第4話 いつも通り

      ◆


 腕を振れ。顎を引け。地面を蹴る角度に注意しろ。

 コーチのウィンストンという人物は、グレイズ社のトレーニング施設で初めて会った時から無愛想だった。

 しかもこの手のコーチにありがりな、声を張り上げるようなところは少しもない。

 私が練習場のトラックを走っている間は、時計を見ているばかりで何も言わない。私が走り終わって水分を補給している時に近づいてきて、ボソボソと声をかけてくる。

 だから私は最初、このコーチを信用していなかった。彼の言うことがどれほど正しいか、わからなかった。

 そのイメージが覆ったのは、練習の最中、古傷の右膝に痛みが走った瞬間だった。

 私はトラックでインターバル走をしているところだったが、痛みにわずかに足をかばった次には、いきなりウィンストンがトラックに駆け出してきて私を止めたのだ。

「休め」

 ウィンストンはまずそう言うと、私の足元にかがみこみ、即座に右膝に両手を添えてきた。

「そこまでの痛みじゃないですよ」

 そう言う私にチラッとしゃがんだ姿勢の彼はこちらを見上げると、しきりに私の膝を確認し、ボソボソと答えた。

「いいから、休め。ドクターに診てもらえ」

 私は抵抗しようとしたが、ウィンストンは頑固なほどに私をトラックから追い出し、結局、私は彼の言う通りに私のサポートチームの一員である医学トレーナーのアーネストの元へ行くしかなかった。

 行ってみると、しかし私はウィンストンの判断が正しいとアーネストに指摘された。超音波を利用した診察器具で膝の状態を確認したアーネストがウィンストンの意見を肯定し、さらにしばらく安静するようにとも付け加えた。

「些細な痛みですよ」

「ゼロヨンの選手は自身の身体機能で自身の体を壊すことがある。きみの今の状態では、おそらく重度の怪我に結びつく。休むべきだ」

 コーチとは対照的に饒舌なトレーナーは、コーチとはまるで別の、しかし無視できない威厳でそう指摘した。

「あの男を信用しろ、マリーナ。悪い男ではないよ」

 アーネストはそんな言葉も私に向けた。

 私はその頃、ゼロヨンの一番下のクラスであるCリーグのレースに出始めた頃で、勝利に飢えていたし、休むことに否定的だった。それでもコーチとトレーナーを無視することはできなかった。

 それがこの軽い怪我の間に、ウィンストンをさらに信用する機会があった。

 二人でレースを見に行ったのだが、彼はあるレースの前にボソリと「三番は負ける」といきなり言ったのだ。三番のゼッケンの選手は特に他の選手と違いがなく、彼が何を言っているのか私にはわからなかった。

 だが、彼の言うことは正しかった。

 スタートしてからコーナーを抜けて直線を走っている途中で、三番の選手は一人で転倒して脱落したのだ。

「動きに違和感があったからな。怪我をするのは自明だ」

 ウィンストンは気むずかしげな声で唸るように言うと、私を横目に見た。

「いつも通りでいることが何よりも重要だ。いつも通りではない時に事故は起こる」

 そして視線をトラックに向け、最後にこう付け足した。

「レースの最中もいつも通りでいることだ」

 私はウィンストンの指導を受け、ゼロヨンで勝利を重ねていった。

 ウィンストンが喜びを露わにすることはない。私が勝っても彼はいつもと変わらない。どんなレースの時も出走前には「いつも通りに」と声をかけ、レースが終わるといくつかの改善点を指摘してくる。それが変わることはない。



(続く)

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