瞬間最大≠ME

和泉茉樹

第1話 号砲を待って

       ◆


 燃え立つ熱気がスタジアムを満たしている。

 拍手、歓声、怒号、罵声が一緒くたになった無数の声の重なり合いをスピーカーが発する重低音のビートが煽り、スタンドの熱は天井知らずに上がる。

「続いては第三レース!」

 アナウンスの声さえもありとあらゆる言語のありとあらゆる暴力的な爆音にかき消される。

「いいか、マリーナ。最後まで粘れ」

 コースへ出る前の私に、医学トレーナーのアーネストが声をかけてくる。時計を確認してから、彼は慣れた手つきで注射器の針を私の肘の内側の血管へ直接に刺し込み、薬物を投与した。

「薬が効くまで時間がかかるが爆発力はある。後先考えずにやるんだ」

「了解、ドクター」

 注射器の中身を空にしてから私の肩を叩いたアーネストは、レースを見守るモニターの前に足早に移動していく。

 次にコーチのウィンストンが待ち構えていたが、彼はただ肩に手を置いて「いつも通りにな」と言っただけだった。

 いつも通りに。

 まったく、落ち着かせてくれる。

 肩に残る手の硬い感触だけで、薬の影響で早くも脈拍が速く強くなっているのに、気持ちだけは冷静になる。

 私はゆっくりとコートへ出る。

 待ち構えているのは照明に照らされた一周四百メートルのトラック。

 これから始まるのは、トラックを一周するだけの簡単なレースだ。

 しかし一般的な短距離競技とはまるで違う。まずレーンで分かれていない。既に先へコースに出ている同じレースを走るアスリート六名が、スタートラインで位置取りをしながらもみ合っていた。私の後から出てきた一人もそこへ割り込んでいく。

 ただ「ゼロヨン」とだけ呼ばれる、四百メートル走。

 しかしこのレースはなんでもありだ。露骨な妨害ですら、全てが許される。

 私も集団の後方で位置を探り、アナウンスがこれから走る八人の名前を呼び上げていくのを聞く。

 早く走らせてくれ。薬という一瞬の夢がこれからやってくるのだから。その夢がちんたらしたアナウンスのせいで無意味になってしまったらどうする。

 同じ女性とは思えない筋骨隆々とした選手が、肩をぶつけ合い肘をぶつけ合っている様子は、お淑やかとはとても遠く、スポーツマンシップともはるかにかけ離れている。

 この競技は全員が薬物を使う。

 人間の体の限界をどこまで極めるか。それを目指すのでは一般的なスポーツと大差ない。

 このレースは違う。

 人間の限界をどこまで越えられるかを競う。

 心臓の動悸が激しくなるのは緊張のせいだけではない。薬の効果がもう如実に出ている。アナウンスはついに最後の選手の名前を呼び、いよいよレースが始まる。

 この時だけは客席も静まり返った。選手同士の罵声がやけに響く。

 レディ。

 私は外側に進むが、スタートラインにピタッとつけるわけではない。でも同じ目論見の選手がいて妨害してくる。

 セット。

 割り込もうと揉み合う間に、既に号砲が鳴るのは目前。

 聞き間違えようのない破裂音と同時に、全部が動き出す。

 この瞬間に爆発したはずの喚声も私には聞こえなかった。

 全ては置き去りになり、見えるのは前方だけ。



(続く)

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