第2話 契約
◆
きみがマリーナだね?
そう声をかけてきた男は、いかにも高級そうな背広を着た、しかし背広の価値に釣り合わないような若い男だった。
私はカレッジの医務室を出て、これからリハビリのための訓練室へ向かうところだった。
私はこの学校へ陸上競技の特待生として入学したものの、一年目のシーズンで怪我をして、その影響でこの学生二年目のシーズンも無意味に浪費する境遇だった。
そんな私に嬉しそうに声をかけてきた男の笑みは、人がいいように見えて、どこか詐欺師を連想させた。
「どなたですか?」
私が訝しげに問いかけるのに対し、男はそれだけのことでも嬉しいように笑みを深めた。
「僕はリチャード。スカウトマンだ」
「スカウト……?」
今の私をスカウトする人間などいるはずない。当たり前だ。怪我人で、リハビリの最中で、悲観的に見ればアスリートとしてもはや転落しつつある選手だった。
そんな私の内心を読んだように、リチャードを名乗る男性は頷いている。
「きみの身体能力を僕は評価している。この学校より優れたケアを約束出来る。すぐに怪我の影響も消えるだろう」
胡散臭かった。確かにこの学校の医療スタッフやトレーナーは一流とは言い難いところがあった。そもそもここはトップクラスの学校ではない。
「あなたはどこのチームに所属しているんですか? リチャードさん」
「グレイズ社」
素っ気ないほど簡単に、簡潔にリチャードは答えた。
グレイズ社。その社名が何を意味するか理解した時、私は背筋が冷えた。
「ゼロヨンですか?」
思わず核心に踏み込んでしまった私に、察しがいいなとリチャードは相好を崩した。
「そうだ。薬物強化された選手が、暴力ありでトラックを一周するだけの競技だよ」
私もその競技のことは知っていた。
適性のあるものが常習的に様々な薬物で身体を強化し、人間の限界を超過した運動能力で行う短距離走。
年に何人もの死者さえ出る、危険な競技であり、そしてギャンブルの対象でもあった。
選手の報酬は桁外れだが、ありとあらゆる意味で危険な競技だった。暴力で死ぬか、事故で死ぬか、薬物で死ぬか、そんな未来しかない。
「ここで時間を無駄にするかい」
言葉のない私に、リチャードは軽く肩をすくめる。
「僕は何も、きみに死ねと言っているわけではない。うまくすれば死なずに、莫大な財産と栄光を掴み取れる。そのチャンスが今、僕の形をしてきみの前にあるわけだ」
無意識に喉が動いて唾を嚥下しようとしたが、口の中はカラカラに乾いていて喉が引きつっただけだった。
私は何も言えないまま、人気のない廊下でリチャードと向かい合っていた。
彼は奇術じみた動きでどこからか名刺を取り出すと、こちらに差し出してきた。
受け取ってはいけない、と思った。
しかし私の手は間をおかずに彼の名刺を受け取っていた。
「気が向いたら連絡してくれ。いつでも待っているから」
私は無言で頷いた。
去っていくリチャードを見送る私の両足は、知らず、震えていた。
(続く)
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