夕暮れの際、足元では水流が鳴っていた。

 飛沫を散らしながら泡立つ川面と、濁った水面をゆっくりと流れる落ち葉と。幅数メートルの小さな橋の上で、僕はカメラを担いだままぼんやりと川を見ていた。

 釣り糸を落とす人もいない、寂れた川だった。水も決してきれいだとは言えない。流れは思いの外早い方で、しきりにざあざあと流れる水音が、僕の意識をどこか遠くへ引っ張っていくようだった。

 多摩川の支流にあたるこの川は、僕の学校のすぐ近くを流れている。今日はここで撮影をした。とはいえ、いつまでもここに残っているのは僕だけで、皆はもう学校に帰ってしまったらしかった。

 黄色みを帯びた光が、空を柔らかく覆っている。日が沈むにはまだ時間があるが、なんとなく戻る気にもならず、僕はただ川面に目線を投げる。

 ぷかりと浮かんでは沈むペットボトルの頭が、橋の上からひとつ目に映った。誰かが投げ入れたものなのだろう。少し目を離した隙に、そのペットボトルはもう何処に行ったのかわからなくなってしまった。鏡のように景色を映す水面だけが、僕の目の前に小さく揺れている。

 僕はこの景色にカメラを向けようとして、やめた。こんな景色に面白みはあるのだろうか。暖かな黄色に染まった空は確かにきれいだったけれど、でも、それだけだ。

『昌人ってなんのためにカメラマンやってる?』

 今日の放課後、ここに来るまでの道のりで亮也にそう訊かれた。僕はその時うまく言葉が浮かばず、「亮也は?」と苦し紛れに返した。亮也は悪戯っぽい瞳のまま「んー、そうだなあ」と含み笑いをしていた。

「監督んなってさ、色んな映画作って、ゆくゆくは女優と結婚したい」

 冗談めかした声音だったが、本気なのかそうじゃないのかはわからなかった。「なんだよそれ」と僕が返すと、亮也はけらけらと愉快そうに笑って、「嘘うそ、映画が好きだからやってるだけさ、俺は」と頭の後ろで手を組んだ。

「……昔。そうは言っても中学生くらいの時だけどさ。親父と、姉貴と、ある映画を見たんだ。青春モノなんだけどぜんっぜん爽やかじゃなくて、運動も勉強もできるし恋人もいるような『上』の奴らとか、息をひそめて動かなきゃいけない『下の方』の奴らとか色々でてきて、これがとにかく生々しいんだよ。けど、結局強いのは下の方の奴らなんだ。なんでって、自分の好きなものをちゃんと持ってるから」

 だから、俺も好きなものを追いかけていきたいんだよ。さっきとは打って変わった真面目な顔つきで、亮也が言う。

「それって、桐島?」

 僕が尋ねると、「やっぱ知ってる?」と亮也が嬉しそうにこっちを向いた。

「そりゃ知ってるよ、僕も見たことあるよ」

「そっかー。いいよな、今まで何回も見てるよ、あれ。でも俺、監督ならタナダユキが一番好き。『百万円と苦虫女』とかさ」

 好きなものについて話しているときの亮也は、宝物を目にした子どもみたいな、とても無邪気な表情になる。僕はそんな彼の輝きを目にしながら、さっき投げかけられた亮也の問いをずっと考えていた。

 なんのためにカメラマンをしているのか。

 撮影が終わって、橋の上でぼーっと突っ立っている今も、僕はそんなことをずっと考えている。

「昌人くん何やってんの?」

 突如として、背後で声が聞こえた。振り向くと、赤羽先輩がいた。西日を正面からいっぱいに受けて、僕のことを覗く目が、光をたくさん反射していた。光の加減のせいか、髪色がいつもよりも明るく見える。

「黄昏てただけです」

 僕は動揺を悟られないよう早口でまくしたてた。「そうなんだ、付き合っててもいーい?」と、先輩が僕の横に並び、橋の手すりに肘を乗せる。長い髪が風を受けてばらばらと舞い散った。

 右手に携えたカメラが重かった。僕はそれに左手を添え、夕焼けの街を眺める先輩の横顔にレンズを向けた。黄色い陽を映す先輩の瞳と、整った横顔と、耳に光るピアス。頬に添えた手の指の爪は、丸くて少し長い。

 気まぐれで録画を始めると、いくらも経たず「ちょっとお」と先輩がこっちを向く。怒った顔を作っていたのは最初だけで、しばらく僕をどやしつけていた先輩は、途中で表情が崩れて言葉も笑い混じりになっていったけれど。

