第9話 優しさという責苦
◆
気づいたときには、私はコートに寝転び、激しく胸を上下させて必死に空気を貪っていた。視界には真っ白いドームの天井。遅れてガラの悪い客たちの声が聞こえてきて、次に私を呼ぶ声がしたかと思うと、視界に医学トレーナーのアーネストの顔が現れた。
いつになく真剣な顔だ。
遠くから声が聞こえてくる。
「……リーナ! マリーナ! 大丈夫か!」
言葉で答えたいけれど、呼吸の乱れのせいでうまく言葉が出ない。息を吐きたいのにその息が肺には既になく、では息を吸おうとしても肺が不規則に痙攣して、うまく吸えない。
「深呼吸しろ、マリーナ! 落ち着け!」
アーネストは私の脈を取りながら、声をかけてくる。
視野が暗くなったり明るくなったりするが、それも次第に落ち着いてきた。呼吸も整ってくる。アーネストも最初の狼狽がなくなっている。
一度、眼を閉じた。そうすると空気の熱気と、全身を濡らす異常な汗が体を冷却していく心地よさがわかってきた。
「……レースは?」
私はそれだけ、どうにか言葉にしたけれど頼りないほどかすれた声だった。
答えは、私の肩を何度も叩くアーネストの動作だけで先にわかった。
「お前が一位だよ、マリーナ! 最後に一気だった。鮮やかだったぞ!」
どうも、としか返事が出てこない。
これで今季は三連勝だと考えた次には、一つ上の階級へ上がるにはあといくつの勝利が必要か、考えていた。
しばらくするとレースの主催者が用意した医療チームが来たけれど、私は自力で立ち上がることができた。他の選手を見ると、大抵が自分の足で立っているが、一人が心肺蘇生の最中だった。そこから無理矢理、視線を剥がす。すると今度はレース中に事故で転倒した三人がストレッチャーで運ばれていくのを見ることになった。
私があそこに加わっていないのは偶然だ。
薬物の過剰投与に体が耐えられなければ死ぬかもしれないし、激しいレースの中で事故を起こせば、身動きがとれないほどの大怪我を負うこともある。
自分にその不運が降りかかるのは、次のレースかもしれない。
今日は、運が良かった、ということ。
アーネストとともにコースを離れると、一人きりでウィンストンがまっすぐに立って待ち構えていた。もともとは競技者であったことをうかがわせる姿勢の良さだった。
私に気づいても眉一つ動かさない。目と鼻の先の間合いで初めて彼の表情に感情らしいものがほんのわずかに浮かぶのが見て取れる。
かすかに得意げでありながら、冷笑するような独特の表情。
彼はアーネストほど、本音を表には出さない。
「普段通りにできたか、マリーナ」
そっけない口調で声をかけてくるコーチに思わず笑ってしまう。隣を行くアーネストが不満げなのも可笑しい。
「まだまだだね」
整ってきた呼吸で、精一杯の虚勢の調子良さで答える私に、ウィンストンが何でもないように鼻を鳴らす。
「当たり前だ。いつも通り、普段通りとは程遠い走りだった。みっともないほどにな」
私は鼻で笑い返すだけで「あんたが走れば」とは言わないでおいた。それくらいの良識はある。今はレース中でもなければ、コースの上でもない。私はレースと日常を区別する派だ。
行こう、とアーネストが私の背中を押して促す。ウィンストンも私の横にはさりげなく寄り添った。二人に挟まれる形になって、どこか気恥ずかしい。
彼らの行動は労る心もあるだろうが、それよりも私の足の運びのぎこちなさを気にしているのは間違いない。
二人の優しさを、素直に受ける権利はない。
レース後につきものの足の震えを、あらん限りの集中力を注いで誤魔化していた。
レース用の薬の副作用だが、本来ならアーネストに報告するべきだ。危険な副作用は早く発見しなければ選手生命、それどころか生死そのものにさえ関係する問題になる。
けれど、この震えは勝利と表裏一体だ。震えあるからこそ、勝つことができた。
もし震えが来ない薬に切り替えたら、勝てないかもしれない。
死ぬことよりも、勝てないことの方が怖いのはどこかおかしいだろうか。
私は私を支えてくれている二人を裏切っている。
私が横顔を見ているのに気づいたのか、不意にアーネストがこちらを振り返る。彼は何か言おうとして、それより先に私が瞬間的に緊張したのを見て取ったようだった。何を察したのか、何を感じたのか、結局、彼は何も言わずにまた前を向いた。
アーネストもまた、何かから目をそらしているのかもしれない。
あるいは私の命から。
背中にウィンストンの手が触れているのを感じた。
ささやかな私を責めるような二人の優しさが、今は私を進ませる。
私は先へ進む。
命を捨てるとしても。
自分の最大値を更新するために。
何もかもを投げ出して。
私を支える二人は悪魔かもしれなかった。
私を死者の国に案内しているのかもしれない。
でもその悪魔の力を借りれば、私は夢を叶えられる。
人生に意味を与えられる。
カレッジに入った頃の夢は、人間の限界に挑むことだった。
今は違う。
今の目的は、人間を超えることだ。
私ではない私になること。
私たちは控え室まで、寄り添ったまま歩き続けた。
明るい言葉は空転し、空気は暗い。
しかし誰も足を進めることはやめない。
足を止めるのは、走るのをやめるときだと、三人ともが知っていた。
(了)
瞬間最大≠ME 和泉茉樹 @idumimaki
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