第5話 殺意

       ◆

 

 一〇〇メートルの直線を息もせずに私は駆け抜けていく。

 先を行く三人のうちの一人が鼻に肘打ちをくらい、血を飛び散らせながらぐらりとよろけるのが視界の端に見えた。それでもその選手は当然、走るのはやめない。

 いつも通りに。私はその一念を唱えながら、体を動かし続ける。

 全身が燃えているように熱い。

 心臓が信じられないほどの速さで脈を打っている。そのまま破裂しそうだ。

 血液のめぐりが限界に挑み、その激流で毛細血管は破裂し、体の細部まで認識できるような錯覚があった。

 私は走る。

 ただ走る。

 ついに一人が横に並んだ。追いついた。

 先頭から脱落した一人だ。

 顔面が血だらけだった。血走った、殺気に満ちた瞳が私を一瞬だけ睨みつけた。

 彼女が露骨な腕の振りで私の顔面を狙ってくる。ネイルアートが施された爪の先まではっきりと見え、いやにゆっくりと迫ってくるのが見えた。

 やはりゆっくりと私は首を傾けて、全てが緩慢な世界の中で危険な一撃を避けた。

 頬を爪が掠める。それだけだ。

 腕を空振ったその選手はいよいよ完全に姿勢を乱し、並んではいるがもはや最適な姿勢は取り戻せないはずだ。私は姿勢を保っていた。

 いつも通りに、だ。

 二人を追う形でコーナーに突入していく。

 今度は遠心力を使って外側へ膨らみながら無理やりに加速。走る距離は伸びるが勢いはつく。隣にいたはずの選手はもう見えない。後ろだ。

 先を行く二人が私よりわずかに早くコーナーを立ち上がっていく。遅れずに私もコーナーを抜けていく。

 最後の直線は五十メートルしかない。

 私は一番外を駆け抜けていく形だった。

 レースの最初から先頭を走っていた二人との距離がみるみる狭まる。

 二人も必死だが私も必死だ。

 不意に急に体が軽くなった気がした。

 この時が来た。

 ゾーンのようであって、ゾーンではないもの。

 薬物が生み出す、私を私ではなくす瞬間。

 私を、人間から逸脱させる、逢魔時。



(続く)

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