「先輩は、どうしてシナリオを書いてるんですか」

 ふと思い立って、僕は先輩に訊いてみた。何、急に、と僕を訝しんでいた赤羽先輩は、しばらく考え込んだ後、「そうだねえ」と顎の下に手を添える。

「楽しいから。言ってしまえばそれだけだけど、なんだか満たされる気がするんだよね。自分の中の足りないものが、埋まっていく気がして」

 言って、先輩はもう一度橋の向こうへと目線を移す。「誰かがね、言ってたよ。人は心の隙間を埋めるために創作をするんだって。何かが不足していない人はね、そもそも何かを作り出そうと思わないんだよ。たぶんね」

 先輩の指が髪を掻きあげる。「なんちゃって、ちょっと格好いいこと言っちゃったかな、私」と、小恥ずかしそうにおどけてみせる彼女は、そのまま手すりにもたれかかって、前のめりに視線を落とす。遠くで電車の走る音が聞こえた。

「なら、先輩、小説は書かないんですか?」

「うん。私は、映像の力を信じてるから」

 即答して、先輩は「『リリイ・シュシュのすべて』って、見たことある? 岩井俊二の」と僕を振り返る。名前を聞いたことはあったが、見たことはない。僕が首を横に振ると、「そっか、じゃあ今度貸してあげるよ。名作だから」と彼女は強い眼差しで僕を見た。

「もう十年以上前の映画なんだけどね。うちにあったDVDで最初にあれを見た時、私、すごい感動したの。映像は言葉も超えるんだって思った。映る景色、音、役者の演技、全部がぎゅーっと集結して生まれるのが映画のパワーなんだって。決して明るい話じゃないけど、そういう部分も含めて、私はこの映画の全部が好き」

 なんかごめん、熱く語っちゃって。先輩は気恥かしそうに言って、誤魔化すように「昌人くんは?」と重ねる。「昌人くんは、なんでカメラをやろうと思った?」

「僕は……」

 答えはすらすらと口から出てこなかった。ずっと考えていた答えは、未だに見えてきていない。何か足りないものを埋めるために物語を作るというのなら、過剰なものを持っている者がそれを振り落とすにはどうすればいいのだろう。

 もてあましているものから逃れるため。そういうのとも少し、違う。

「僕はたぶん、僕のいない世界を映したいんです」

 気付くとそう口走っていた。なんでこういうことを言ったのかは自分でもわからなかったが、赤羽先輩が「なんで?」と僕を覗くので、僕は一生懸命に答えの続きを考えた。

「……僕って潔癖症じゃないですか。僕、たまにそういう自分が馬鹿らしくなるんです。カメラを覗いて、自分で作った縛りから解放されると、すごくよくわかるんですよ。自分で色々抑制している癖に、自分が思ったよりも疲れているんだってこと」

 脈絡ないことを喋っている自覚はあった。それでも先輩は、僕の話に耳を傾けている。

「自分のいる世界を汚く見せているのは僕自身なんです。だから、僕の目で見るよりも、カメラを通じて見ている現実のほうがずっときれいなんです。たぶん、そこに僕の意志が存在しないから」

 自分勝手。我がまま。今まで言われてきた全てのことを飲みこんで、僕はそんな思いを口に出す。僕のいない世界はどれだけきれいなのだろうかなんて、そんな感傷的なことも考えながら。

「昌人くんは、世界の受け止め方が丁寧なんだよ」

 先輩がぼそりと呟いた。どう反応していいかわからないでいると、「ちょっとそれ貸してよ」と先輩が僕のカメラをひったくる。

 世界の受け止め方が丁寧、なんて。僕のこの性質を、そんな風に言葉にされたのは初めてのことだった。どうしていいかわからない僕に向かって、「やだっ、意外と重い」と呟きながら先輩がカメラを構える。

 きらりと光る丸いレンズが、僕の目を捉える。咄嗟のことに身体が固まって、それで表情も硬くなったのか「笑顔笑顔ー、カオ硬いよーっ」と先輩が囃すように笑う。

「だいじょーぶ、昌人くんのいる世界だって、いつも通りめちゃくちゃきれいなんだから」

 カメラを抱えたまま先輩が言った。

 息が詰まって、次の言葉が喉から出なかった。強い夕陽に目を焼かれて、僕は、じりじりとした痛みを瞼のうちに感じた。

「ちょ、もう、何泣いてんの」

 赤羽先輩がカメラから目を離す。夕陽が眩しいだけです、と言って、僕は滲む視界に強く目をこすった。

 世界が初めて僕を受容してくれた気がした。


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