第6話 答えの所在

       ◆


 いいかい、マリーナ。

 医療トレーナーのアーネストはタブレットでグラフを見せながら説明した。初めてのレースに出る前のことだ。

「きみに投与する興奮剤は常に終盤にピークが来るように調整してある。だからきみは逃げ切るような走りはできない。末脚でレースを制するというのが、僕とウィンストンの作戦で、これはきみに身体能力とも合致しているはずだ」

 これはスカウトマンのリチャードの時もそうだったが、身体の詳細なデータはいくつかのしかるべき人々の間で共有されることがままある。違法すれすれ、もしくは違法だったが。

 今は私は正式にアーネストに自分の体に関するすべてのデータを開示していた。彼は私の月のものの周期さえも把握しているはずだった。

「いくらかの誤差はあるが、ゼロヨンでにおける最後の直線、五〇メートルできみは一番、力を発揮するわけだから、そこまではひたすら辛抱だ。レースプランはウィンストンの管轄だけど、先頭から引き離されずについていき、事故さえ起きなければきみの爆発力は早々、負けるわけがない」

 自信満々のアーネストに、私は笑うしかない。そんな私にアーネストも笑っている。

「科学者は信じるものだぞ、マリーナ。科学は神への挑戦なんだ」

「人間を人間ではなくすることが、神への挑戦ですか」 

 当時の私はそうやり返したが、今の私だったら決してそんなことは言わない。

 アーネストの調合した薬は、間違いなく神への挑戦だし、それどころか、人が踏み込めない領域へ、神秘の階へ、一歩も二歩も踏み込むものだった。

 あの時のアーネストの得意げな顔、そして「体感すればわかる」という言葉の意味を、初めてのレースで理解し、私はこの医療トレーナーを崇めることになった。

 アーネストはウィンストンとは違い、レース後の私を勝っても負けてもバーへ連れて行った。今時珍しい古風な店で、アーネストの馴染みの店らしかった。

 彼は酒を飲むと口が軽くなったが、例えば怒り出したり、泣き出したりはしない。淡々と、話すのだ。それは普段の彼の明るさとは正反対だったが、それはそれで人間らしくはあった。

 彼がそんな酒の入った席で漏らした話に、彼の息子の話があった。

「薬物の副反応が出て、寝たきりになり、そのままだよ。製薬会社と裁判になったが、それであの子が元どおりになるわけではない。薬とはそういうものということさ」

 私は隣の席に座る医療トレーナーが何のために私に薬物を投与しているのか、考えていた。

 薬の可能性を信じているのか。それとも薬というものの不完全さを証明しようとしているのか。前者なら私は人間ではなくなり、後者では私は破滅する。

 どちらにせよ、覚悟の上だった。私は一人のトレーナーに身を委ねているのだ。

 私を私ではないものに変えてくれる彼に心酔さえしている私には、自分の体や命など、どうでもよかった。

 あるいはこれを共依存というのかもしれないが、そんなこともやっぱりどうでもよかった。

「僕は君を殺すかもね、マリーナ」

 手元の琥珀色の液体の入ったグラスを見ながら、アーネストがそんなことを呟いたこともある。

 私は私のグラスの中身を一息に飲み干し、カウンターに叩きつけるようにグラスを置いて、はっきりと答えた。

「それくらいしてもらわないと、レースには勝てません」

 そうか、と消え入りそうな声でアーネストは答えた。

 この時の彼はしばらく身動きを止めて、じっとグラスの中を覗き込んでいた。

 そこに答えを探すように。

 私は答えがどこにあるか、知っていた。

 レース。

 そして、私の未来だ。



(続く)

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