意様で、たぬきのお医者さんに来ていただいたのですよ」


 たぬきのお医者さん。


 あたしの頭の中で、まるっきりお腹の出っ張った二足歩行のたぬきさんが、ちょこんと鼻眼鏡をかけて白衣姿でふんぞり返っている姿が浮かんで消えた。


 うん。可愛いけど、その程度ではまだあたしを笑わせることはできない。


「みんなは?」


 女将さんはふいに視線を自分の膝小僧に落としてから、ええ、みなさん、楽しくやっていらっしゃるようですよ、と答えてくれた。


 これは、あたしが眠っている間になにかあったってこと?


「マチ子さんは? ちゃんとご飯食べたり、温泉入ったりしましたか?」


 マチ子さんは過剰にあたしを大切に扱ってくれるけれど、自分のことを後回しにしちゃうところがあるから心配。


「ふふっ。温泉、楽しんでくれたようですよ?」

「そっか。よかった」


 それからまた、すこしだけ薔薇の匂いが、色濃く感じて、おもわず女将さんに聞いてしまった。


「ここの温泉って、薔薇が入っていたりします?」


 なんのきなしに聞いたけど、女将さんは頬を赤らめた。


「そういうプレイを楽しみたいとおっしゃるのでしたら、ご用意いたしますが。ちなみに、本日は混浴の場も用意してありますが?」


 わ、とんでもないことにっ。


「ご、ごめんなさい。あたし知らなくてそのっ」

「うふふっ。そういう現場を任されることもありますしね。そういうのは、浴場をいつもよりしっかり洗わなければなりませんしね」


 あー。あたしのおバカさん。まさかこの話題でここまで引き伸ばされるなんて思ってなかったー。


「み、みんなは食堂ですかね?」

「そうですね。お酒の好きな方は、地酒を召し上がったりしますけど」


 うぐ、地酒!! 飲みたい。


「あたしも地酒飲みたいなぁ。病人だからだめですか?」

「せっかくですからねぇ。ちょっとくらいならかまいませんでしょう?」


 やった!!


「じゃ、あたし。着替えて食堂に行きますので。女将さんも自由になさってください。あと、面倒を見てくださって、ありがとうございます」

「いえいえ。では、わたくしはこれにて」


 上品な仕草でふすまを閉めるけど、ふわふわの尻尾はやっぱり触りたい。


 あ。あたしのスマホ。マチ子さんからメールが来てるかもしれない。


 丁寧に畳まれた服の中を探すけどなくて。


「あ。もしかして」


 やっぱりあった。アカリさんからもらったカバンの中にぃ〜。


 ……ポーチ。


 マチ子さんと一緒に作ったおそろいのポーチがここにある、ということは。非常事態発生ってわけね。


 おーけー。伊達にお芝居やってきてないんだから。


 つづく

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